東京バレエのベジャール作品 「ザ・カブキ」へ。実は機会を逃していて、今回はオーチャードホールということもあり、24日公演(二階堂さん、宮本さん(先生)の勘平が見たかった)へ行こうと思っていましたが、諸事情により、25日公演へ。当日収録カメラも何台か入っていたようです。
「まだ見てないの今回絶対みたほうがいい」、と水村さんに薦められたのもあります。直前まで、体調も事情もあり行くの難しいかな、と思ったのですが、結果、本当に見逃さずに今回の舞台を見られてよかった。

高橋竜太さんの伴内、すばらしかった。伴内はべジャール作品のたとえば、「ニーベルングの指輪」 ローゲのような役回りである。メフィストのような伴内の存在感、身体能力、表現、踊りのコントラストとは躍動と静止の調和なのだが、それが見事だった。鍛錬と集中、役と振り付けのあるべきイマージュに向かって構築するキャラクターである。そしてこのカブキの、顔のない塩谷判官とは異なるもう一つの記号でもある。


塩谷判官は、当日の配役表でようやく知ったのだが、平野玲さん(先生)だった。歌舞伎の忠臣蔵もみているが、塩谷判官の人物像と心理が見事にあらわされている。自刃のシーンの緊迫感は再現性ではなく、リアルな出来事として舞台に顕れていた。あの演技の後、むしろ、演出の鮮血をイメージする布の舞台装置は不要なほどである。観客は、「死」と「継承」の目撃者となるシーン。一個人の死を扱うのではない、このベジャールの「カブキ」ではとくに重要なシーンである。


おかるの小出領子さんがすばらしい。音楽と言語、感性と理性の間の表現を小出さんのバレエからはいつも感じる。それは振り付けがもっている形の意味と美のフォルムを彼女が表現できる人だからなのだろう。
井脇幸江さんのお才は、そこにいるだけで役柄のもつ人間性(ユマニテ)を感じる。この役は特に踊るわけではないのに、そこに悲劇の静止した形を表出させる。「春の祭典」の生贄でもそうだが、井脇さんはこうした主題を舞台でシンボリックに表現できるダンサーである。
ベジャールの「カブキ」における、顔世御前は姿をあらわさない誘引者であり、フォルトゥナである。
あらゆる物事・事象の背後にある、原理であり、運命の擬人像である。このあたりがベジャールの解釈の二元的なところなのだが、一方で男性的闘争的世界観、ヘーゲルの英雄、理性の狡知をおもわせる表現が際立つが、背後でそれを支えて原理の源になっているのは、女性原理である。つまり古代地中海世界とオリエントにあった大地母神が原型にある。(この女神は近代に近づくにつれて図像的にも主題としても没落させられていくのは、若桑みどりさんが指摘している通りである)
このふたつの原理、本来対立する原理を、ベジャール作品では並列させることで、私たちは、舞台を見ながら、また見た後に、思考や想うことをはじめる・・・ように思う。
改めて原型である「仮名手本忠臣蔵」「外伝」もみたくなったから不思議だった。つまり、主題は類似しながらも、変容しているので、原典を確認したくなるのである。本来の歌舞伎の主題は、ここにさらに個別化したエピソードが付加される。
ベジャールは、時代をこえ、たとえまるで関係がない他者であろうと、「受け取った」ものはその役割を果たさねばならないことをメッセージとしてこめている。死者からのメッセージ・パトスとタナトス。
受容と継承・・・無限の問いとして、たとえばレヴィナス「全体性と無限」で書いたことでもある。
そして亡くなったべジャールから問われている気持ちになる。
ベジャール作品をみていて私が感じるのは思考が動き始めるきっかけとしての言葉、がこめられていることである。
ところで、本当は・・・日本において、「カブキ」「能」が言語化されたバレエとして作られなくてはならない。コンテンポラリーの課題はつねにそこである。固有なものを、普遍な記号へ置き換えられるのか?
ベジャールの作品は大切にしてもらいたいし、改変する必要はない、奇妙に変形されて上演されるオペラのようになってはいけない。
ベジャールの「M」をぜひ上演してほしいという声も耳にする。
今回の「カブキ」は収録カメラが入っていたようにおもいますが、放映されることを期待しています。
写真は当日購入したパンフレットより。
チラシだけでは、「ザ・カブキ」の多様な要素が伝わらないように思えたので掲載しました。

