力と他者―レヴィナスに力と他者―レヴィナスに
著者:斎藤 慶典
勁草書房(2000-11)
おすすめ度:5.0
販売元:Amazon.co.jp


タイトな日常が続いていますが、帰宅後(普段あまり観ない)TVをつけると広島の慰霊に初めてアメリカ大統領が出席し、イギリス・フランスの代表、国連事務総長も出席したと報道されていた。イギリスからはディビット・フィットン氏が出席しコメントも流されていた。(フィットン氏は「The Age of spupid」の上映会とレセプションにも出席してコメントをしていたのをよく覚えています。

ところで私はこの報道を観ていて、やはり永遠平和とは何を指すのか、それが可能ならばどうすればよいのか(可能性はある、のである)ということを思った。ホロコースト、ナショナリズムが起きるとき、それが力による暴走状態になるとき、それを行使するのはまた人間である。そうせざるをえない状態を作り出すのは力と権力、権威とともに「良いことをしている」という信念でもある。できごとが繰り返さないためには、これらの人間心理や構造、社会的な力というものが何であるか、それが明らかにならない限りは、「繰り返し起こる」--ということだ。保有されてるだけで、地球上の生命をすべて殺戮することが可能な力(核)はすでに「在る」のであって、ある方向性によってはそれはいつどこでも可能なのだ。・・・・あまり意識しないでも生きていられるが、それは起こってしまってからは遅いことだし、現に数十年前にも、それも2度も起きていることだ。このことを「自ら体験しなければ、すべて他人事、悲劇的なできごととしか捉えられないような心情が国内で蔓延していくことはとても危険である。

他者の死とはなにか。
映像をみながら、私は斎藤先生の「力と他者」を思い出していた。

「私たちがそれに、「死」を認める「個体」は、いったいどこで成立するのか。私たちがそれに死を認める個体が個体として成立するのは、私がそれに「顔」を認めるときだ、と言いたいのである。通常私たちは、血液中のT細胞や腎臓に「顔」を見ることはない。だから、それらは「死ぬ」わけではないのだ。逆に私たちは、友人に「顔」を、犬や猫に「顔」を、場合によっては子供が可愛がって飼っている金魚や虫に対して、あるいは自分が丹精こめて育てた植物に、「顔」を認めることすらあるのではないか。私たちはそれらに向かって「語り」かけはしないか。すなわち、応答しはしないか。だからそれが死んでしまったとき、なんとも遣り切れない気持ちになるのではないか。たとえば「哀しみ」という感情に、あるいは「憤り」という感情に、襲われるのではないか。」

「ユダヤ人のガス室送りを命じたナチの幹部は、彼らひとりひとりの「顔」を見なかったから、見ずに済んだから、いとも簡単にそれの「抹消」を命ずることができた、と考えられないだろうか。あるいは戦争を、忘れないようにしようと−−、私たちは他人に対してすら、いつも「顔」をみているわけではないのだ。逆に私たちは、場合によってはある個体が「顔」をもっているがゆえに−−そこに「顔」を見てしまうがゆえに、その個体に「殺意」を抱くことがありうるのではなかったか。」(p.196-7 終章 他者の/と死)


もしも国内ですら、「被爆者」が「他者」であると都市民が想い始めたり、過去のことであると思うだけの感慨にひたるだけならば、こうしたことはいくらえも興りえる可能性をもっている。私たちは、無意識のままに「加害者」となっている。加害者を「支えている/出現を容易にする」ということかもしれない。奇妙に聞こえるかもしれないが、アメリカや英仏の戦争大儀は「民主化」なのである。暴力はつねに存在するが、「大義」が「正義」として語られるときに、たいていは逆のことが生じている。日本の場合もそうである。
私たちの意識はどこまで変化しているのか、考えられた結果により「繰り返してはならない」という転換になっているのか。人間にはさまざまな形で「他者」性がつきまとう、極端にいえば、「どうなろうが知ったことではない」という感情や、自分の利害に関係することには興味をもつが、利害がかかわらなれば何の興味も示さないという人も多いのだ。相手個人個人のことを知らないのに、「憎悪」「蔑視」が生じるとき、それはその人や集団のアイデンティティと結束に利用される。
こうした構造が今もなくなっているとか改善されているとは思えない。

それではなぜ、今年は西欧から参加したのだろうか。
彼らにとっての他者は明らかに存在するその一方で、矯正すべき「望ましくない」「核保有」が世界に生じており、その排除のためだけに、それが主な原理として、都合のよい、目的達成的なだけの「平和」へコントロールいていくためにならないことを願っている。

感情的なだけでなく(感情は風化する)構造的なレベルで語らねばならないのだが、日本ではあまり・・・というかほとんど見かけない。一方で感情的な民衆裁判的な意識もあまり変化していないように思われる。
だから「一方で核の抑止力は必要だ」というコメントは、曖昧で誰にとってももはや意味を持たないのであり・・・根源的な議論を含んでいないことにある。答えを重視する人が多いが、「問題」を発することがなければ、何も解決にも向かわないと思われるのである。

アメリカ側のおそらく保守的な意見では「そのような必要はない」と応えるだろう。国内でもそうした意見はよく見かける。
おそらく「実存」の倫理にギャップが生じているのだろうが、そのギャップが討議されなければ、形だけ、または時間とともに薄れて忘却されるような感情レベルの問題としてまた放置され(繰り返される)可能性が多いのではないだろうか。現に日々のメディアやありふれた対話の中ですら、曖昧なアイデンティティを支えるための、排除的「他者性」はありふれている。こうしたものが、状況次第で暴発しないためにも、認識自体をも振り返らなければならないのではないだろうか。