猛暑ですがあえてこの話題を。クリスマスツリーを飾るのが好きな人は消費主義的、プレゼピオが好きな人は創造するのが好き(うまいヘタの程度はともかく)という記述がクレシェンツォの本にあり私もずっとそう思っていたので頷いてしまった。
私の知人・友人にはプレゼピオ派が多いように想います。そして大抵家族の中で、プレゼピオ派は少数孤立するようです。一般のラテン家庭では、娘や奥さんがツリー派で旦那さんがプレゼピオ派が多いらしい。私の知人友人では、奥さん・女性のほうがプレゼピオ派で、男の人のほうが消費主義的なようです。私もプレゼピオ派です。テレビも好きではありませんしね・・・・
私は食事も簡単なものでもよいから作って食べる、できあいの惣菜は買わない(買いたくない)、お菓子もあまり買わない・・・のですが、明らかに家族とは対立していたりします。添加物なども気にしているのは私が主ですし・・・健康状態(心身)はコントロールできる部分が大半ですし食事や水など少しのことを気をつけることが重要だと思っているのですが、・・・
私が多忙時でも「いざとなったら全部やるから大丈夫」といわれるのですが、やや微妙な心情になります。「いざ」という非常時が何をさしているのでしょう。
「お分かりのように、人類はプレゼーピオ派とクリスマスツリー派に分かれます。それというのも、世界は愛の世界と自由の世界に分かれるからです。(略)プレゼピーオ派とクリスマスツリー派への人類の区分ははななだ重要だから、私見では、それは身分証の上に、性別と血液型と一緒に併記すべきじゃなかろうか(略)クリスマスツリー派とプレゼピーオ派とでは価値基準がすっかり異なる。前者はスタイル、お金、パワーを重視するが、後者は愛と詩に優位を置いているのです。(略)二つのグループ同士の溝はとても深いから、お互いに意思疎通もできない。妻は夫がプレゼピーオを組み立てるのを見て、<どうしてウーピム(スーパー)へちゃんとした既製品を買いにいかないの?>と尋ねる。プレゼピーオの美しさは準備しているときとか、それを考えているときにもある。クリスマスツリー愛好者は消費主義者だが、逆にプレゼピーオ派は上手でも下手でも創造者になる」(「P.49) と続きます。
12月のフィレンツェに行ったときにプレゼピオの小さいものを買ってこようと思ったのに、同行者の賛同を得られずに買えなかったのが今も悔やまれます。どうも私は「形」を残したいのですが、私以外の人は「感覚的に満たされたい/費やしたい」のでしょう。節制して満ちたりるということが・・・・常に意思疎通できない部分があります。節度は充足させてくれるものだと私は思うのですが・・・こういう感覚を持つ私のほうが「いけない/煩わしい」のでしょうね。しかもこうしたことが対話できない。・・・・
私はプラトン主義ですが、やはり周囲にはヒエラルキー、カテゴリーを「無意識に」(この言葉は濫用しないほうがよいのですが)価値基準にしている人も多く。
どのように対話したらよいのか、迷うことが多々在ります。
しかも何か前提として、社会的立場が張り付いており、個人と個人の対話ということが成り立たない場合が多かったり、意見が非難と受取られたりすることも。そしてなにより「思い」を重視するために「気分」を損ねるような真実の情報をどう伝達すればよいのか、迷うのです。
理性は、おそらく人がおのずから意識しているほどには身についていないものなのでしょう。私たちの主観と客観はかならずしも平行線を保てていないのではないでしょうか。
私はおそらく1人だけで考える時間が足りていないのです。1人だけというよりも、言葉と文献とそれを共有するための対話を含んだ時間が。
一方で消費や気晴らし、気分の問題などを優先したい人にとっては私は「いざ」とならなくても、存すること自体が望ましくないのではないか、と思うことが多いのです。なぜなら「充足」が「気分」に大きく左右される人の場合、真実や事実、義務や節制というようなこと、私が言動する際にどうしても顧みるもの、それがおそらく、大多数の人にとっては「不要」なものなのです。
感情の多くは、記憶と混ざり合うことで極端なものになる。
事実だけならばおそらく、人間はとりみだすことはない。
だが過去の記憶との比較、他人との比較、状況の比較などによって、本来ならばそれほど心の中を占めはしないものごとにすら、怒りや恐怖を抱くものなのでしょう。
多くの人は他者は自己を利するもの、としか捉えていないのでしょうか
自己の気分よく(不快を感じないですむような?)過ごせる時間のために他者や交流を求めるのでしょうか。一方通行的なそれらの思惑による行動原理があまり理解できません・・・・
いざとなったらということは、今そうなっても問題ないんだろうな、と仕事、調べ物などで外出中、駅なのでよく思います。利便性が理由で、また自分がやりたくないことをやる人を求めるという必要性(まさにアリストテレス的他者の必要性。”知者”が知者であるために実践者を必要とするという構造・・・)のみが根拠のように思います。
悲観的になっているわけではなく。私は誰でもない。目立つとか、存在感があるといわれることも多いですが、実際のところ、「影の薄さ」は相当だとは想います。
いうまでもなく他者とは家族も含みます。
家族間の価値観のギャップ、行動規範のギャップ、善悪のそもそものギャップなど・・・
(これがもっとも厄介なのかもしれませんが)
9月は忙しくなりそうです、今よりも・・・
どのくらい余裕がないかといえば、ケーブルテレビの月1の番組雑誌が送られてくるのに、6月、7月、8月、9月と一度も開封していません...
