ベジャールの 『M』に関しては、モーリス・ベジャール振付 『M』と今回の東京バレエによる『M』の上演について、記事を分けて書いておきたい。
なぜなら、舞台作品としての『M』の解釈と、上演された『M』とを分けて書いたほうが、作品にたいしても、上演に関しても、観客にとっても意味があると思われるからである。

私見では場面について、バレエ作品としてもっともよかったのは、実のところ鹿鳴館の部分である。私は19日の舞台にいったのだが、前日は高橋竜太さん、宮本祐宣さんだったので見られずに残念。しかし松下さん、小笠原さん、梅澤さん、氷室さんもよかった。後で実際にバレエをやっている娘に聞いたところ氷室友さんがよかった、と言っていた。
重力からの解放、跳躍やしなやかさなどどれもよかった。女性のロンドでも高村順子さん、乾友子さん、佐伯知香さんもよかった。
バレエの表現、見ていて観客が純粋に「良い」と思える部分がバレエの重要な要素だと思うからである。こうした感慨を抱くのは、ベジャール・バレエ・ローザンヌで『80分間世界一周』を繰り返し見ているからかもしれない。

配役に関して、シ(死)は自己(少年三島)のなかの他者(祖母であり文学であり死(タナトス)である。だが、イチ(一)、ニ(二)、サン(三)は、同一的としたほうがよいと思う。つまり「顔」(レヴィナスの言う個)を明確にしないほうが役柄を体現することになるのではないか。なぜならばこれら四つは一つの精神の分有であるのだから。
つまり、それぞれを「四人の王子」的にならべる役柄ではないからなのだが。
今回のMに関して、東京バレエはこうした役柄と作品の性質、特質よりも、認知度であるとか、これまでの名声などで配役してる感がある。重要なのは、今この役に適切なのは誰か、ということであり、それが行われなければ、バレエ団としても芸術表現と作品としても価値が衰退するからである。高岸さんは演技とバレエ自体とも特に不満はなかったのだが、後藤さんと木村さんが本当にこの役柄に相応しかったのか、という疑問が残った。
すくなくとも配役をダブルキャストにするべきだった。木村さんは『火の鳥』公演のときは素晴らしかったのだが、前回の『カブキ』ではやや身体が重いように感じた。それは長瀬さんのセバスティアヌスも同様で、ノイマイヤーの『月に寄せる七つの俳句』ではとてもしなやかだったので、それと対比してそう思われるのかもしれない。殉教とは生死の表裏一体である。肉体は死に、精神は永遠に生きて記憶されるべきものである。(だからベジャールの狂言回し的な役柄はそのように作られている)
聖セバスティアヌスは特に重力を感じないほどの身体表現と生死を乗り越える丁寧で繊細な演技が求められる。私見では、質料がそれほどないのにもかかわらず、あらわらされるものが非常に重く感じる。そう思われたのは、個人的な感慨というよりも、「他に踊れる人がいるのでは」、という考えが興ったからだ。こうした感慨を、観客が思うようではどうなのか。
私は東京バレエのベジャール作品をいくつか観ているからそう感じるのかもしれないが、何の説明もなく観た人は、そこに価値を見出せただろうか。

そしてこれはダンサーの問題ではなく、カンパニーの問題なのではないか。ベジャールのバレエではスター性を求めない。だからこの場合に、三統一の法則のように配役をあてはめるのは適切ではない。クラシックの高い技術を用いながら、古典・クラシックの構成による表現方法では表現できないものをベジャール作品は作っているためである。

観客ができごとを「見物する」役割ではない。感動は、感情を超えて思考と判断を求められる。一、二、三は少年三島の魂の分有なのだから踊ることに専念する役なのである。「死」は演技とバレエの両方が求められる。
渡辺理恵さんの「海上の月」も丁寧な演技だが人称がありすぎる。群舞の女性ダンサー、吉川留衣さん、奈良春香さん、田中裕子さんのローズ、ヴァイオレット、オレンジも象徴性を感じられず、バレエとしてもあまり魅力はなかった。
この日の上野水香さんは、ときどき目につく雑さがなくよかったと思う。

それから東京バレエの女性ダンサー全般に思うのは、作品の中での役割を考えず、まるでオーディション選考にきた人のようなメイクで舞台にでていること、動きとパの意味や「あらわれ」を考えずな、表面的なものが多いことが目につく。役柄を考え、なにを表現すべきなのかに打ち込むほど、その人自体のよさ、特性、輝き、魅力も増し、そこに人は目をとめるのであって、その逆はない。
ただオープニングと終幕でのシーンは良かった。こうした部分がおろそかになると、全部の舞台がなりたたないことが多いためである。

