書いておきたい(書き残しておくべき)と思う事柄はいくつかあるのですが、そういうときに限ってなかなか時間はなく、体調も芳しくないということもあります...
すばらしい先生たちについて記事に書いたが、堤林先生の古典期から近代、19世紀フランスまでの政治思想論を文化的史観も含めて学ぶ機会があり、その中でキケロについても扱ったのであわせて記事にしておきたい。キケロはその著作のほぼすべてが翻訳されており、主要な作品は岩波の文庫でも読める。結論を先に言ってしまうが、現代人はキケロの「老年について」および「友情について」をまず読むべきである。そしてキケロが一体どういった生死を迎え何を重視していたかは「歴史の中のキケロ」を合わせて読むべきである。
キケロは言っている。
老年になって若者の時代の力や若さをとりもどしたいと考えるのは愚かなことであり、なぜならばそれは若者のときに象やライオンの力をほしいと思う人間はいないことを考えればあたりまえなのである。
(ローマは経験による知恵を重視した、それは共和制ローマの理想である。フィレンツェの大聖堂付属美術館へいけば、ドナテッロの共和制ローマ時代の賢人を理想とした数々の彫刻・塑像にであえる。重要なことと私が思っているのは、こうした理想的賢者が短期間のうちに福音書者からローマの元老院議員へと代わっている。(のちのこの理想像はさらに転換する。私のテーマもこうした変化に関係するのだが・・・)
以前、十字軍本についてなぜいつまでもローマ=塩野氏解釈なのか、と書いたことがあり、賛同のコメントも頂きましたけれど、舞台化、人物評価ともにつねに日本ではカエサル(シーザー)が中心。反対にキケロほど正当に読まれていない著述家もいまい、と思う。
今日、マスメディアが政治家を失脚させようとするときの理由は、未だに、権力乱用、金銭、女性の三つのいずれか、である。こうしたニュースと話題をみるたびに、またかという思いがする、当然マスメディアの問題提起の浅薄さについてである。私は同様に「失言」という見出しや論調も恣意的だと思っている。メディアの受容者はひたすら受身なのであって、実際にその発言や演説、講演をきいたわけではなく、「きりとられた」ある発言が初めから「失言」として流布されるのである。
もっとも権利あるものたちが近年なんにもで「遺憾」という表現でかたづけているのも、奇妙なことだが・・・要するに初めから思考停止状態なのだ。
しかしそうした三つのことがらが、実際に失脚、辞任、敗北などに繋がるのは、多くの人びとの欲やもとめるものもこの三つの欲望だから、なのではないか、と思う。
キケロは、権力、金銭、女性のどれにも縁遠かった。というか固執しなかったのであり、権力についてもそれは独占物ではなく、分権されているべきものとして誰にも譲らなかったのである。そのために、そしてその言論の揺るがなさのゆえに、実際に多くの権力者、権力追求者から生命を狙われ、最後は暗殺される。しかもその死体は見せしめにされた。
だが彼が残したラテン語の文章は生きており、日本語にも翻訳されている。また彼ののこした書簡は最初から公開するために書かれたものではない。(書簡が文学作品として公開目的で書かれるようになるのはセネカからである)老年について、も息子にあてて書かれたものである。
反暴君の歴史、支配的権力者の羅列ではない日本史というものはあまり数が少ないように思われる。それは歴史が「問われる」ものではなく、「覚えられるべきもの」とされている限り続くのかもしれない。しかし歴史ほど変わるものもない。
コンスタンの思想世界―アンビヴァレンスのなかの自由・政治・完成可能性
著者:堤林 剣
創文社(2009-04)
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キケロー弁論集 (岩波文庫)
著者:キケロー
岩波書店(2005-08-19)
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老年について (岩波文庫)
著者:キケロ
岩波書店(2004-01-16)
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キケロ―もうひとつのローマ史
著者:アントニー エヴァリット
白水社(2006-12)
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老年の豊かさについて
著者:キケロ
法蔵館(1999-05)
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友情について (岩波文庫)
著者:キケロー
岩波書店(2004-04-16)
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キケロー選集〈9〉哲学II―大カトー・老年について ラエリウス友情について 義務について
著者:キケロー
岩波書店(1999-12-21)
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堤林先生には色々と質問をしてしまったのだが、そのほとんどすべてに丁寧に答えてくださり、すばらしい先生の多くが言動のすべてから学ぶところがあるとと改めて思った。自己改善能力こそが、おそらく正しさ、あるべき善さや美、秩序といったものに導くのであろうし、それは言葉と実践によって表れでるものであり、私たちはそうして学ぶ基礎を得られるのだと思う。「完成可能性」というものに惹かれるゆえんであるし、それはおそらくは原動力であり、不断の力、エネルゲイアなのだろうと、私には思われる。納富先生と同じ時期にケンブリッジ大学で博士論文を書いていらしたと聞いている。(納富先生の博士論文は、先生自らが英語から日本語に訳し、英文はケンブリッジ・コンパニオンから、日本語訳も出版されている)。
ソフィストと哲学者の間―プラトン『ソフィスト』を読む
著者:納富 信留
名古屋大学出版会(2002-02)
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バンジャマン・コンスタン―民主主義への情熱 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ツヴェタン トドロフ
法政大学出版局(2003-12)
