有(ある)と非有(ない)これらについて一つの例を。というのは、意味や価値というものが酷く一面的になっている、と思われるため。
以下、「中世哲学史物語」聖アンセルムスの項の説明ページから引用。
−−私は思い出す、オーディションのためにチネチッタ映画撮影所にやってきた美しい少女に、有と非有との違いを説明しなければならなくなった日のことを。
「で、きみは何をしたいの?」
「女優か、ヴェリーナ(テレビ・アシスタント)の仕事をしたいです」
「じゃ、君が女優になりたいのは、有のためなの、それとも非有のためなの?」
「有のためです、女優になるためです」
「オーケー。じゃ、女優の有がどういうことで、女優の非有がどういうことか説明してあげるよ。きみが女優をやり、有名となり、雑誌の表紙にきみの写真が載り、サインをしたり、テレヴィに客として出演したり、たくさんお金を稼いだりしたいのなら、いいかい、こういうことはすべて、女優のノンエッセレ、つまり見せかけなのだよ。」
今日ではエッセレのように仕掛けることで、背後にいるさまざまな人びとが(実践にはかかわらない)利益を得るシステムになっている、とでもいうべき、かもしれない。
今日では、見せ掛けが本当のように思われている。
現に見せ掛けで得るものが、いかほどのことか。
だがこの見せかけですら、容易には動いてはいかない。ノンエッセレなしの生き死にがむしろないかのように思えることが・・・問題なのではないだろうか、と思うことがある。
ともあれ、上の対話は以下のように続く。
「じゃ、有とはなんですか」
「君の目の前にいる人が笑ったり、感動したりするのに気づくとき、君が内心に感じるもののことさ。だってね、そういうときにきみは”ほんとうに”女優になったこと、つまり、きみのものではなくて作家のものだった感情を、観衆という他人に伝達したことを悟るのだからね。しかもこの気持ちは世のあらゆる職業にも役立つだろうし、ひょっとして、無職の人びとにも役立つだろうよ。」
あらゆる生には有がある、召命とはこうした意味のもとにあるのだと私には思われるのだが、基本的な構造が近代に基づいているにもかかわらず、中身は不合理であることがままある。要するにシステムだけが近代化しているように「見せかけて」あることが問題なのではないだろうか。
そして仮に、「エッセレ」を実現している人がいたとしても、それを無視するか理解できずに、見せ掛けを追ってしまうのではないだろうか。
ルチャーの意見や、サン・デグジュペリが書いたことは正鵠を得ているのだが、「生きなければならない」と絶対化された人間は果たしてこの矛盾をどう位置づければよいのか。
ことは楽観的とか悲観的といった問題ではない。
しかも有をに近づくほど・・・、ノン・エッセレの立場にはもはや戻れない。
これが多くの人がもつジレンマなのではないだろうか。
(もはや、気晴らし程度では済まされない問題となってくる。そして、それほど気に病むことでもないとか、大したことではないとか、楽しみが足りないとか言われることのほうが・・・ダメージが大きいのではないだろうか)
実践とテオリア、探求は本来は切れていないはずである。切り離されたときに、それらはまた有機的な繋がりを失い、「ことば」自体も・・・「物質」もなくなるのではないだろうか...つまりより「有(ある)」をもとめるべき立場の人が実のところ「非有(ノン・エッセレ)」を目的としていることに無自覚になりそれが「あたりまえ」となるとき、「得ていた」と思われたことが「失われて」いるということがおきているのではないか。
http://love.blogmura.com/tment_tbe/10931/wcnslwc2tfh5
以下、「中世哲学史物語」聖アンセルムスの項の説明ページから引用。
−−私は思い出す、オーディションのためにチネチッタ映画撮影所にやってきた美しい少女に、有と非有との違いを説明しなければならなくなった日のことを。
「で、きみは何をしたいの?」
「女優か、ヴェリーナ(テレビ・アシスタント)の仕事をしたいです」
「じゃ、君が女優になりたいのは、有のためなの、それとも非有のためなの?」
「有のためです、女優になるためです」
「オーケー。じゃ、女優の有がどういうことで、女優の非有がどういうことか説明してあげるよ。きみが女優をやり、有名となり、雑誌の表紙にきみの写真が載り、サインをしたり、テレヴィに客として出演したり、たくさんお金を稼いだりしたいのなら、いいかい、こういうことはすべて、女優のノンエッセレ、つまり見せかけなのだよ。」
今日ではエッセレのように仕掛けることで、背後にいるさまざまな人びとが(実践にはかかわらない)利益を得るシステムになっている、とでもいうべき、かもしれない。
今日では、見せ掛けが本当のように思われている。
現に見せ掛けで得るものが、いかほどのことか。
だがこの見せかけですら、容易には動いてはいかない。ノンエッセレなしの生き死にがむしろないかのように思えることが・・・問題なのではないだろうか、と思うことがある。
ともあれ、上の対話は以下のように続く。
「じゃ、有とはなんですか」
「君の目の前にいる人が笑ったり、感動したりするのに気づくとき、君が内心に感じるもののことさ。だってね、そういうときにきみは”ほんとうに”女優になったこと、つまり、きみのものではなくて作家のものだった感情を、観衆という他人に伝達したことを悟るのだからね。しかもこの気持ちは世のあらゆる職業にも役立つだろうし、ひょっとして、無職の人びとにも役立つだろうよ。」
あらゆる生には有がある、召命とはこうした意味のもとにあるのだと私には思われるのだが、基本的な構造が近代に基づいているにもかかわらず、中身は不合理であることがままある。要するにシステムだけが近代化しているように「見せかけて」あることが問題なのではないだろうか。
そして仮に、「エッセレ」を実現している人がいたとしても、それを無視するか理解できずに、見せ掛けを追ってしまうのではないだろうか。
ルチャーの意見や、サン・デグジュペリが書いたことは正鵠を得ているのだが、「生きなければならない」と絶対化された人間は果たしてこの矛盾をどう位置づければよいのか。
ことは楽観的とか悲観的といった問題ではない。
しかも有をに近づくほど・・・、ノン・エッセレの立場にはもはや戻れない。
これが多くの人がもつジレンマなのではないだろうか。
(もはや、気晴らし程度では済まされない問題となってくる。そして、それほど気に病むことでもないとか、大したことではないとか、楽しみが足りないとか言われることのほうが・・・ダメージが大きいのではないだろうか)
実践とテオリア、探求は本来は切れていないはずである。切り離されたときに、それらはまた有機的な繋がりを失い、「ことば」自体も・・・「物質」もなくなるのではないだろうか...つまりより「有(ある)」をもとめるべき立場の人が実のところ「非有(ノン・エッセレ)」を目的としていることに無自覚になりそれが「あたりまえ」となるとき、「得ていた」と思われたことが「失われて」いるということがおきているのではないか。
http://love.blogmura.com/tment_tbe/10931/wcnslwc2tfh5
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