もちろん開封した月とて、番組を見ることはないのですが。
朝から夜中まで「やらねば」という義務命題に沿ったことしかする時間はありません。現代は余暇が出現した時代といわれますが、私の場合はそういうわけでもないのです。だから中世ー近代の間、または消費主義が蔓延していなかった古代の価値観のほうが理解できるのでしょうか。
私の知人・友人にはプレゼピオ派が多いように想います。そして大抵家族の中で、プレゼピオ派は少数孤立するようです。一般のラテン家庭では、娘や奥さんがツリー派で旦那さんがプレゼピオ派が多いらしい。私の知人友人では、奥さん・女性のほうがプレゼピオ派で、男の人のほうが消費主義的なようです。私もプレゼピオ派です。テレビも好きではありませんしね・・・・
私は食事も簡単なものでもよいから作って食べる、できあいの惣菜は買わない(買いたくない)、お菓子もあまり買わない・・・のですが、明らかに家族とは対立していたりします。添加物なども気にしているのは私が主ですし・・・健康状態(心身)はコントロールできる部分が大半ですし食事や水など少しのことを気をつけることが重要だと思っているのですが、・・・
私が多忙時でも「いざとなったら全部やるから大丈夫」といわれるのですが、やや微妙な心情になります。「いざ」という非常時が何をさしているのでしょう。
「お分かりのように、人類はプレゼーピオ派とクリスマスツリー派に分かれます。それというのも、世界は愛の世界と自由の世界に分かれるからです。(略)プレゼピーオ派とクリスマスツリー派への人類の区分ははななだ重要だから、私見では、それは身分証の上に、性別と血液型と一緒に併記すべきじゃなかろうか(略)クリスマスツリー派とプレゼピーオ派とでは価値基準がすっかり異なる。前者はスタイル、お金、パワーを重視するが、後者は愛と詩に優位を置いているのです。(略)二つのグループ同士の溝はとても深いから、お互いに意思疎通もできない。妻は夫がプレゼピーオを組み立てるのを見て、<どうしてウーピム(スーパー)へちゃんとした既製品を買いにいかないの?>と尋ねる。プレゼピーオの美しさは準備しているときとか、それを考えているときにもある。クリスマスツリー愛好者は消費主義者だが、逆にプレゼピーオ派は上手でも下手でも創造者になる」(「P.49) と続きます。
12月のフィレンツェに行ったときにプレゼピオの小さいものを買ってこようと思ったのに、同行者の賛同を得られずに買えなかったのが今も悔やまれます。どうも私は「形」を残したいのですが、私以外の人は「感覚的に満たされたい/費やしたい」のでしょう。節制して満ちたりるということが・・・・常に意思疎通できない部分があります。節度は充足させてくれるものだと私は思うのですが・・・こういう感覚を持つ私のほうが「いけない/煩わしい」のでしょうね。しかもこうしたことが対話できない。・・・・
私はプラトン主義ですが、やはり周囲にはヒエラルキー、カテゴリーを「無意識に」(この言葉は濫用しないほうがよいのですが)価値基準にしている人も多く。
どのように対話したらよいのか、迷うことが多々在ります。
しかも何か前提として、社会的立場が張り付いており、個人と個人の対話ということが成り立たない場合が多かったり、意見が非難と受取られたりすることも。そしてなにより「思い」を重視するために「気分」を損ねるような真実の情報をどう伝達すればよいのか、迷うのです。
理性は、おそらく人がおのずから意識しているほどには身についていないものなのでしょう。私たちの主観と客観はかならずしも平行線を保てていないのではないでしょうか。
私はおそらく1人だけで考える時間が足りていないのです。1人だけというよりも、言葉と文献とそれを共有するための対話を含んだ時間が。
一方で消費や気晴らし、気分の問題などを優先したい人にとっては私は「いざ」とならなくても、存すること自体が望ましくないのではないか、と思うことが多いのです。なぜなら「充足」が「気分」に大きく左右される人の場合、真実や事実、義務や節制というようなこと、私が言動する際にどうしても顧みるもの、それがおそらく、大多数の人にとっては「不要」なものなのです。
感情の多くは、記憶と混ざり合うことで極端なものになる。
事実だけならばおそらく、人間はとりみだすことはない。
だが過去の記憶との比較、他人との比較、状況の比較などによって、本来ならばそれほど心の中を占めはしないものごとにすら、怒りや恐怖を抱くものなのでしょう。
多くの人は他者は自己を利するもの、としか捉えていないのでしょうか
自己の気分よく(不快を感じないですむような?)過ごせる時間のために他者や交流を求めるのでしょうか。一方通行的なそれらの思惑による行動原理があまり理解できません・・・・
いざとなったらということは、今そうなっても問題ないんだろうな、と仕事、調べ物などで外出中、駅なのでよく思います。利便性が理由で、また自分がやりたくないことをやる人を求めるという必要性(まさにアリストテレス的他者の必要性。”知者”が知者であるために実践者を必要とするという構造・・・)のみが根拠のように思います。
悲観的になっているわけではなく。私は誰でもない。目立つとか、存在感があるといわれることも多いですが、実際のところ、「影の薄さ」は相当だとは想います。
いうまでもなく他者とは家族も含みます。
家族間の価値観のギャップ、行動規範のギャップ、善悪のそもそものギャップなど・・・
(これがもっとも厄介なのかもしれませんが)
9月は忙しくなりそうです、今よりも・・・
どのくらい余裕がないかといえば、ケーブルテレビの月1の番組雑誌が送られてくるのに、6月、7月、8月、9月と一度も開封していません...
もちろん開封した月とて、番組を見ることはないのですが。
朝から夜中まで「やらねば」という義務命題に沿ったことしかする時間はありません。現代は余暇が出現した時代といわれますが、私の場合はそういうわけでもないのです。だから中世ー近代の間、または消費主義が蔓延していなかった古代の価値観のほうが理解できるのでしょうか。
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