
庭にはハゼ、みずなら、山帽子など紅葉する樹木をうえています。ばらの世話はこの時期(とくに今年は)あまりできていないのですが、ふとニュードーンの花にめがとまりました。(先日掲載した株とはちがうあとから植えたほうのばらです。どちらも、蓼科のバラクラ・ナーセリーで購入したばらです。
温度差に弱いので気管支にダメージが出てしまい、普段はあまりいかない医者(隣町)にいき気管支の薬を出してもらいましたが、やはり乾燥が日に日にひどくなっていくのでややよわりぎみです。喘息の発作にも効くという薬をだしてもらいましたがやはりあまり芳しくありません。
特別クラスの参観日があり、見学させていただきました。
今日は元東京バレエの辰巳先生のレッスンでした。以前一度見学させていただいたときに、普段は23時まで語学や数学・物理を教えている家人もぜひ見る機会があったらよいのに、と思っていた。運よく、仕事を2時間半ほど途中引き受けてくれる教え子の大学生がおり、レッスン風景をみることができました。とても充実した時間でした。年2回こうした参観を設けてくださる藤沼先生にも本当に感謝です。小林先生もいらしてご挨拶させていただきました。
気管支を壊しており、声が潰れている状況で、口頭では伝えらなかったので・・・(私は大抵、この時期に気温差と乾燥で気管支を壊します・・・仕事や質問回答などでもまったく声がでず、参ります...。
バレエのパ一つ一つは、一つには言葉、動きとしては幾何学モデルであり、音楽と文芸(ムーサイ)によって裏付けられていると思います。プロムナードのレッスンやグラン・バットマンのレッスンのとき、どのパについても、力学と人体構造に則った説明をしてくださいますし、動きも一人一人修正してくださいます。つまり定義にどれだけ実際の動き(あらわれ)が近づけるのか。この地上に有限な形でいる人間にとって、どれだけの困難さに近づけられるのか、それは困難さを克服できるのは、さらに自らに所有せんとするのは対象そのものに対する憧れ、それが引き起こす原動力なのです。先生方には本当に感謝いたします。
私が学問探求の中で影響をうけてきた先生方も同様に、現在を認識し、さらにそこから上昇するべく、知識と方法と方向を指し示してくれた先生がたがいらっしゃったからです。自らの生のあり方が、他の生と存在論にも影響をあたえる、その契機であること。ギリシア的な外に開かれた精神、それを表象すること、身体化したロゴスであること。それゆえに、クラシックバレエの基本は外側に開かれたもの、なのです。
この日は元チャイコフスキー記念 東京バレエの辰巳先生のレッスンでした。辰巳先生のレッスンをみるのは2回目です。参観という機会を創ってくださる先生にも感謝です。
私はルネサンス・リナシメントから現代へ通じる水脈をいかに説明できるのか、ということをフィレンツェ(1439-1496年まで)から考えてみようと試みているのですが、アカデミア・プラトニカを主宰し、その思想がフランスのモンテーニュ、ジャン・ボダン、ロッテルダムのエラスムスまで通じていると思われるマルシリオ・フィチーノ(パドヴァのマルシリウスとは異なる)、およびピコ・デッラ・ミランドラ、ポリッツィアーノ、とりわけフィチーノ、・・ーその影響は17世紀までに及んでいるーーの言葉を借りて引用しておきたいと思う。
" 『ピレボス』においてプラトンは、幸せなのは欠けたことのない人だと考えていた。「欠けたところのない」ということはどこの部分も完全であるということである。ところで、完全といっても内的な完全さと外的な完全さとがある。この内的な完全さが善であり、外的な完全さが美なのである。そこで、善くて美しいものは、どの点から見ても完全であり、最も幸せなのである。さて、完全さに外と内という違いがあるのはどんなものの場合でも考えられることである。(略)植物の場合も、根や髄の内部にもともと備わっていた豊かさが、草や木を彩る花や葉の、変化に富んだ優雅さとして表れるのである。” (マリシリオ・フィチーノ ”De Amore”)
バレエもオペラも世俗における発祥の地はフィレンツェであり、その後、フランス・アカデミーの時代において、現在のクラシック・バレエの基礎は構築された。その後、フランスからデンマーク、ロシアへと「古典」の中心地は移っていく。(ロシア以降の流れは、バレエ・リュスの映画ドキュメンタリーにもみられるー一つにはバランシン、マシーン、そしてキューバもその一つであって変容を遂げている。もう一方はやはりフランス中心のものではないだろうか。その中には「人間を超えるものの中にあって、常に人間であること」(森有正)が求められる。つまり現状を認識し、それを超えるものに憧れ自らそれを所有しようと思い実践することが求められる。このように説明することは容易い。だから私はやはり実践する人のほうが、その理論の下におかれることは正しくないと思う。そしてもし批評が実践と同等の価値があるとするならば、表れては消えていくが、イマージュとしては永遠の美を刻む芸術表現としてのバレエに、費えない言葉での表象を付け加えれ荒れるかどうか、ではないだろうか。
言うは行うより易し、であり、しかし行いをより善く、説明がいらないほどの美にちかづけるには、それが説明的でなければならないと思う。そして、その美を理解するには、見る側が・・・つまり観客がその在り方を含めて問われるということだと思う。正しいものは美を引き起こし、美は観るものの魂(精神)を向けかえ、しかも演じる人のもつ美は損なわれることがない。今は娘はレッスン時間が十分にとれないのですが。教えてくださる先生がたや一緒に学んでいるお友達も素晴らしい人が多いので、善さにあこがれ、それを求めてレッスンできること、自分の欠乏を認識できること、そして美とは何か、それは表面的なものなのか、それ以上のものなのか、私は素晴らしいものを見たときには、絶えずとのことを内申問い直すことが多い。
私も金曜は三田からの帰宅が遅いので、ややまとまりがない記事ですが、記録させていただこうとおもいUPします。
しかし今年から従来は使えていた日曜の図書館が土曜のみになったので土曜が休みではない身としては、内心とても参っています...
自分の能力が迷う時間が多い傾向があるのが問題なのでしょうが・・・
欠乏だけを口にしていても仕方がない、文献に向かい合ったり・・・そのような日々です。
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