”GOLD AGAINST THE SOUL”の中で一番好きなPVはFrom despair to where
 だが、このビデオと比べてみてもRevolやFasterでのリッチーの状態はあまりにも「ありのまま」に見えて痛々しくなる。だがそれ以上に彼が措かれている状況と苦痛がそのまま見えてくるようでもある。
肉体を通して見えるほど透明である。

なぜ、リリース当初、ホーリーバイブルは失敗作だとこきおろされ、今となっては「名盤」と音楽メディアは書くのか。
なぜなら、「ホーリー・バイブル」では、現代的価値を支えているほとんどのプチ・ブルジョア趣味を、比喩を使わず、否さらに強烈に現実を批判するための比喩を用いて人間存在と世界構造を批判したからである。
ヨーロッパでは商業的にも成功したマニックスだがそのきっかけが「個人を殉教者にするような悲劇性」(好む群衆心理)に基づいていることは否めない。これは彼ら自身が感じている矛盾だと思う。
そして矛盾の中に放り込まれるとは、かれらがどうあるかを問う際につきまとう本質的な問題でもある。


http://www.dailymotion.com/video/x2on11_manic-street-preachers-revol_music

revol=lover


1994 P.C.P




私にとってのマニックスはやはりリッチーがいる「ホーリー・バイブル」までのMANIS STREET PREACHERSです。




REVOLは、ライブで一番聴きたい曲だがーー、リッチー失踪後キャンセルされた来日公演と3人で再スタートしたときのライブは行っていない−−それ以外の公演は来日の都度必ず脚を運んでいるが一度もライブでは聴いていない。だが、リッチー不在でこの曲をライブで聴くことは辛すぎる。

このRevolのPVをあらためて見てみると、男性型ヘゲモニーと家父長制否定、無自覚にそれ自体になっている典型的白人男性およびそれを補完する役目を負う女性という構造を描いている。

子どもはやがて父親になる。
ほとんどの場合、それを何も問わずに。そして同じことが繰り返される。
この構造を批判し、抵抗して生きようとした人は近現代以降すべてが社会的な「死」に遇っている。そして個人もまた死同然か死そのものを選ばざるをえなくなるのだ。




以前、リッチーとアルチュール・ランボーについて書いたことがある。私はリッチーが直接的に不在になったのは、マニックスにとって自分がいないほうがよい、ということを感じ取ってそれをどう周りが否定しょうとも覆せないほどのギャップができていたのではないかと考えることがある。同じ理念と方法をもつと思われてその中でのみ生きていけると思っていたことが覆され、本当は必要ではない、足手まといなだけなのだと、感じてしまったとき、それは外部に対して自己をたもっておけるアイデンティティを保てないほどになってしまうだろう。ニッキー・ワイアが「Noboby loved you」と書いたのはアイロニーでもなんでもない。おそらく真実なのだ。ニッキー・ワイア、ニコラス・・・の立場もわかるが、リッチーの心境はもっとわかるように思う。そしてもっとも皮肉なのは、リッチーの不在によって、死によってマニックスは本当に「国民的バンド」になったのだから・・・私はリッチーがいなくなったあとの、マニックスの方向性が正しいと思ってはいる。だが、リッチーがいたときの純粋さとは完璧さは他のどのようなミュージシャンも持たなかった価値を持っていた。
マニックスがリッチー亡き後に、EVERYTHING MUST GO とIF YOU TORELATE・・・ そしてMASSES AGENST THE CLASSESを作ったことは時代遅れでもなんでもなく、もっともリアルで即時的であり、常に問われる問題を曲にしているからだ。