「まだ見てないの今回絶対みたほうがいい」、と水村さんに薦められたのもあります。直前まで、体調も事情もあり行くの難しいかな、と思ったのですが、結果、本当に見逃さずに今回の舞台を見られてよかった。
高橋竜太さんの伴内、すばらしかった。伴内はべジャール作品のたとえば、「ニーベルングの指輪」 ローゲのような役回りである。メフィストのような伴内の存在感、身体能力、表現、踊りのコントラストとは躍動と静止の調和なのだが、それが見事だった。鍛錬と集中、役と振り付けのあるべきイマージュに向かって構築するキャラクターである。そしてこのカブキの、顔のない塩谷判官とは異なるもう一つの記号でもある。
塩谷判官は、当日の配役表でようやく知ったのだが、平野玲さん(先生)だった。歌舞伎の忠臣蔵もみているが、塩谷判官の人物像と心理が見事にあらわされている。自刃のシーンの緊迫感は再現性ではなく、リアルな出来事として舞台に顕れていた。あの演技の後、むしろ、演出の鮮血をイメージする布の舞台装置は不要なほどである。観客は、「死」と「継承」の目撃者となるシーン。一個人の死を扱うのではない、このベジャールの「カブキ」ではとくに重要なシーンである。
おかるの小出領子さんがすばらしい。音楽と言語、感性と理性の間の表現を小出さんのバレエからはいつも感じる。それは振り付けがもっている形の意味と美のフォルムを彼女が表現できる人だからなのだろう。
井脇幸江さんのお才は、そこにいるだけで役柄のもつ人間性(ユマニテ)を感じる。この役は特に踊るわけではないのに、そこに悲劇の静止した形を表出させる。「春の祭典」の生贄でもそうだが、井脇さんはこうした主題を舞台でシンボリックに表現できるダンサーである。
ベジャールの「カブキ」における、顔世御前は姿をあらわさない誘引者であり、フォルトゥナである。
あらゆる物事・事象の背後にある、原理であり、運命の擬人像である。このあたりがベジャールの解釈の二元的なところなのだが、一方で男性的闘争的世界観、ヘーゲルの英雄、理性の狡知をおもわせる表現が際立つが、背後でそれを支えて原理の源になっているのは、女性原理である。つまり古代地中海世界とオリエントにあった大地母神が原型にある。(この女神は近代に近づくにつれて図像的にも主題としても没落させられていくのは、若桑みどりさんが指摘している通りである)
このふたつの原理、本来対立する原理を、ベジャール作品では並列させることで、私たちは、舞台を見ながら、また見た後に、思考や想うことをはじめる・・・ように思う。
改めて原型である「仮名手本忠臣蔵」「外伝」もみたくなったから不思議だった。つまり、主題は類似しながらも、変容しているので、原典を確認したくなるのである。本来の歌舞伎の主題は、ここにさらに個別化したエピソードが付加される。
ベジャールは、時代をこえ、たとえまるで関係がない他者であろうと、「受け取った」ものはその役割を果たさねばならないことをメッセージとしてこめている。死者からのメッセージ・パトスとタナトス。
受容と継承・・・無限の問いとして、たとえばレヴィナス「全体性と無限」で書いたことでもある。
そして亡くなったべジャールから問われている気持ちになる。
ベジャール作品をみていて私が感じるのは思考が動き始めるきっかけとしての言葉、がこめられていることである。
ところで、本当は・・・日本において、「カブキ」「能」が言語化されたバレエとして作られなくてはならない。コンテンポラリーの課題はつねにそこである。固有なものを、普遍な記号へ置き換えられるのか?
ベジャールの作品は大切にしてもらいたいし、改変する必要はない、奇妙に変形されて上演されるオペラのようになってはいけない。
ベジャールの「M」をぜひ上演してほしいという声も耳にする。
今回の「カブキ」は収録カメラが入っていたようにおもいますが、放映されることを期待しています。
写真は当日購入したパンフレットより。
チラシだけでは、「ザ・カブキ」の多様な要素が伝わらないように思えたので掲載しました。


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