
ユニセフのレターセット、ブルー・フロレンテイン。
フィレンツェ伝統の柄を用いたユニセフのレターセットは以前も購入して使っていました。函入り。カードもついています。
フィレンツェは<花>からその命名がとられています。
ユニセフの製品は半分が活動資金として寄付されますので、お礼状、カード、グリーティングなどにもよく使っています。
あまり個人的なことを書くblogではないのですが、乾燥と冷えのせいか、免疫力が低下していたせいなのか、(控えめにいっても)あまり調子は芳しくありませんでした。
といいますか、自分の試験および娘の試験の前後は不調で参りました。そして大抵、仕事上の期日も重なっている(!)
常に問いがよぎる。現在何をもっとも優先すべきなのか?
質と速さ、これを複数追求し、しかもそれについての「よさ(good thing)」とみなされるものがそれぞれ異なるところが...。
そうはいっても、具合が悪いなどということは言い訳にはならない。
常に調子がいい人などいまい。
こういうとき「DO IT AGAIN!(AGEIN)」とコーネリアスのフレーズが頭をよぎる、ことが多い。のだが、
・・・それほど切り替えができないときもある。
日常的には、物事の切り替えを常に行わなければ1日も終るべくして終えることもかなわない。今日できることを明日にまわすなかれ、とは思うものの...
そして、日本の社会はいまだに母親というものは二次的あるいはもし「取替え可能なもの」という位置づけなのだ(要するに「物質的役割」として考えられている、と感じることが多い。(時々思うのだが、相談相手がいないことが現代社会の育児問題ではないく、「個人」の側面がなくなり、いっしょくたにされることが問題なのではと思うことがある。)
話を「日常」ということに戻すと、20時間くらいは活動していてあたりまえなので、これはなかなか容易なことではない。
あまりいいたくはないが・・・
(普通に生活していれば、ゴミ当番というものやら、地区の掃除なども周ってくるし、今年はまた自治会の役員なども担当することになりそうですし)
何日の何時までにおこなうという事務的作業はともかく。
「この時期は忙しいから大変ですよ、できることからやって必須なことだけをしないと、例えば料理なども作れるときに作っておく、」と聞くが、正直な実感としてはそうしたことは日常的に、もう何年も前から行っていることであって...。
このところ、シチュー、ミネストローネ、ブイヤベース、豆カレー、けんちん汁というように野菜が多くとれる(煮るものばかり...)ものばかりつくっていました。
朝用の野菜スープも欠かさず...。
日々、いくつかの時間軸がかさなりあう中で一巡りする。
ようするに1日は一つの1日ではない。ひとそれぞれの1日(24時間)があり、24時間営業が「あたりまえ」になっているような複数的な世界では、自分の時間にすら「他種」と「他のひと」の時間に関与せざるをえない。
要するに一つの世界、一つの時間軸というわけにはいかない。それぞれを成り立たせる必要がある。
(このblogに1日25時間と書いているのもそうした意味もある)
今もにこさんがやや具合がわるいときもあり...
「面倒なことは放棄する」「できなくてもしかたない」ということが、私には肯定できない...
自分は他を犠牲にしても、目的が達成できればよいとは思えないのだが、しかし自分が目的を達成できないことを他のせいにもしたくない。
継続して読んでいるものはイタリア、ラテン語、翻訳テキストと古典期ギリシアなのに対して(感覚と記憶、知について)試験で暗記していたのはドイツ語とその内容であって、しかも受容が大きく異なっており・・・
特にカント思想の誤解とアリストテレス詩学の受容、人間性というものの受け止め方が、まったく違うことなど...私は自己充足的なものに惹かれ、よりよいほうへ、ライトプレイスのほうへ向かうものに(自然に)惹かれるので、深淵に向かうようなものに抵抗がある...動機はわかるのですが、それによって人は認識をあたためることがあるのだろうか。
(共和制ローマを経由しない古代憧憬に何か理由があるのだろうか、とも思ったのだが、これは憶測にすぎない。)
要するに疑問だらけになりつつ、つづり字を含めて暗記していました。
基本的にすべてを読む、サイレント文字がないというのはイタリア語とも共通するが、G S の発音がとにかく違う。また世界を知るということがらが、悪に結びつけているのか、善に根ざしているのか、が全く異なる。
気管が弱っているからか、皮膚も弱くなるのでしょうか。
文章にするときに自分に対して感情的なことを書くのを好まないのですが、昨年も風邪をながびかせ疲労がたまり、ヘルペスとストレス性のアトピーのようなものが腕などに出て参っていた記憶が。
それとも花粉などのようなものの影響なのかどうか?
1月下旬はそれがあまりにひどくなったので、帯状疱疹なのではないか??と思ったほど。冷えも原因なのかもしれません。
夏は無理多少はできるのですが、冬は無理がきかないように思います。毎年それが高じているような気もします。
やっと病院へいき、まだ風邪・気管の傷みがなおりきらないと話し。
痛み止めを処方してもらいにいきましたら、主治医の先生に心配されました...(私の足腰のダメージは、短距離競技をやった人特有の部分があるのでなおすとかなおらないというものではないのですが。
自分の筋力と自己改善能力で健康維持することが大切というこの先生のもと今に至る。この先生の意見は、古代ギリシアのように医者=陸上競技者というタイプがはまるような方なので、少し遠いのだが、自力で回復できないときに相談。)
看護師の方には、「もう1ヶ月も前のことですよ?!」といわれたのだが、正直なところ「もう」1ヶ月経過したという時間感覚もないのでした。
・・・「まだ」も「もう」もないのです。
そうといっても月末ともなれば作業の締め切りもありますし、それなりに責任もあるわけで、やれるときになすべきことをなすべし、ということなのですけれど...

2月になろうとしているのに、まだはぜの木には紅葉したままの葉が。
(写真はずいぶん前にとったものです。年始くらいの時期)

シクラメンは年末に買いました。
ばらはまだ剪定もあまりできてません、寒気があると野外作業は難しい。
ジルソンが引用している箇所を図書館で読み直したり、テアイトスを参照してみたり。自分ではなるべく正確に理解りようと思っていることが、実は見当違いなのではないか?と自問する→調べるとの繰り返しでもあります。進展した部分と捉えていたことが、同語反復的なのではと疑問に思うことも。
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