全てのものには目的がありその可能態を実現態に導かなければならない。また、それらは最初からあるわけでも、与えられるものもない。与えるという行為自体もそれを期待するほうも、受動的すぎる。受容性と受動的な志向は異なるものである。
「成すべきことを成す」ことの連続が私の日常だが、その時間も作業も分断されている。それを分断するのは、「自らの快さと自己充足を志向する」人たちによって、またそういった特性の環境によって、他者性とは他人をつねに気にかける態度や一方性ではない。まったく逆である。
他者を「自己補完のための道具のように、部品のようにみなす個人主義」この態度と行為と言動によって常に悩まされる。
(おそらく私の主観的感情もその理由の一つではあるだろうし、問題なのだろう。そこに無自覚なわけではない)
だが、相手が気がつかない以上、そして対話不能な状態がつねにある以上、・・・私が(地上から)立ち去らなければならないのだろう。
「良かれとおもってやった」という行為、対話のもとに成り立たない行為。
独我論と個人主義、快楽主義による自己充足を求める人は、常に自らによって充足を(思慮と実践によって)もとめるのではなく、他人に関与することでそれを満たそうとする。しかし彼らが究極的にみたいのは、苦悩する相手(他者)であり、それに憐れみと同情を感じる自己陶酔の心理である。・・・彼らは、自己の好みにあわないものを排除しようとする。
対話、言葉によるコミュニケーションが成り立たず、自己が他者の場所を奪うか狭めていることにも気がつかないか、それを由とする。
・・・私が、立ち去らねばならない。
・・・私のもとにおいて生じた責任をある程度、返還し、成すべきことにできるならば一つの形、フォルムを与えられれば、よいのだが・・・
近頃は生活レベルでも、もっと異なるレベルにおいても、限界を感じる。
意志と行為と思慮においては何事も可能だということは、事実だが、それもある一定の条件のもとでなければならないのかもしれない。
はじめからそれを享受する立場の人は、いっそう、その事に無意識であるように思う。そしてその立場に、甘んじる。空気のように、そう感じるのだろう。
(・・・このような感慨を抱くのは、すべて憶測であり、結局は、私の生ぬるさ、脆弱さだろうか。)
私は「よりよきもの」については具体的に記述しておきたいとはおもうが、そうではないものについて、あえて特定することは避けたい。
そして、公明正大でないものや物言いは好まない。
書くこと、記述すること、の価値と役割は他者を貶めるためにあるのではないと、と思うからであり、
更に言うならば、「私」という意識すらも、その本質には自分では「完全」には認識できないものによるからである・・・
「成すべきことを成す」ことの連続が私の日常だが、その時間も作業も分断されている。それを分断するのは、「自らの快さと自己充足を志向する」人たちによって、またそういった特性の環境によって、他者性とは他人をつねに気にかける態度や一方性ではない。まったく逆である。
他者を「自己補完のための道具のように、部品のようにみなす個人主義」この態度と行為と言動によって常に悩まされる。
(おそらく私の主観的感情もその理由の一つではあるだろうし、問題なのだろう。そこに無自覚なわけではない)
だが、相手が気がつかない以上、そして対話不能な状態がつねにある以上、・・・私が(地上から)立ち去らなければならないのだろう。
「良かれとおもってやった」という行為、対話のもとに成り立たない行為。
独我論と個人主義、快楽主義による自己充足を求める人は、常に自らによって充足を(思慮と実践によって)もとめるのではなく、他人に関与することでそれを満たそうとする。しかし彼らが究極的にみたいのは、苦悩する相手(他者)であり、それに憐れみと同情を感じる自己陶酔の心理である。・・・彼らは、自己の好みにあわないものを排除しようとする。
対話、言葉によるコミュニケーションが成り立たず、自己が他者の場所を奪うか狭めていることにも気がつかないか、それを由とする。
・・・私が、立ち去らねばならない。
・・・私のもとにおいて生じた責任をある程度、返還し、成すべきことにできるならば一つの形、フォルムを与えられれば、よいのだが・・・
近頃は生活レベルでも、もっと異なるレベルにおいても、限界を感じる。
意志と行為と思慮においては何事も可能だということは、事実だが、それもある一定の条件のもとでなければならないのかもしれない。
はじめからそれを享受する立場の人は、いっそう、その事に無意識であるように思う。そしてその立場に、甘んじる。空気のように、そう感じるのだろう。
(・・・このような感慨を抱くのは、すべて憶測であり、結局は、私の生ぬるさ、脆弱さだろうか。)
私は「よりよきもの」については具体的に記述しておきたいとはおもうが、そうではないものについて、あえて特定することは避けたい。
そして、公明正大でないものや物言いは好まない。
書くこと、記述すること、の価値と役割は他者を貶めるためにあるのではないと、と思うからであり、
更に言うならば、「私」という意識すらも、その本質には自分では「完全」には認識できないものによるからである・・・
コメント