開催されているユトリロ展は、全作品日本初公開の絵画で構成されている。
「白の時代」「色彩の時代」という安易な時代区分ではわからない、ユトリロ絵画にある深層がわかる展示である。
アルコール依存症の治療のためにかかれていた初期絵画と白の時代は、まだ彼の本性が表現された絵画作品であった。
ここでの町並みの人影は、単にシルエットである。
人が人影としてのみ、目に映る孤独感だが、静寂もそこに描かれる。
内面を描きこむ自由がまだそこにはあった。
壁や樹木の陰は、印象派絵画のような、感覚的自然描写がされている。
だが、色彩の時代、つまり監禁状態で金銭のために絵画作成をさせられる時代となると、一変する。自己嫌悪と画家であるというアイデンティティ、家族への憎悪。絵葉書をみながら「風景画」を「モノ」として描く作業。
定規でひかれた主線と色彩。
19世紀のフランスは両極的な場所である。
現代では、快さ、コンフォートを幸福とイコールで結ぶことが一般的である。しかしそれは、移ろいやすい気分の問題であって、いい気分が続くことを幸せと想い、常に充足してることを幸せと思うだろう。
自らに苦痛が体験されなければ、何も問わない。周囲におよんでも、他人ごととする感覚、これが常識となっている世界。
そして、差異を認識せず、無条件に他人が同調してくれる世界。
物質と快よさ・コンフォートが満たされていれが何も不足を感じない人たち。
物質主義は、数量的価値と結びついたとき、果てしない所有という価値観へ変容する。
精神性の物質への還元化、この流れに反発する形で、フランスの文学と芸術と哲学は水脈をともにしている。象徴主義、ベルクソン、アンドレ・ブルドン、ロラン・バルト、ガストン・バシュラールなど・・・
ブルジョワ趣味、中産階級思考に流れる「ナルシシズムと他者犠牲の精神」これほど「悪辣」なものはない。
モーリス・ユトリロの絵画における「全くの他者」・・・
正面から描かれた通行人の顔を見れば、そこに憎悪と全くの無関心がある。そして「顔」のない、彼らこそが「自分の快楽と所有欲のために」、彼らがなんとなくよいと思う気分のために虚飾を消費する。
監禁状態でひたすらに売るために絵をかかされていたユトリロに「同情」することは容易である。
しかし、その「同情」こそが、他を犠牲にして自分が生ぬるく生きることに悦びを見出す人の心性である。
この絵画をみながら、おそらくは、強制の中の制作といった中にも、無心に描くこと、色彩を塗り重ねたときにそれでも描きたいというものがこの人にはあったのだろう、と思う。それは教会の屋根の群青色と灰色の微妙な色彩であり、パサージュの壁の陰影や漆喰の壁の微妙な色彩の影などである。強制的な中でも、こうした部分が、この人の特質なのだろうと思われた。それだけに、もしも、好きなように行動し、描くことができたらどのような作品を描いたのだろうか? しかしそうした、普通の人が生まれながらにももっている空気のような条件があったならば、彼はもう描くことはする必要もないのかもしれない。どこか、絵画作品そのものというよりも時代性の刻印を見るような感慨を持つ。19世紀後半から、20世紀のフランス・パリの文化の両極性をみるような気持ちになる。
絵をそれとなく眺めることほど容易なことはない。
すきか嫌いか、趣味か、趣味ではないか、そのように絵に対峙することも今日では容易、というか、当たり前である。
なんとなく「絵画」や「パリの街角」を眺め、通り過ぎたあとは、同伴者とその日のランチをどうするかといった日常が途切れることもない、のだろう。そういう人が多いのではないだろうか。
自分たちが完全に善良である、間違っていない、と信じ込むことは容易である。だが、私たちは自分自身を本当にしることはないように、他者の存在と他者の苦痛には気がつかないことが多いし、現在ではしらないでいることがどこか推奨されているような部分がある。
それと同様に、「なんてひどい」と「苦しみながら悦ぶ」という無意識の群衆心理が存在する。
悲劇を悦びながら見る意識。涙を流すことに対する浄化意識。
それらは皆、手を汚さない破壊者=消費者であり、「しかたない」といいながら「生贄」を求める心理である。
・・・果たして無自覚なままに、コンフォート「快適さ」を手に入れる(所有)ことで満ち足りる(筈だ)という意識がひどく表面的であることに、ほとんどの人は気がつかないのだろうか?
