コムーネからポリスへ。
ポリスからペリクレス時代のアテネを志向したのがロレンツォ・イル・マニフィコの時代であり、コジモ・イル・ヴェッキオの死の床で「ピレボス註解」がフィチーノによって朗読されたのは偶然ではないように思われる。

私たちが現在では「勤勉・勤労」として美化するものでさえ、根本的には「快楽主義(それも小市民的な)」であり、それさえもが吟味の必要がある。

しかし1960年以降、私たちは「私生活主義」を命題としてそれ以外は何も価値がないかのように「操作」されている。多くの人はそれに気付かない。気がつかず、価値を吟味することなく、受容する。

それは単なる同調性と組織的生ぬるさとして、漂流する。

MEMENTO MORI 死を記憶せよ、この銘文の解釈は2通り存在するように私には思われる。つまり、・・・「死における他者性」と「死における個人主義」は大きな方向性の差異を生む。(イタリアルネサンスと北方ルネサンスと地域の違いだけでルネサンスとして考えることはできない。池上俊一氏は、ルネサンス再考において、このことを指摘しているが、付け足すならば、おそらくこの「死生観」の大きな隔たりに大きな意味の隔たりがある。そしておそらくは、日本人のほとんどは、盛期ルネサンスのラファエロやレオナルドには共感するだろうが、初期ルネサンスの建築や彫刻、絵画には共感しないのだろう。そうであれば、あのような、数時間の滞在においてフィレンツェを後にする行動は説明できない。つまりリナシメント(ルネサンス)のコアには何も触れることなく、フィレンツェを経由し、ピーサの傾いた鐘楼を見物する。ピーサの10世紀の建築や美術に興味がないまま、にである・・・)

話がずれたが、長い間、隷属的で受容的な態度を「良い」と受け入れてきた被支配階層ほど、権威と権力への隷属を望み、自律性を自ら排除する。快楽主義と自律性の喪失は、すべての価値と所有しているものの価値すら転換させ、私生活圏の喪失に繋がるのだが、多くの人はそれを自らの身をもって経験しなければ、認めようとはしない。また記憶せず、忘却の淵に受容的態度とともに、自ら認識を放棄する。そこにあるのは「決められた価値」であり「本来的価値」ではない。

「自らが心地よいと無意識に受容できる」意識が、現代における「アイデンティティ」となっている。・・・・それも集団的アイデンティティとして、それらは、あらゆる媒体(メディア)を通して現代では浸透していく。こうした言説はすでに吉見先生によって岩波新書化されているとおりである。

・・・私が選択するのは、つまり死における他者性である。
つまり、生に価値があるとするならば、また人が生きることに有意味さを見出すには、「他の存在」にとって、良い結果、良い作用をもたらす有益さを行動とともなう思慮によって可能性を実現態に変えていく絶え間ない働きによって、である。公的な生活と私的な生活の両義的な意味を吟味したであろう、フィレンツェにおいてこの近代的な態度が早期にみられることはもっと着目されるべきことだと、私は思っている。


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純粋化、原理主義に付随する他者排除、一元化の方向ではなく、多様性、他者共存としての視点、私が確認したいのはそのことについてである。