エトワールガラ2010(bunkamura オーチャードホール)Bプロ(7/30)に行ってきました。
Bプログラムは「バレエ・リュスへのオマージュ」と題された3つの演目があり期待していました。マチアス・エイマンの「薔薇の精」(ル・スペクトル・ローズ)は本当にすばらしかった。ルグリが演じた薔薇の精は映像ではみたことがあるけれども、それに遜色なく、ある意味ではそれを凌駕するようなものだった。跳躍が、とか回転が、というようなものを超えている。要求されるのは、薔薇、そしてスピリチュアルな存在。バレエリュスの演目は、どれも実際には見ることが適わない世界をテーマと演目にしている。だから20世紀のパリの詩人・文学者や画家たちは熱狂した。
この日この舞台を目にした人も同じような期待の中で、それ以上のものを観た。
表現がと技術、どちらもそれが完璧に見えるときは、あたかも自然にみえるものだが、そうした次元のものだったと思う。
同様に、「フラジル・ヴェッセル」もまた完璧だった。普通ネオ・クラシックというものはモダンとクラシックの折衷的なものに終わりやすい。しかし、リアブコ、アッツィオーニ、イリ・ブベニチェクの3者の動きは、美しく正しい動きで、残像が見えるほどだった。動いた軌跡が見えるパであり、一つ一つの形・フォームが鮮明であると同時に、つながりをもって調和している。リアブコは前回もすばらしかったですが、今回は更にすばらしかった。
ただしい動きというのは、規範的であることだけを意味しない。それは調和的なライン、線分である。しかも、完全に重力からの支配から解き放たれている。イリの振付ける作品を見ると、なぜかレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のデッサンとスフマート画法のことを思い出す。人間の創造性は言語と舞踏で理性そのものを表すことができるが、リアブコ、アッツィオーニ、イリのこの作品はすばらしかった。こうした演目が日本で上演されることはとても貴重だし、こうした演目が上演される機会が増えてもらいたい。
ドロテ・ジルベールとマチアスの「スターズ&ストライプス」もフィナーレに相応しくすばらしかった。とにかくマチアス・エイマンがすばらしい。彼が動いている姿は、映画「パリ・オペラ座のすべて」でも観られるが、もっと映像作品・全幕で残されるべきだと思う。
バレエを学んでいる娘が言うには、ドロテ・ジルベールが後ろにパッセをしながらフェッテをしていてあれは凄く難しいのにあまり拍手がなかったのはもったいないと言っていました。フェッテを実際に練習している人がみるとまたこういう視点なのだな、と思ったので書いておきます。
どれもすばらしい舞台だったけれども、三つ上げるとしたらどれ?と聞いてみたところ、「スターズ・アンド・ストライプス」(マチアス・エイマンとドロテ・ジルベール)、マリ=アニエスの「瀕死の白鳥」、マリ=アニエスとブベニチェクの「アパルトマン」だそうです。
この演目は夫も行きましたが同じ質問をしたら、「薔薇の精」、「スターズ・アンド・ストライプス」、「フラジル・ヴェッセル」それから「アパルトマン」だそうです。
私は上記3作品ともう2つ挙げるならば、「プルースト」のモレルとサンルー。バンジャマンとアバニャートの「牧神」も意欲作だと思います。アバニャートはネオクラシックも良いので次はそういった作品で観られると嬉しいです。(今年の新年ウィーン・フィルのルリッシュとのバレエはすばらしかったので)
薔薇の精ではオブラスツォーワもすばらしかったと思う。薔薇の精自体がとてもよいときに、カルサーヴィナが演じたこの役割を自然に演じることもまたとても難しい。両者の調和がとても絶妙だった。
この映像が残り後の世代にも受け継がれるとよい、と思うほど(当日は録画がされていたようです)
とにかくすばらしい公演でした。演目も構成もすばらしかった。もし次回企画されるとしたらマチュー、ジロ、マチアスが出ているジュニュス「生成」を観られたら良いです。ロメオ・ジュリエッタはヌレエフ版のジルベールがすばらしいので、オブラスツォーワがスワニルダをやり、ジルベールが・・・とそういうことも思ってしまいます。
プロティノスやフィチーノを翻訳している左今司さんが「すばらしい芸術作品を美術館でみるとアーティストのパワーに圧倒される」といってますが本当にそういう状態(いい意味で)した。
人がここまでのものを創り上げることができるというのは感嘆しますし、そしてバレエは一瞬ごとに消えていくが永遠・普遍の造形をも同時に作り出す。それは観るものとの共有によって繋ぎ止められる価値なのだと感じます。人が生きる意味や目的というのは、こうしたときだけに、純粋に存在するのだ、と思えるのです。
日記としては...
