「いつもわたしに不幸に思えるのは、「神」の語(これは結局は宗教用語である)が、哲学者たちによって、かれらの体系における、なんぴともおそらく信仰の、まして愛の対象とはみなされないような因子の名として、保持されてきたことである。」(「ソクラテス以前以降」 F.M.コーンフォード P.121)


コーンフォード著作を読んでいる。同感なので明記しておくが、付け加えると「神」とか「善」とか「理」という言葉は日本ではそれまで使用されてきた歴史的背景や言語に染み付いたイメージがつきまとっているがゆえに、更に不幸な状態に思われる。
哲学も同様で、フィロ・ソフィア(知を求め愛する いうなれば知の欠乏を認識することによって始まること)がどこか狭義に受取られて、人々からは遠ざかる。結果として、怪しげな「自己啓発」とか「ニューサイエンス」のような霊感商法に惑わされたり、「セラピー」のようなものに依存したりと、さらに不幸な状況が生まれている。

不安は、逆にいえば、それまでがその人が「思い込み」の世界にいたからなのであって、何事も決定していないことは自然なのだが、奇妙な形で近代(移殖された、または途中で頓挫している)した社会となり、生存競争は激しくなる一方で、実をいえば多くの人のメンタリティは2000年前とかわらないような「多神教」(開運とか、厄除けとかそういうもので何か状況が変わるという、また支配者にすべて任せ、他者依存的な態度など)状態なのだから、混乱する人で溢れているようにみえる。

ある大型書店(大型書店ほど読みたい本、探している本がない傾向はいっそう酷い)で塩野七生が十字軍について執筆するという広告をみたが、その理由づけに首をかしげた。
「現代では宗教戦争が続くのだから、多神教世界のほうがよい」というような内容だった。あまりにも素朴な誤解というか思い込みのような気がする。多神教から次第に一神教が形成されていくのであって、イスラムとキリスト教が反目しあっているという単純な構図ではない。(厳密にいえばキリスト教は宗教だが、イスラームは宗教ではない。聖俗の境界線がないのだ。それにユダヤ、キリスト教、イスラム教は根本において同じところから派生している。イスラームでも旧約は聖典の一つであるし、イエスも預言者の1人として扱われている。共通点のほうが多く、解釈の違いによって異なるものになっている。)その差異において日本人が橋渡しになれるだろうというのは、やや視点が狭すぎる。

権力が宗教的絶対性と結びつくことが問題であって、そういう問題ではない。「混沌」を「自然」と勘違いしている限り、アイデンテティが不安定になれば、忽ちにして、多神教のなかから生じる一神教的独裁が始まりやすい。絶対的なものに身をゆだね、支配することと支配されることを望み、他人と自分の自律性に盲目的な社会ではしばしば、第二次世界大戦前のような状況が生まれやすいのではないか。
無知の民ではないが、忘却の民だと思うことが多い。それはしばしば、人情とか義理とかで正当化される。
問題なのは、公的システムもまたこうした傾向をあてにしたり、利用したりしようとすることだ。


先日もローマに対する日本人の勝手な親近感について書いたが、どこか自分たちの価値を補強してくれるから、ローマを支持するというような人が多い。

私はどちらかといえば、違う部分、差異の部分にローマの美点を見出す。公共事業は有力者や貴族、市民上層部の私財でおこなわれていた、とか市民には食料が保障されていたとか、宗教的民族的寛容性などに美点を見出す。
その差異を見出す点で「ローマ人への20の質問」や比較的自由散文的な「イタリア異聞」などは小中高生には薦めたいとは思うけれども、大人たちが「ローマ人の物語」などを読んで悦に入っている場合ではない。

