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マルシリオ・フィチーノ書簡集1を洋書古書にて注文...1週間もしないうちに届きました。ジョバンニ・カヴァルカンディやジュリアーノ・メディチ、ロレンツォ・イル・マニフィコ、ポリツィアーノへの書簡。初期の書簡(1457年)が含まれている。
今年はじめに新刊で出版されたVOL.8は予約して入手済でしたが初期のものが気になっていました。

晩年になり、自分の書簡を収集したフィチーノだが、なかなかそれを最終的なものとするのはしかなったらしい、常になにか問いをめぐっている場合は、こういう不安をもつものなのかもしれません。しかしこの夥しい書簡と翻訳、コメンタリー、膨大な仕事量をあらためて思うのだが、それも彼らが親和を感じていた過去のひとびとはやはり45歳前後でなくなっていたのであり、この時代ほど自分自身ができる仕事量と知らなくてはならない知識量が増え、なおかつそれに比較して自分がはたしてどこまでできるのか?という有限さへの意識も現代の比ではない。しかも言論において「超えてはいけない壁」があったのであり...



ピコとポリツィアーノが相次いで1494年に死んだときに、残ったフィチーノのことを考える。彼は99年になくなる。
やはり1400年代というのは近代の転換のスピードの中にあり、だが依然として人びとの意識や都市の在り方は中世的なものがあり...しかも力とは支配と軍事力という諸国が周辺にあった。この環境で平衡という概念を保つのは心身ともにどのような状態になるのか。最善とは何か、をかんがえるときに、配慮しなくてはならない諸々のものと何が正しいのかということが同時に認識される場合、・・・実際にどのような選択をすべきなのか。

一箇所の場所から自分の意志だけでは動けない状況にあるとき、本当の意味で、自由意志というものを考えるのかもしれない。現代的な感覚ではおそらくこの意味は考えられない。・・・ 状況において、人はどのレベルで思考においても自由に行えたのか。しかし、身体の自由が叶えば、自由に(自立と自律のもと)思考し、論述することを人間はするわけではないように思われる。例えば広告媒体によって成り立つメディア、放送など、また言論自体もそうであることも多い。


彼は竪琴を弾いた。
デル・フィオーレ聖堂の胸像は写本とリュラ(竪琴)をあわせたような形になっている。それにあわせてピコやポリツィアーノはよく唱和した、という記述があるが、そうした場を想像するのはなかなか愉しいものである。またしばしば、より深刻をよそおったもののほうが苦労が多いと思いがちだが、外にむけては優雅さをたもっておくほうが労力を要するものだ。12月は体調が。控えめにいってもあまりよくありませんでした...しかも、もう月末なのですね。

月末30日まで仕事なのですが、1月末までいろいろと重なっています。

時間を「作れる」ときには図書館へ通うようにしています。

正しく理解するということ、真なるものをいかに文章としてあらわすことができるのか、自己を完全に客観的に眺めるのは限界がある、しかしどこまでそれが可能なのか...

因みに絶版本以外の書籍やDVD、CDなどは(私はデータをDLするのはどうも苦手です。私はジャケット含めたアルバム/作品としてCDを買います、ジャンル問わず) どうも自分だけが「安く」もしくは「対価を払わずに」ほしいものを所有したい、という風潮がさらに強くなっていますし、そのこと自体なんとも思わない風潮も強くなっているように思います。
しかしそれは本当はすべてにとって悪循環を引き起こしてしまうのでは。

皆がそうだから、「当たりまえ」「普通のこと」ということにほとんど歯止めがきかなくなっているように思う。そしてどこまで「周囲にあわせること」が「当然」という価値観が拡がるのだろうか?