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一昨年なくなった祖父は様々な意味で影響を与えられた気がします、もちろんよい意味でも悪い意味でも、しかし影響とはその両面を持つものだからゆえに、影響と呼べるものかもしれない。
しかしよくあるように、それは「生前祖父・祖母が大好きだった」というようこととは異なる。
好むと好まざることとは別に、価値観、生き方などを影響を受けたと思う。


祖父は某私鉄の組合副委員長をしていましたが、組合活動だけでなく絵画、文学、建築などもに興味があり私が引きついでいる仏教・日本美術史・建築の文献全集は祖父のものでもあります。
小学生の頃から東北・甲信越を中心に寺社建築などをめぐりました。こうしたたびは、祖父母、いとこ、叔父叔母と一緒でした。日本における長女というのは在る意味、ダブルバインドである。第一子・長子としての教育を家や両親からうける。義務も同じである。だが権利は「半分」もない。これは、女子相続権の問題でもある。じつは少子高齢化のうち、教育費、住宅費の負担と同様にこのことが基礎的な問題となっているだろう。
祖父から特別視されたわけでもかわいがられたわけでもないと想います。ただし、自分が大人になって、さまざまな土地に赴いたことは財産だと思う。
同時に祖父が家に持ち帰っていた文化的なもの、批評的態度などは影響をうけているのだと思います。
まだ海外旅行などが一般的でないころ、ヨーロッパやロシアなどに旅行し、そのおみやげを随分貰いました。
隔世遺伝による子供の資質という問題は、核家族の中でより問題化するかもしれません。多くの場合、子供は親よりも祖父祖母世代から影響を得ることもある、のかもしれません。また祖父祖母というものは自分の子供には直接には伝えるのをはばかったような、本音のような部分で接する部分があるようにも思えます。

祖父の影響のもと、閣僚、国会議員や地方議員になった人に合うたびに、「おじいさんには似ていませんね」と私はいわれます。
しかしながら、自分の利益に関わらず、よいかわるいか、という本質的な問題に対する判断の立場に関しては、私は今はなくなった祖父から受けついたものが多いのではという思いも感じる。私は実の[家]では常に優遇されたこともないし存在自体を肯定されたこともない。だがおそらく、どのような公権力であろうとも、善悪の基準には自分の利益に準じて動かされることはないだろうと思う。権威主義が何ももたらさないことを知っているし、対話と理解以上になにも進展させる力はないからである。

祖父は関東大震災を経験し、硫黄島への出陣をしている。その際に受けた日本陸軍からの不合理極まりない鍛錬もよく耳にしている。また関東大震災のときにおきた東京都内での差別的な暴力事件もよく耳にした。硫黄島から内地戦闘になるまえに肺病で本土へ帰国している。私はこの話を生きてから後、10代のころからずっと・・・・私たち、敗戦を経験しながらも、生き延びたものたちには何か、死者たちが果たせなかったことをわずかでもなさねばならないのだ、と。
私は隔世遺伝世代に当たる。
オーラル・ヒストリー学会へも一度出席させていただいたことがあるのだが、私の中では生命や時間というものは、単独での存在が肯定されることはない。かといってそれは、単なる「家」(オイコス)の保存のためであるとう問題ではない。

反対に、前の世代から受けたこと、親世代も含みますが、自分は繰り返したくない行動・言動などがあります。繰り返されるのが必然なのだとしたら、しかし変化しなければならない点が「伝統」にも必ずあるのです。
よいものはそのままに、そうでないもはそうでないように、このことを有限である人間が行うのでは難しい。その判断が誤ることもある。

ディケーというギリシア語には、古くから復讐も含まれていた。
応報的なものは好ましくない。円環的思考のなかで、悪いものの円環は望ましいものではないだろう。
私たちが立つ足元の基盤を確認し、どのようなものであるか、そしてそれを確かめながら、のみ、前進はあるのだろう。・・・と思う。これに拘ることに人の一生はいかに短く、しかも長いものか。・・・・・

WHERE WE GO NOW? という問いは、いかにWeという主語が機能するかによる。そしてそのために生命と身体と知性のすべてを捧げてきたにも拘らず、あたかも神の道化あるように処されている人のなんとおいいことか。私たちの理性や知性といったものは、身体があるうちにしかその顕現を許さない。


悲観的にならず、いかにそのことを忘れずに、しかも成すべきことを成せるのか否か。有限さの自覚とともに、限界も見えてくるように思えてならない.こうした事柄がすこしずつ実践されていくには、まだまだ時間がかかるのだろうか。ある権限を手中にすると、大抵の場合は保持するためだけに労力や正当性えるためにその人は奔走する。ある権限を外からみられているうちはそれを批判的にとらえられるのだろうか。

自らが内部の一部になったときから、次第に私性・私利というものに対して、無自覚なままにとらわれ始め、抜け出せなくなるのだろうか。それを正しく忠告してくれることがどれほど大切か、大抵の場合にそのときには気がつかないものなのだろう。