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昨年の春に撮影したときのにこさん。

にこさんがやや不調でした。
2月1日で19歳と2ヶ月になりました。
食事はよく食べてくれるのですが、心配なところが...非ステロイド剤を用いた炎症治療について、獣医の先生から助言をえているので注意深く見守ろうと思います。
白内障がすこしずつ悪くなっていると思いますし、目が見えにくくなっているということは、短時間の留守番なども不安なはずであり・・・
寒さと私の不調が影響したのか、お腹の具合もわるく、以前処方してもらった薬を1日2回のませ、少し回復してきましたが。

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よくよく観察して、必要なことはなにか、身体に負担がかからないようにしなければと思います。

私にとって動物はペットとはいいきれない。飼われた時点で、それは飼い主にすべてが握られている。おそらく、犬やねこを家に向かいいれたとき、何かしらその人にとっての危機があったのだ。現に私が自覚するかぎりでは、にこさんはそうした求め(要請)によって私が生きることを引き受けたのだ。それをやはり真っ当する義務があろう。・・・・昔は3.5キロくらいあった体重も2.3キロくらいになっています。
とはいえ、元気なときはとても元気ですし、実家に私が通って世話していたときよりはずっとのびのびと暮らしています。
私が我慢ならなかったのは、実家の人々が「もう歳なのだから長くいきるはずはない」と蓋然的になって、必要なケアもしようとはしなかったことです。なぜ自分がやりたくないからやらない、ということを正当化できるのか、仕方がない、といえるのか、しかもケアの仕方も迷信的でまったく個体のためにはなっていない・・・自分の主張しかしない、原因やどうすれば状況が改善されるかということを一切考慮していないので、それまでも私にはほとんど余暇というものはないので大変といったら大変なのですが、看過できない状況になったのでした。

今、特に肉体と精神とは何か、理性や知性とは何か、そして「生きること」とは何を示しているのか−・・・ルネサンス人たちが、アヴェロエスやイヴンシーナのアリストテレス註解を読んでそれを解釈したとき、また人間の感覚や知性といったものについて13世紀でさまざまに解釈されたことを観ながら文章を書くとき、そのことを思ってしまう。

やっと先週仕事や期日が決まっている手続きなどが一段落したので、(その間も13世紀のアリストテレス受容(トマスーおよびラテン・アヴェロエス主義など。マレンボン著作とジルソンほかとプラトン受容について、読んでいたのですが)午前中から夕方まで図書館へ行くことができました。(同じく論文を書いている方ともお会いすることができました)

書く、読むという作業をおこなっているときと、それが「正しいのか」と客観視するときになると、まったく確信が持てなくなる。何か見当違いなことを関連付けてはいないか? とはいえ図書館で集中していられるときは一番よい・・・こうした時間がもっと取れるといいのですが、そうもいかない・・


そしてルネサンス時代というのはそれ特有のことがらもあるのだが、多分に中世に拠っており、かつアリストテレスとプラトンが神学から距離をおいて世俗でも読まれ始めた時期でもある。だがこのテーマも1500年に入ると、否同時代でさえもかなりばらつきがあり、影響力があったものほど、あまり正しくは読まれていなかったし、ことそれがヴェネツィアや北イタリアなどでは、受容され拡大するにつれ大きく意味がそぎ落とされているということだ。

受容には、それを受取る側が多分に意味をゆがめてしまうものだ・・・

最近、芸術関係のフライヤーや公演概略を読んでも、どこか見当違いな説明がされてるように思えてならない・・・ 即物的にしかとらえようとしかしないからなのでしょうか?

From feudal self to spender.

他のことはともかく自分の間違いに気がつけるようにしたいものです。