だがやはりそれでも、リッチーがいたマニックスは”特別”である。特別というのは、他に類がないという意味で、である。
彼がFROM DISPERE TO WHEREで「葉書を送る人は俺の気分がよくなることを願っている」(がそんなことでは何も解決しない)と書いた気持ちがわかるし、居場所がない、いなくなったほうが結果的によいのだ、と感じることも避けられないのだ。
知人のリスナーが、「リッチーは今もどこか南のほうの島で生きていると信じている」といっていたのだが、私はホーリー・バイブル前後のリッチーの言動からそんな程度だったら失踪なんてしなかっただろう、と思う。
マニックスは音楽的動機から生まれたバンドやユニットではない。文学的価値感、政治思想的価値感と死生観が先行していて音楽的なことはジェイムスがほとんど1人で担っていたのだから、ジェイムスの名声が高くなるにつれ、CDを聞き、歌詞をよむリスナーよりライブをよりこなすようになれば、詩人としてのリッチーはそこにはいないことになる。言葉を発するのもリードギターを弾いているのもジェイムスであり、RO誌などを含めてリッチーは純粋というよりも策士だ、何もしない(「ギターも弾けず、かといって練習もせず」)などと書いていたのだから。
存在するだけで抵抗として在ることが赦された前の世代にとって、存在してもしなくてもどちらでも何も変わらないとか、役にたつといえばシステムの一部になることであり、抵抗そのものも管理された複雑さなのなかでは無力であるという絶望はおそらく解るまい。
単純に主張していられるほど、「ユーズレス・ジェネレーション」の世代に置かれた人々(私も含む)は初めから条件付の権利と存在権しか与えられていない。そして努力すればしたで、階層間の価値間のギャップと批判にさらされることが多い。

何事も精神的支柱があり、それを起動にのせるためにはその精神がバックボーンになっているが、行動そのものがあらわになるにつれ、精神的な力というものは覆われてみえなくなる。
もともと作詞とマネージャー的な役割をしていた彼(リッチー)が、メンバーの脱退をきっかけに、ギグ上はサイド・ギターという役割を負っただけで、平均的なバンドと基準にする「ロック好き」「音楽ライター」たちは、何もしていないと批判するのである。そういう記事は飽きるほど見てきた。マニックスの擁護者たちはそれこそが信者のようだったから、その信条である「一枚だけだして解散する」ということが撤回されたときに何もいえなくなってしまった。本当にマニックス賛同者は(私も含めて)マニックスが体現していたことを「信じたかった」のである。ここにこのバンドが持っている特有の意味、「音楽よりも言葉が先にある」という事実がある。

今でも、曲はいいけど詞が・・・というようなまさに、「ジェネレーションテロリスト」がアメリカでは内容警告シールが張られていたときの躊躇いのように、もらす人たちがいる。そうした人は一度も自分の足元も世界構造も存在や事柄自体というもの、非物質的な価値を考えたこともない人だろう。

とにかく音楽ライターはその後はひたすら「一枚だけCDをリリースして終わる」という発言を繰り返してきたリッチーを糾弾していた。言っていることとやっていることが矛盾があると。リスナーへの裏切りだといっていた。
イノセントさを装うダーティさだと書き立てていた。そして彼らは自分たちの強欲さを根拠としてリッチーの無欲さ、禁欲的態度をあざ笑うのである。現代では何も考えないことが価値があるように思われているから、(わかってやっているならともかく)HAPPINESSというメッセージを発するのだろう。
すべてを忘却できるようなものが好まれる。
「クール(cool)」という言葉が最高という表現にあてがわれるならば、マニックスのように宣言をしたり撤回したりすることが揶揄のもととされるのだろう。彼らは、常に「個人の悲劇」を「見たい」のである。このこともリッチーは詞にしている。ケヴィン・カーターはまさにその矛盾を突きつけられた。何も行動しない「良心」は、何か言動をした人にむけて「非難」を容易にする。

商業ベースと共存できるためにはニッキーのような比喩的アイロニーが必要だったかもしれない。だが、RevolやPCP、YESなどが、「快さ」を聴衆にもたらさないかもしれないかわりにそこには「真実」がある。
FASTERが階層的な問題、むしろボーダーとなり透明になった境界線ーブルーカラーとホワイトカラーというものがあるにも関わらず、それが解消されたとされすべて自己責任となった世代以降(つまりリッチーが言うところのユーズレス・ジェネレーション・・・である)を問題にした。
1960年代までは文学が担っていたこうした社会描写と批判の役割を「ホーリー・バイブル」が負っている。