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キケロに関しては、『友情について』では地縁、血縁など中心になっていた人間関係を超えて、価値観の共有、志向の一致などを説いている。私はこうしたキケロの思想は、イタリア初期人文主義から盛期ルネサンスを貫く一つの人間観と価値観のあらわれであり継承されてるものだと思っているし、それは今日のような一見、すべてが繋がっているように見える世界において、非人称的なマスの出現のもと、個人が分断孤立する中において、一つの活力でありうると思っている。
私はどこまで自分なりに問題に沿って、問いに応えるべく読解し、それを文章化できるのだろうか。不安のほうが大きい。しかし、言葉によって支えられる力、対話の中で得られる希望は確かにあり、それに救い上げられる想いがする、ということを記しておきたい。
すばらしい先生たちについて記事に書いたが、堤林先生の古典期から近代、19世紀フランスまでの政治思想論を文化的史観も含めて学ぶ機会があり、その中でキケロについても扱ったのであわせて記事にしておきたい。キケロはその著作のほぼすべてが翻訳されており、主要な作品は岩波の文庫でも読める。結論を先に言ってしまうが、現代人はキケロの「老年について」および「友情について」をまず読むべきである。そしてキケロが一体どういった生死を迎え何を重視していたかは「歴史の中のキケロ」を合わせて読むべきである。
キケロは言っている。
老年になって若者の時代の力や若さをとりもどしたいと考えるのは愚かなことであり、なぜならばそれは若者のときに象やライオンの力をほしいと思う人間はいないことを考えればあたりまえなのである。
(ローマは経験による知恵を重視した、それは共和制ローマの理想である。フィレンツェの大聖堂付属美術館へいけば、ドナテッロの共和制ローマ時代の賢人を理想とした数々の彫刻・塑像にであえる。重要なことと私が思っているのは、こうした理想的賢者が短期間のうちに福音書者からローマの元老院議員へと代わっている。(のちのこの理想像はさらに転換する。私のテーマもこうした変化に関係するのだが・・・)
以前、十字軍本についてなぜいつまでもローマ=塩野氏解釈なのか、と書いたことがあり、賛同のコメントも頂きましたけれど、舞台化、人物評価ともにつねに日本ではカエサル(シーザー)が中心。反対にキケロほど正当に読まれていない著述家もいまい、と思う。
今日、マスメディアが政治家を失脚させようとするときの理由は、未だに、権力乱用、金銭、女性の三つのいずれか、である。こうしたニュースと話題をみるたびに、またかという思いがする、当然マスメディアの問題提起の浅薄さについてである。私は同様に「失言」という見出しや論調も恣意的だと思っている。メディアの受容者はひたすら受身なのであって、実際にその発言や演説、講演をきいたわけではなく、「きりとられた」ある発言が初めから「失言」として流布されるのである。
もっとも権利あるものたちが近年なんにもで「遺憾」という表現でかたづけているのも、奇妙なことだが・・・要するに初めから思考停止状態なのだ。
しかしそうした三つのことがらが、実際に失脚、辞任、敗北などに繋がるのは、多くの人びとの欲やもとめるものもこの三つの欲望だから、なのではないか、と思う。
キケロは、権力、金銭、女性のどれにも縁遠かった。というか固執しなかったのであり、権力についてもそれは独占物ではなく、分権されているべきものとして誰にも譲らなかったのである。そのために、そしてその言論の揺るがなさのゆえに、実際に多くの権力者、権力追求者から生命を狙われ、最後は暗殺される。しかもその死体は見せしめにされた。
だが彼が残したラテン語の文章は生きており、日本語にも翻訳されている。また彼ののこした書簡は最初から公開するために書かれたものではない。(書簡が文学作品として公開目的で書かれるようになるのはセネカからである)老年について、も息子にあてて書かれたものである。
反暴君の歴史、支配的権力者の羅列ではない日本史というものはあまり数が少ないように思われる。それは歴史が「問われる」ものではなく、「覚えられるべきもの」とされている限り続くのかもしれない。しかし歴史ほど変わるものもない。

著者:堤林 剣
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著者:キケロー
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堤林先生には色々と質問をしてしまったのだが、そのほとんどすべてに丁寧に答えてくださり、すばらしい先生の多くが言動のすべてから学ぶところがあるとと改めて思った。自己改善能力こそが、おそらく正しさ、あるべき善さや美、秩序といったものに導くのであろうし、それは言葉と実践によって表れでるものであり、私たちはそうして学ぶ基礎を得られるのだと思う。「完成可能性」というものに惹かれるゆえんであるし、それはおそらくは原動力であり、不断の力、エネルゲイアなのだろうと、私には思われる。納富先生と同じ時期にケンブリッジ大学で博士論文を書いていらしたと聞いている。(納富先生の博士論文は、先生自らが英語から日本語に訳し、英文はケンブリッジ・コンパニオンから、日本語訳も出版されている)。

著者:納富 信留
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キケロに関しては、『友情について』では地縁、血縁など中心になっていた人間関係を超えて、価値観の共有、志向の一致などを説いている。私はこうしたキケロの思想は、イタリア初期人文主義から盛期ルネサンスを貫く一つの人間観と価値観のあらわれであり継承されてるものだと思っているし、それは今日のような一見、すべてが繋がっているように見える世界において、非人称的なマスの出現のもと、個人が分断孤立する中において、一つの活力でありうると思っている。
私はどこまで自分なりに問題に沿って、問いに応えるべく読解し、それを文章化できるのだろうか。不安のほうが大きい。しかし、言葉によって支えられる力、対話の中で得られる希望は確かにあり、それに救い上げられる想いがする、ということを記しておきたい。
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