「完全な根源」に成るのは不可能である。
だが、そこを目指すという可能性は閉じられていない。
「適度さ」とは「妥協」ではない。
むしろ、物質を伴うものは「完全」には成りえない。
ただ、「適度さ・時宜をえていること」によって「よりよき状態」を目指すことはできる。
しかし多くの人は真理を退ける。
殊に「自らの(気分的な)快適さ」が損なわれるかもしれないようなことには。
転じて、世に流れる情報もまた、この原則にのっとっていることを忘れてはならない。「消費者・投資者」の気分を損ねるような真実は何も語られないのだ。
私たちが無条件に「自由だ」という意識をもっているならば、それは無意識に隷属・披支配の状態にあること、また、自然と無意識の享受は、意識されない退行の過程ではないだろうか。
ユトリロ展では、色彩の時代に入る前の絵葉書2枚を購入しました。
<スュレーヌ>(1912)と<ソール通り モンマルトル>(1917)
固定された、強制的視点からみる町並みは、形を変えることはない。
したがって、ユトリロが描きこむのは色彩である。とりわけ白い漆喰の壁の色は複雑に塗り重ねられる。もはや白色ではないこの色がそれでも白と認識されることが奇妙に思えてくるほどにこの壁の色は均一ではにないのだ。これほど風景画の特質をもたない風景を描いた作品というものはないだろうと思われる。通常、画家は描きたい風景を見出して、そこに構成しつつ見たい風景を描く。(肖像画家や歴史画家が風景画や自画像を描くのは自己のためである。そこに画家の描きたいものはこめられていることがしばしばある)だが彼の作品はまったく逆であり、その中、濃密に表現を与えられている部分がある。
そして彼の作品の中には、鋳造された風景の中には、無関心という群衆というの肖像が描かれているのが観られるだろう。
招待券を下さったramaramaのyukiさん、ありがとうございました。
年表や解説も充実しています。
会場はとても落ち着いて観ることができました。
ブックショップのほかに一回にもショップがありそこでル・コルドン・ブルーのティータオルがあったのでキッチン用に買いました。
秋にはヴァザーリの回廊の肖像画コレクション展(同美術館にて)があるようです。
「白の時代」「色彩の時代」という安易な時代区分ではわからない、ユトリロ絵画にある深層がわかる展示である。
アルコール依存症の治療のためにかかれていた初期絵画と白の時代は、まだ彼の本性が表現された絵画作品であった。
ここでの町並みの人影は、単にシルエットである。
人が人影としてのみ、目に映る孤独感だが、静寂もそこに描かれる。
内面を描きこむ自由がまだそこにはあった。
壁や樹木の陰は、印象派絵画のような、感覚的自然描写がされている。
だが、色彩の時代、つまり監禁状態で金銭のために絵画作成をさせられる時代となると、一変する。自己嫌悪と画家であるというアイデンティティ、家族への憎悪。絵葉書をみながら「風景画」を「モノ」として描く作業。
定規でひかれた主線と色彩。
19世紀のフランスは両極的な場所である。
現代では、快さ、コンフォートを幸福とイコールで結ぶことが一般的である。しかしそれは、移ろいやすい気分の問題であって、いい気分が続くことを幸せと想い、常に充足してることを幸せと思うだろう。
自らに苦痛が体験されなければ、何も問わない。周囲におよんでも、他人ごととする感覚、これが常識となっている世界。
そして、差異を認識せず、無条件に他人が同調してくれる世界。
物質と快よさ・コンフォートが満たされていれが何も不足を感じない人たち。
物質主義は、数量的価値と結びついたとき、果てしない所有という価値観へ変容する。
精神性の物質への還元化、この流れに反発する形で、フランスの文学と芸術と哲学は水脈をともにしている。象徴主義、ベルクソン、アンドレ・ブルドン、ロラン・バルト、ガストン・バシュラールなど・・・
ブルジョワ趣味、中産階級思考に流れる「ナルシシズムと他者犠牲の精神」これほど「悪辣」なものはない。
モーリス・ユトリロの絵画における「全くの他者」・・・
正面から描かれた通行人の顔を見れば、そこに憎悪と全くの無関心がある。そして「顔」のない、彼らこそが「自分の快楽と所有欲のために」、彼らがなんとなくよいと思う気分のために虚飾を消費する。
監禁状態でひたすらに売るために絵をかかされていたユトリロに「同情」することは容易である。