夏の忙しい時期に丁度さしかかっており、4時半に起床、眠るのは25時すぎという状態です。ただ、忙しいとかずっと行動しつつけているとかやらなければならないことがあるとかいうこと自体が困難だとは思わないといいますか、それよりも「困難」だと感じることはあります。私的なことは割愛しますが・・・・
ともかくこの公演は1月から愉しみにしていたので、本当にみることができてよかったと思います。
また追記できたらと思います。
Bプログラムは「バレエ・リュスへのオマージュ」と題された3つの演目があり期待していました。マチアス・エイマンの「薔薇の精」(ル・スペクトル・ローズ)は本当にすばらしかった。ルグリが演じた薔薇の精は映像ではみたことがあるけれども、それに遜色なく、ある意味ではそれを凌駕するようなものだった。跳躍が、とか回転が、というようなものを超えている。要求されるのは、薔薇、そしてスピリチュアルな存在。バレエリュスの演目は、どれも実際には見ることが適わない世界をテーマと演目にしている。だから20世紀のパリの詩人・文学者や画家たちは熱狂した。
この日この舞台を目にした人も同じような期待の中で、それ以上のものを観た。
表現がと技術、どちらもそれが完璧に見えるときは、あたかも自然にみえるものだが、そうした次元のものだったと思う。
同様に、「フラジル・ヴェッセル」もまた完璧だった。普通ネオ・クラシックというものはモダンとクラシックの折衷的なものに終わりやすい。しかし、リアブコ、アッツィオーニ、イリ・ブベニチェクの3者の動きは、美しく正しい動きで、残像が見えるほどだった。動いた軌跡が見えるパであり、一つ一つの形・フォームが鮮明であると同時に、つながりをもって調和している。リアブコは前回もすばらしかったですが、今回は更にすばらしかった。
ただしい動きというのは、規範的であることだけを意味しない。それは調和的なライン、線分である。しかも、完全に重力からの支配から解き放たれている。イリの振付ける作品を見ると、なぜかレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のデッサンとスフマート画法のことを思い出す。人間の創造性は言語と舞踏で理性そのものを表すことができるが、リアブコ、アッツィオーニ、イリのこの作品はすばらしかった。こうした演目が日本で上演されることはとても貴重だし、こうした演目が上演される機会が増えてもらいたい。
ドロテ・ジルベールとマチアスの「スターズ&ストライプス」もフィナーレに相応しくすばらしかった。とにかくマチアス・エイマンがすばらしい。彼が動いている姿は、映画「パリ・オペラ座のすべて」でも観られるが、もっと映像作品・全幕で残されるべきだと思う。
バレエを学んでいる娘が言うには、ドロテ・ジルベールが後ろにパッセをしながらフェッテをしていてあれは凄く難しいのにあまり拍手がなかったのはもったいないと言っていました。フェッテを実際に練習している人がみるとまたこういう視点なのだな、と思ったので書いておきます。
どれもすばらしい舞台だったけれども、三つ上げるとしたらどれ?と聞いてみたところ、「スターズ・アンド・ストライプス」(マチアス・エイマンとドロテ・ジルベール)、マリ=アニエスの「瀕死の白鳥」、マリ=アニエスとブベニチェクの「アパルトマン」だそうです。
この演目は夫も行きましたが同じ質問をしたら、「薔薇の精」、「スターズ・アンド・ストライプス」、「フラジル・ヴェッセル」それから「アパルトマン」だそうです。
私は上記3作品ともう2つ挙げるならば、「プルースト」のモレルとサンルー。バンジャマンとアバニャートの「牧神」も意欲作だと思います。アバニャートはネオクラシックも良いので次はそういった作品で観られると嬉しいです。(今年の新年ウィーン・フィルのルリッシュとのバレエはすばらしかったので)
薔薇の精ではオブラスツォーワもすばらしかったと思う。薔薇の精自体がとてもよいときに、カルサーヴィナが演じたこの役割を自然に演じることもまたとても難しい。両者の調和がとても絶妙だった。
この映像が残り後の世代にも受け継がれるとよい、と思うほど(当日は録画がされていたようです)
とにかくすばらしい公演でした。演目も構成もすばらしかった。もし次回企画されるとしたらマチュー、ジロ、マチアスが出ているジュニュス「生成」を観られたら良いです。ロメオ・ジュリエッタはヌレエフ版のジルベールがすばらしいので、オブラスツォーワがスワニルダをやり、ジルベールが・・・とそういうことも思ってしまいます。
プロティノスやフィチーノを翻訳している左今司さんが「すばらしい芸術作品を美術館でみるとアーティストのパワーに圧倒される」といってますが本当にそういう状態(いい意味で)した。
人がここまでのものを創り上げることができるというのは感嘆しますし、そしてバレエは一瞬ごとに消えていくが永遠・普遍の造形をも同時に作り出す。それは観るものとの共有によって繋ぎ止められる価値なのだと感じます。人が生きる意味や目的というのは、こうしたときだけに、純粋に存在するのだ、と思えるのです。
日記としては...
夏の忙しい時期に丁度さしかかっており、4時半に起床、眠るのは25時すぎという状態です。ただ、忙しいとかずっと行動しつつけているとかやらなければならないことがあるとかいうこと自体が困難だとは思わないといいますか、それよりも「困難」だと感じることはあります。私的なことは割愛しますが・・・・
ともかくこの公演は1月から愉しみにしていたので、本当にみることができてよかったと思います。
また追記できたらと思います。
コメント
コメント一覧 (4)
涼しくなったらぜひお会いしましょう。
「フラジル・ヴェッセル」すばらしかったですね、身体表現でここまでできるのかと。イリ兄弟が1月に行った公演はぜひのえるさんも観てもらいたかったです。
マチューとリアブコの作品は観ながら・・・
もしミケランジェロがこの作品をみたら、どんな彫像とインスピレーションを生成したのか?などと思ってしまいました。明らかに、ミケランジェロの造形がなければこの作品のインスピレーションもなかったはずですから。
日程の都合もあり三銃士は観ることができなかったので大変気になります。とにかくジルーベルとマチアスが来日してくれたのが貴重でした。バンジャマンとエレオノーラも。オペラ座はここ数年が転換期でもあるように想います。それには観客(我々)の在り方も問われるように感じます。
クラシック・ローズ、イングリッシュ・ローズやいぬたちの記事も見ていただいたのですね。ありがとう御座います。