イタリア的カテゴリー ――詩学序説
著者:ジョルジョ・アガンベン
みすず書房(2010-04-16)
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私がテキストに特別な意味を抱いて接し始めたのはおそらく17歳前後のジョルジュ・バタイユ「不可能なもの」あたりだったかもしれない、またはそれより前のおそらく14歳前後のカミュ「シーシュポスの神話」だったかもしれない。
その意味で、ジョルジュ・アガンベンの「開かれ」「思考の潜勢力」はとても興味深い。週末はアガンベンのテキスト(翻訳)を読んでいた。
バタイユの「ドキュマン」はやはり20歳前後に読んだだろうか。長らく「ラスコーの壁画」なども読んでいた。その後、バタイユでレポートを書いたのち、しばらくは読んでいなかった。ちなみに二見書房の全集は、私が高校生あたりから買い揃えていったものと、家人がやはり別にそろえたものとで2冊ずつ家にある状態。ほかにもそういった蔵書の重複は多々ある....開かれ―人間と動物
著者:ジョルジョ アガンベン
平凡社(2004-07)
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アガンベンはコジェーブが日本に1959年に来たときの印象をつづっている。これが相当に興味深い、的を得ている。
なぜ形式だけ受け入れ(資本主義、民主主義、など)その意味も浸透していないのに、システムとしてはうまく「廻って」いるのか、奇妙な「歴史の終焉以降」の現象について、コジェーブは書き記している。
もっとも今もしこの現状をみたら、それゆえの、見せ掛けの構造の瓦解を即座に表現したかもしれない。
同じ本ではジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラについても書き記している。ピコのテキストを読んだことがあるならば、なぜかこの「演説」がいつのまにか、というよりもドイツで出版されたときから「尊厳」という言葉がつきまとっていることに気がつくだろう。
明らかにこの言葉がついているときから異なる概念擁立にピコの演説は利用されている。「人間の尊厳について」などということはピコの念頭にはほとんどない、そればかりか、その捉え方をすると曲解による曲解を生んでしまう。アガンベンはこのことに対して<序列なし>というタイトルで短いテキストを書いている。私もたとえば、自由主義批判や人間中心主義批判にしばしばこのピコの思想が持ち出されるとき、違和感があったし、原典テキストをアバウトに取り上げた漫画などもあって、受容の「放埓さ」にご門をもっていたので、明解なこの指摘は興味深いものだった。
ピコやフィチーノの思想は、それだけをみていても正統には理解できない。近現代的視点からながめているだけではなおさらである。中世とのつながりと差異から認識するべきである。
私自身が調査している途中なので詳細は省略するが、浸透するときには、ある変容、拡大解釈がつねに付きまとっているのである。拡大解釈がオリジナリティに付属するとき、何からのイデオロギーに変容させられていることが多い。当然そうした変容は肯定できるものではない。涜神
著者:ジョルジョ・アガンベン
月曜社(2005-09)
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著者:ジョルジョ・アガンベン
月曜社(2009-12)
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テキストや文献に向き合っているときは、・・・例えば図書館の閲覧室にいるときは1日8時間以上そうしていることもある。テキストの本意に迫ろうとしてると消耗する。がそれは本来的なワークであるのでストレスとはまったくかかわりがない。だが、日常に戻ると、私は「どこにもいない」ことがわかる。もちろん仕事は多い、仕事をすることはいやだとおもったことはない。それが必要とされ、他利的であるならば。しかし、しかし私は本当は誰からも求められてはいないのだ。何かの作業の代理としてのみであり、それもできれば、充分に生きていることは求められていない。
それは不満ということではない。
ただ、やはりある見え方・・・・が張り付いてしまっている以上、人は何も知らないふり、気がつかないふりをするにもダメージは大きい。・・・・・
テキストとの対話が行える間は、その間こそは幸福なのだろう。
悪意のない拒絶は、良心や親切心を理由とする「同胞心」、つまり自己と他者の差異を意識せず、他者もまた自己の延長であると信じて疑わない人々からいつも唐突に向けられるものである。
テキストとの対話、それ以外のこととは見えない膜と見えない壁で常に外界と他者から遮断されている。これは私の意図には関わらずに、である。
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