しかし、その「同情」こそが、他を犠牲にして自分が生ぬるく生きることに悦びを見出す人の心性である。
この絵画をみながら、おそらくは、強制の中の制作といった中にも、無心に描くこと、色彩を塗り重ねたときにそれでも描きたいというものがこの人にはあったのだろう、と思う。それは教会の屋根の群青色と灰色の微妙な色彩であり、パサージュの壁の陰影や漆喰の壁の微妙な色彩の影などである。強制的な中でも、こうした部分が、この人の特質なのだろうと思われた。それだけに、もしも、好きなように行動し、描くことができたらどのような作品を描いたのだろうか? しかしそうした、普通の人が生まれながらにももっている空気のような条件があったならば、彼はもう描くことはする必要もないのかもしれない。どこか、絵画作品そのものというよりも時代性の刻印を見るような感慨を持つ。19世紀後半から、20世紀のフランス・パリの文化の両極性をみるような気持ちになる。
絵をそれとなく眺めることほど容易なことはない。
すきか嫌いか、趣味か、趣味ではないか、そのように絵に対峙することも今日では容易、というか、当たり前である。
なんとなく「絵画」や「パリの街角」を眺め、通り過ぎたあとは、同伴者とその日のランチをどうするかといった日常が途切れることもない、のだろう。そういう人が多いのではないだろうか。
自分たちが完全に善良である、間違っていない、と信じ込むことは容易である。だが、私たちは自分自身を本当にしることはないように、他者の存在と他者の苦痛には気がつかないことが多いし、現在ではしらないでいることがどこか推奨されているような部分がある。
それと同様に、「なんてひどい」と「苦しみながら悦ぶ」という無意識の群衆心理が存在する。
悲劇を悦びながら見る意識。涙を流すことに対する浄化意識。
それらは皆、手を汚さない破壊者=消費者であり、「しかたない」といいながら「生贄」を求める心理である。
・・・果たして無自覚なままに、コンフォート「快適さ」を手に入れる(所有)ことで満ち足りる(筈だ)という意識がひどく表面的であることに、ほとんどの人は気がつかないのだろうか?
「完全な根源」に成るのは不可能である。
だが、そこを目指すという可能性は閉じられていない。
「適度さ」とは「妥協」ではない。
むしろ、物質を伴うものは「完全」には成りえない。
ただ、「適度さ・時宜をえていること」によって「よりよき状態」を目指すことはできる。
しかし多くの人は真理を退ける。
殊に「自らの(気分的な)快適さ」が損なわれるかもしれないようなことには。
転じて、世に流れる情報もまた、この原則にのっとっていることを忘れてはならない。「消費者・投資者」の気分を損ねるような真実は何も語られないのだ。
私たちが無条件に「自由だ」という意識をもっているならば、それは無意識に隷属・披支配の状態にあること、また、自然と無意識の享受は、意識されない退行の過程ではないだろうか。
ユトリロ展では、色彩の時代に入る前の絵葉書2枚を購入しました。
<スュレーヌ>(1912)と<ソール通り モンマルトル>(1917)
固定された、強制的視点からみる町並みは、形を変えることはない。
したがって、ユトリロが描きこむのは色彩である。とりわけ白い漆喰の壁の色は複雑に塗り重ねられる。もはや白色ではないこの色がそれでも白と認識されることが奇妙に思えてくるほどにこの壁の色は均一ではにないのだ。これほど風景画の特質をもたない風景を描いた作品というものはないだろうと思われる。通常、画家は描きたい風景を見出して、そこに構成しつつ見たい風景を描く。(肖像画家や歴史画家が風景画や自画像を描くのは自己のためである。そこに画家の描きたいものはこめられていることがしばしばある)だが彼の作品はまったく逆であり、その中、濃密に表現を与えられている部分がある。
そして彼の作品の中には、鋳造された風景の中には、無関心という群衆というの肖像が描かれているのが観られるだろう。
招待券を下さったramaramaのyukiさん、ありがとうございました。
年表や解説も充実しています。
会場はとても落ち着いて観ることができました。
ブックショップのほかに一回にもショップがありそこでル・コルドン・ブルーのティータオルがあったのでキッチン用に買いました。
秋にはヴァザーリの回廊の肖像画コレクション展(同美術館にて)があるようです。
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