もう一つ、カエサルものの演劇の広告も見たのだが(原作 塩野七生)そのコピーも「リーダー不在の日本に贈る・・・云々」とあって、自分たちの問題を他人まかせにしたいのか、リーダーに「だけ」求めるのかということに対して、あまりにも無頓着すぎる。多元的世界では、「力」を単に独善的に行使するのはファッショなのである。
(石原都知事が再選したときに、「現代思想」の後期でこの傾向、つまり「強力な指導者を盲目的に求める指向」を批判していたが、つまりそういうことである。しかもほとんどのマスメディアではそのことはあまり取り上げられない。なぜならば彼ら自身もまた「力」を欲するところの、権力の力そのものよりも権力が表すものを求める体質があるから、なせいだろうが。

基本的に他者依存的で自律性の低いところでは、ファシズムが生まれやすい。しかも他人に対する憎悪が深いところ、傲慢な民族意識が強いところでは、悪辣なナショナリズムが展開する。自国民もは不幸が美徳になるし、近隣諸国にも多大な被害がでる。
しかも、東京新聞の一面広告には「涙なしにはよめない」というコピーがついた靖国賛美的な本が紹介されていた。違和感を感じるのは、そうした感慨は他人を犠牲にして自分は安楽にしていたいという生贄精神があるからである。
あまつさえ「感動した」などと一言二言のために、彼らは死んだ(殺された)のではない。(”敵”だけによってではない...敵とは「作られるもの」でもあるからだ。多元的なものを包括する世界で単一的な「統合力」を持とうとするとき、それは外に圧倒的な「敵」を措くことではじめて自然に可能となるという側面がある。つまり、「十字軍」の「正義」はそういった意味で理解されるべきである。「正義」は時に、暴力を覆い隠すもの、正当化するものであることが多いのだ。もう一つ、虐殺は、多くの場合「強制徴兵された」場合に起きる現象である。彼らは過酷な受動的立場に強制的におかれることになり、その力の暴発がさらに下位におかれる場で起きる。このような暴発は90年代に入ってもグアマテラなどで起こってきた。)
人の死は無駄にはできない。しかし「消費」されることも適当ではない。
オーラルヒストリーという分野では、「声」としてこうした過去を活かすことが求められている。

マルシリオ・フィチーノは晩年、「正しい哲学と宗教は、人間を幸福にする」と言った。
犠牲者を出したり、自分だけがよければ何も問題としないという類のものは、それは端的にいって正しくない、といえるのではないだろうか。

問題は幸福とか生き方といったものに見合った社会について吟味されていないことだ。社会といったが医療なども同じである。他者性が曖昧なのに、近代的な制度を形だけ移殖しても疎外感が深まるだけである。
主語が省略できる言語を用いている世界と、主語を明確にする必要がある言語とは隔絶している。しかしながら、単一言語世界でまかなえるほど、自立できてもいない。

・・・「無知な人は神というと、それぞれの民族のスーパーマンのような人を思い浮かべる。」ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、生き死にしないものとして長らくDio(大文字で書かれたこの語は普遍なもの、原因としての一をあらわす)という言葉が語られたのである。小文字で書かれればそれは、ギリシア神話の神のような有限な存在として表されてきた)

西洋は進歩主義によって歩んできたが、ニーチェ以来「神なき世界」で絶望にくれてきた。しかし、そもそもそういった捉え方をしていたことが誤解だったのだ。だから無神論者は、実在している可能態としての神がいないといっているのか、それよりも原因、一なるものを否定してるのか、この言葉も曖昧である。

言葉の差異を認識すること、表現を正確なものとして語るのは、この曖昧さ、何となく共感を抱いていけるものを明確にすることである。曖昧でもよいと思うかもしれない。しかし、「何となく抱く連帯感」は「理由ない差別」を引き起こす因子でもある。

プラトンは一なるものと、それを存在として定める不定の二とし、これは不文の教説とされている。

曖昧なはずな言語が、ただ一つの言葉によって同じイメージや像を想起させることもある。これが詩である。文化史的には、私には、おそらく、象徴主義が用いたのはこうした人間の言語、創造といった面に「眠っている力」に働きかけた文学・芸術活動だったように思う。


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