私が現在購読しているのは東京新聞です。理由は主に、いわゆる「大手」新聞では掲載されないような記事があるため。例えば、大手新聞では動物愛護的な記事は掲載されないが東京新聞はとりあげている。
(大手の態度はスポンサー・企業への配慮であって読者のためではない面がある。多くの生活用品を扱う大企業では動物実験を(欧州では法規制があるのに)行っており、あまり代替実験もしていない)
記事として読み応えのあるものが多いこと。公告が少ないこと。
(私は以前、読売新聞の広告を計算したことがある(あるレポートのためにそうする必要があったからなのだが)実に6割が公告だった。それに読売新聞の見出しの短絡さに驚く。)

先日、佐々木毅氏が現在の政治についての記事をかいており、"目先のことにあまりとらわれないこと"を挙げていた。
この点に関しては私も同感なので記事にする次第。
というよりも、政治家のかたがたは目先のことばかり気にするのだ。実際に、ought(当為)の話を意見として口にすると、「この人は個人的な文句や不満を言っているのだ」との見方でしか受取らないことが多い。(市町村、はては国会議員の区別なく。だいたい奇妙なことに政治家にも内部的ヒエラルキアがあるのだ。例えば市町村議員を数年経験した人が、次は県議、そして国政、さらにその経験の年数に応じて閣僚という具合に。こういう構造はあまり政党差もないようにみえる。あくまで個人的な経験による私見ですが。さらに行政・公務員や学校関係者の「議員」に対する平伏の態度には驚かせられる。本当にそうしているのだとしたら、代議制の意味を取り違えているし、ふりなのだとしたら、代議制自体が成り立っていないのでは。)
ということは、政治家のまわりにはそういった利害関係の話でしか近づかない人がよほど多いのだろう。そしてそういった個人的あるいは団体の利益を解決することが政治なのだと勘違いしているのではと思う場合が多い...

この点に関しては教育についてもある大手新聞M社の教育担当者と議論をしたことがある。しかしその人は当為などはさっぱり関係がない、という考えで、「そんなものは時代にあわせて変わっていくし、場所によっても違う」と言ったのだ>義務教育レベルの話。そしてそれ以上人の意見を聞こうとはしなかった。こうした態度自体が、間違いに気がつかないままなのではないかと思うことがある。しかも他人の話を聴いて自分の考えを疑ってみる、見直してみるということがまるでないのが気になったことがある。無論私自身が正しいとは思ってはいない...しかし現実にその権限についている人の言動に疑問が起こることがある。それゆえあれこれ考えたり読んだりせざるをえない。逆らうことが許されない、質問もできないという環境が助長されて萎縮したり生きられなくなってしまう人を沢山みているからかもしれない。


東京新聞に関して話を戻すと、もう一点は軽いコラムの話でこちらはフラメンコ舞踏家の小松原氏が書いていたもの(連載中)。

「我が家のしつけは厳しかった」といいながら、その例が「集団行動は病気がうつる、ぶどうやバナナを食べない、たべなれないものをたべると中毒になる」・・・などというもので、これを読んだ人がこうしたことを「しつけ」だと思わないことを願いたくなる気持ちになった。
こうしたものは迷信・盲信であって、しつけとはなんの関わりもない。
何か悪いものが「他人から、集団からもたらされるのだ」という考えはしらずしらずに因習的な排他性を正当化するのではないだろうか。>心性として。
この方は舞踏の大家でコラム中では、生家は大勢の弟子がいる、正月はご祝儀でいっぱいになるetc・・・とか書かれており、こうした正当さを疑う部分がないのだが、伝統と因習を取り違えるのはやめたほうがいい。
さらにこの連載では、「日々麻雀、ゴルフ、夏は海、冬はスキーなどばかりしていた&バレエをやっていた自分にはまるで社会的な問題は関心がなく別世界のことのようだった」と60年代を振り返っている。・・・こういう現実感覚とよりましな社会感覚の希薄さが、おそらく日本における芸術面の後進性を際立たせている要因のように感じてしまった。
私の思い違いならよいのだが?つまり、それぞれの「流派」が「自分こそが一番正しい」と勢力争いをするだけで、決して一つにまとまろうという気持ちがないので人材が育たない、そうした「場」を創設することもない。

先日ローザンヌを創設した方が亡くなったが、近代の芸術というのは、市民精神と不可分なところがあるのだが、日本の場合はこうした点があまり見受けられない。自ら価値をつくり、育て共有していこうという気持ちがあまりないように思われる。

とはいえ、この方(小松原氏)も劇団を経験したときにようやくはじめて社会のことを考えるようになったという。そして「それが何か違うのではないかと漠然感じた」とつづっている。この感覚はある意味で正しい。
演劇を通じて社会改良をしようということの限界は、たしかにある。アンガージュマンの芸術・文学というのはスタンスが難しいのだ。「気づかせる」「ほのめかしとしての表現」と、と観客や読者の考え自体を変えようと意図したり、恣意的にそれを目的とすることは異なるからだ。

(もう一つの「文化」の問題はより根源的な問題で、「文化」として国や地方の予算が投入されるものは基本的に「男性だけの機関」であることだ。私には、江戸末期の大衆娯楽であったはずの歌舞伎や相撲「だけ」を「伝統文化」とかんがえるのはナンセンスのように思われるのだが。また日本では曖昧だが「文化」というのは権力と結びついているもの(税によってまかなわれているもの)をさすのであって、TVや国会議員が「漫画は日本の文化」というのは間違っている。
サブカルチャー、というべきであり、「文化」に反抗する概念の文化はカウンターカルチャーとなる。要するにメディアの「ことば」に対する自意識が乏しいのではないだろうか。

いまだに新国立劇場には専属のオーケストラもないのである。よりましな市民意識(シチズンシップ)がある都市では毎日オペラかバレエを上演しているというのに、である。チューリッヒ、メトロポリタン(NY)、コヴェントガーデンなどこういう劇場は5つある。私が音楽史を学んだときからこうした状況は何らか変化しているのかどうか?)