バレエ公演として、見てよかったという気持ちになったのは最初に述べた鹿鳴館のシーンであり、そのほかは舞台演出や、ベジャールの三島、自己、セバスティアン解釈であり、舞台から得た感動はほぼ演劇的な要素からだった。
しかもそれは配役が適切ではなかったことが原因に思われる。私の知人は18日の舞台にも行っているので、そんな感想を持ったか聞いてみたいと思った。

ベジャールは表現主義演劇をバレエと融合することで、すべてを語らずとも観客が真なるものと永久不変なものを感得し、考え始めること、在り方を問うことが可能なものとしている。それも憎悪によってではなく。

それから、さまざまな「死」と「再生」がテーマなのだから、その意味のためにも、カーテンコールは2回くらいまでにすべきでは、と思った。

三島がなぜ切腹するのか、ここを曖昧にするとかえって「単なる肥大した自我、国粋主義者」のような解釈になってしまう。しかし重要なのは、そういう解釈のもとに作られている作品ではない。個人の孤立を作り出すのは、ある意味でその社会の閉鎖性、全体性が拘っているのであり、容易に単なる国粋主義者のように解釈することが危険なのではないか。なぜならば、本質的な問題を個人の死を騒ぐことで封じこめるからだ。
べジャールが『M』であらためて明るみだした問いはこうした問題意識ゆえだと思う。

一人の死が何を照らし出すのか。

私たちはただ、拍手をしたり、他者の成功で自己満足を得たり、個人の死を単なる事件や不運のように受け止めてしまうことは現在もかわらない。というよりも、現在はさらにその傾向が強い。

要するに創作者は自己満足のレベルに留まっては、観客には何も伝わらないか、伝わってもそれを気づかないうちに壊してしまうこともある、ということである。だからドラマをみてそこに同化し、涙を流すことがカタルシスになるというタイプの人からはベジャールはあまり理解されない。自分本位な立場や自分が変わらないもの、もう完成されているという視点をもつ人にはその視点がわからないのかもしれない。どのように解釈しても自由である、となればそれは、無意味なものになってしまうことを危惧しているのです。逆にいえば、舞台が作り出す意味を客観的に捉えられていなければ、そうした空間を作り出すことは難しい。
こうした感想を書くのは、もっとよい舞台ができる可能性のほうが強いのでは、と思うためである。適切な世代交代ができることが重要なのではないだろうか。こうしたことは観客にも求められることだとは思う。
しかしカンパニーが打算的になっては、舞台芸術は虚しい。舞台芸術は、「絵画」や「オブジェ」といった物質的な芸術ではない。生きた人間が、自らの生命と存在の意味を求めて創っているものなのだから、打算的なものの中では本当に価値も生まれず、才能も活かされないのでは、と私が思うからである。

ダンサーはそれを伝える継起、直接の生きた言葉、詩の流れのように踊ることが必要となる。日本ではしばしば芸術は感覚的なもの、表面的なものと思われているが、そうした表面的なものは独立した価値を持つことは難しいだろう。
要するにグリゴロービッチ時代のような面があるのではないか、ということであり、こうした力が作品とダンサーに作用するのは、あまり良い結果を生まないのでは、と思うためです。

今回の『M』では小林十市さんの復帰引退公演として、5年ぶりに上演された。またベジャールの死後初めての上演ということもある。こうしたことがらによる上演広報にはいささか疑問を感じる。復帰引退公演が2日両日で完了するというのも奇妙ではないだろうか。5年ぶりに、そしてある意味で最初と最後であり、そして三島とベジャールとセバスティアヌスの殉教・死という、他者の死をみたい心性が重なっているように思われるからだ。

以前初演のMについても掲載したが、『M』のシンボルは聖セバスティアヌスである。初演ポスターに用いられ、パンフレットにもグイド・レーニの絵画がシンボルに用いられている。
セバスティアヌスはペストからの庇護者である。逆にいえば、多くの人はぺストが自分の身に厄災としてふりかからぬことを祈って、この矢に射られたセバスティアヌスが描かれたのである。つまり、三島が選んだのは、多くの人が記憶するために、セバスティアヌウスになるということだった。
・・・重要なことは、私たちすべてが、知らぬうちにペストをセバスティアヌス崇拝に転嫁するように、自分だけの幸福を望んでいないか?他者の犠牲を自らのアイデンティティのために、平穏無事なことのためだけに一切を問わずに看過していないだろうか。

そうした意味を含めて、今回五年ぶりに上演されたのはよいことだろうと思う。だが、それだからこそ、常に芸術に携わるものならば、最善の舞台をつくりあげることしてほしい。それがバレエが芸術でありコミュニケートのためのツールであり劇場空間としての意味を保つためには不可欠である。べジャールが作品を全映像化しないことの意味もそこにある。