歴史的に、ヘゲモニーとそれを補完する受動的なことを主導力とする女性は家父長制と国家(オイコノミア/エコノミーの起源)支配の基盤である。
それに抵抗する女性たちと男性−肉体の性差よりも本来性を問題にする人間たちというべきだろうか、−歴史からその存在を抹殺されてきた。
それは多数者のアイデンティティを揺るがすために、真実を語るがゆえに消されてきたのである。このPVにはその意味が象徴的に、そしてリアルに描かれている。この構造は2010年を超えても、世紀末から新世紀になっても変わらず、むしろ忘却されている。ある意味で私の時間も、15年前から変化してない部分がある。

経年とともに変わるものもあるのかもしれないが、私の場合はリッチーの不在とその存在場所を与えなかった世界という事実、「いなくなるしかない」ということを否応なく突きつけられる地上の存在だということを忘れることはない。

音楽ジャーナリズムが得意とするカテゴリーについても、Manic Street Preachersだけはそのリスナー層が特定できないのだという。英国の音楽ジャーナリストはカテゴリー分けが得意らしいが(範疇を問題とするところにスコラ的な影響を感じる)マニックスだけはと一体どこにどういった聴衆がいるか特定するのは難しいいう。それは本当のことだろう。本来的な問いは常に、中間的にところに位置する。場所や地位の問題としての在り方という意味での中間である。マニックス自体が、歴史とロックの中間、文化とカウンターカルチャーの中間、文学と宗教と批判という中間点にいつもいた。極端ではないからいつも問いが突きつけられるのは彼らの要素が単純ではないからだ。だがそれはおそらくリスナーもである。彼らほど、三島由紀夫や太宰治や谷崎潤一郎を正面から読んだ英国人もいないだろうし、今となっては日本の若年層でもこれほどの読解を持つこともないだろう。
リッチーを肥大したエゴと断ずるのは簡単なことである。
しかし構造と透明化した支配、繰り返される歴史をみた者ならば、彼の立場を否定することは出来ないはずである。・・・そこに異を唱えたものがことごとく共同体から消し去られて殉教者か聖人か英雄かに祀り上げられて「われわれ」がその犠牲のもとに生きていることを自覚することはあっても。
だからマニックスのリスナーはコアな層はおそらくロックミュージックというものに対しても『』(カッコ)つきで接しているのだと思う。
問題はカテゴリーと範疇の問題でもなければ、階層とか階級の問題でもない。構造と顔のみえない支配体制と権威と人々の心性、そしてなによりも本来的か否かという存在論に根ざしているからではないか。

ホーリー・バイブルというタイトルのこのアルバムのジャケット写真は、
白人で短髪の以上に肥満体の女の姿である。
マリアでもアンナでもソフィアでもアテナでもない、もはやイアソンの妻メディアでも大地母神でもなく再生をつかさどるイシスでもない、そこに描かれた欧米社会の病理的日常はこの白人の肥満した醜さに収斂される。
歌詞で用いられる痩身な女性が原因である消費社会を暴くのに対して、カバージャケットが示すのは、結果としての現在の欧米社会の病理のように思える。まったくありかたは別だが帝国主義ヨーロッパの罪悪の告発の仕方は、どこかジョルジュ・ルオーのようでもある。

リッチーが不在の瞬間からマニックスは、感性による表現よりももっと人為的混沌を暴こうとしているのところがある。だから実のところ、YOU LOVE USやモータウン・ジャンクなどの曲が「素晴らしくうまい演奏で」ライブで聞くことはリッチーを知っているものならば辛い。
三人のマニックスには、三人しかいないのだという自覚の中で活動してほしい。最新のアルバムには、リッチーの詞が使われたという。それは重要な刻印だが、正きているものの奢り、死者の美化にならないことを願う。





Manic Street Preachers - P.C.P  Glastonbury
2014