教育は「他人の生で二度生き、必然の死を二度以上にすること、二度の甦り」・・・つまり自分の生が他人の生であるという気持ちのもとにあるものでは。クロード・ベッシー(パリ・オペラ座前校長)は卒業生たちが私の子どもたち、といっているし、エリザベット・プラテルもまた「教師は守護天使のようなもの」でありこのことは「よりよきもの」への誘引者であることを示している。日本の場合、こういう本質が、基本的に欠如していることが多くみうけられる(ように見える)のは残念に思う。

ヴェッラヴィスタ氏の言葉を引用しておく。
「サルヴァトー、ブルジョアたちとは一体何者なのかい?働かない人びとか?」
「平たくいえば、ブルジョワとは保守派であり、現状に満足し、貯金した僅かなお金を守ることだけ考えている人のことさ。ブルジョアだって働いているが、それでも社会の最低の連中さ。だって、物事を改善するための努力を一切しないんだからな。」

誤解する人々がいるので付け加えておくと、ヨーロッパ、フランスやイタリアではむしろ貴族たちのほうが、改革派であった例がいくらでもある。むしろ資産が少ない人びとこそが、それを後生大事にすることだけを考えていることが多いものだ。(また、私としては自立することに専念することを最低の連中とまではいわないようにしたい、が、それにしても、「自分は一切悪くない」と思うが故に、「悪いのは他人であって、より劣っている人たちだ」(何を基準にするのか、また自分がそのような立場にいないのは本当に、自分の努力や能力だけのせいなのか。自分がそうした立場になったら、ということを一切考慮しないという「多数」が、現状よりもより劣った再生産を行うのではないか、と思ってしまうのだ。また他方、やはり自分は悪くないという立場から動かず、寄生的な状況に甘んじて自立する意思もないという場合は、より最低である)

・・・現在の諸問題も実のところ15年前にはその根があるのであって、現在だけ考えていても何もみえてはこない。結局、僅かな努力で自分の欲望だけを追ってきた人たちが、所詮労働者・被雇用者であるという立場をかえりみず、「中流」意識をもちはじめたために、消費行動だけに終始し、現在のような雇用不安定が生まれた一面があるのでは。

因習と伝統をとりちがえるような、小松原氏のようなこうした記事を「よかれ」と思って載せているところに、新聞メディアの他者性がみえてこないだろうか。悪いことは全部「他」 「他人」のせい、こうした心理が集団化したところに、集団ヒステリーもおこるのではないかと思うのは杞憂だろうか。まだこうした記事は記名だからよいのだが、ネット上で配信されるニュース記事やダイジェストなどは、すべて責任所在のない匿名なのである。しらずしらずに戦前的な盲目的状況が拡大していないかどうか?
差別や独裁、ジェノサイドはつねに集団的な心理がそれを要求するのではないだろうか。多数者の安心と満足のために、そうした事態がおこるのではないか。

メディア・新聞が「何を言っているのか、情報として何を知らせているのか」ということは理解すべきである。しかしそれをすべて「信じる」ことはやめたほうがいい。ところが、それがものごとのすべてであって、情報とはこうしてもたらされるのだ、とほとんどの場合は鵜呑みにしているかのようにみえる。さらに問題なのは、ニュースが自動的に携帯メディアに配信されていることである。あたかも「能動的に」情報を得ていると思いがちだが、それは新聞よりもTVよりもより限られた情報で、一方的で限定されたものだということがどれほど意識されているだろうか?

もう一つの他者性。
朝日新聞の見出しにはこうある。
「日本に貢献する在日」・・・このひどく無自覚な言葉によって「何を言いたい」のか? あるいはここにこめられているほのめかしは何か?
そもそもすでに在住4世にもなる世代すらも排他的に眺める感情とはどこからくるのか?
「日本人」という概念は何か? そこで生まれ、育ち、働き、税を納めてもなおかつ、「異質」「差別感情」を有する感情はどこからくるのか?
民族意識やナショナリズムは、それしかよりどころがない人の、他人への優越感にすぎない。私がぞっとするのは「アーリア人優越」や「ゲルマン民族」や「大和民族」という漠然としたものが、「個人」を排斥するときの感情的なものである。ナショナリティは、国外から「個人」として出たときにはじめてつきまとうものであると自覚する。おそらく、無条件な差別感情をもちだすひとほど、「外」に出たことがなく、「個人」である自分を自覚したこともないのではないだろうか。ファッショな状況を多数者の要望が作り出すときの、無自覚な「力」は忘却されているだけで、「日常」と「平穏さ」の中につねにあるのではないか。

無自覚さが新たな過ちと忘却を生み出すのではないだろうか。
新聞ですらほとんど無自覚なまま記事を書いており、新聞やテレビが発表するものが「世論」「輿論」であると蓋然的になっていてよいのだろうか。


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