ミッシェル セール
法政大学出版局
1996-10
「<自然>の所産は、その本質たる多様性と切り離すことができない。しかし、多様なものを多様なものとして考えることは−ルクレティウスによれば、これまでの哲学はすべてこれに失敗した−困難な課題である。」
われわれの世界においては自然の多様性は、相互に重なりあう三つの形態(アスペクト)、すなわち、種の多様性、同一種の構成要素(メンバー)である諸固体の多様性、一固体を構成する諸部分(パーツ)の多様性として現れる。つまり、特殊性、個性、そして異質な成分の混交性の三つである」(ドゥルーズ「ルクレティウスと模造」 p.072)
・・・ルネサンス期のシンクレティズムを私なりに考えるとき、マルシリオ・フィチーノがなぜ多様性と統一性を重視し、多様でありながら統一的な美と実践の理念をうちたてそれを当時の人々に影響をあたえたのか?この疑問のために、ドゥルーズを読んでいたのだが、現代をとらえる際の、真に個々が自律し自立できるフレームとしての概念、それをルクレティウスを介したドゥルーズは語っているように私には思える。
<自然>といったとき、それはphysis であるが、このphisisのとらえかた、解釈の違いが、イタリアとドイツでは異なるように思うことも、私の疑問のひとつ。私たちは<自然>というときに、「快さ」のための「自然」・・・・労苦や義務や責任から逃れるための言い訳としての「自然」を歓迎し、それ以外の意味をそこに見出さないように感じる。
しかし本来、<自然>とはそういうものではない、
再びドゥルーズの言葉を参照する。
<自然>は、多様なものとその産出(生成)との原理=根源として考えられなければならない。しかし、多様なものの産出の原理といったものは、この原理がひとつの全体のなかでそれ自身の様々な構成要素をひとつに結合しない場合にしか意味のないものである。(略)
<ピュシス>(自然)は、<一なるもの=一者>や<在るもの=存在>もしくは、<全体なるもの=全体者>の規定ではない。<自然>は集合的なものではなく、区分的なものである。
すなわち<自然>は「そして」etという接続詞によって表現されるのであって、「である」estによって表現されるものではない」
・・・・自然という言葉は、とても便利で容易で優しく、人々の力を容易にそぎとり、なにもしないことを自然と勘違いさせる。また集合的なものを自然と規定すれば、個や異質性は、消去される、消去されなければならない、ぬりつぶされなければならない(命題となる)とされていく。
・・・・全体性と無限、私性と他者性、
自己認識と自然観察(客観性)、自己保存と他者性・・・・・
それが、具現化されたものとして、形となり、言葉となり、言葉が形となり、思想がビジョンとなり、言語が空間となった時代・・・・
私が読み解きたいのは、その重なった部分である。
可能かどうかはわからない。
ルクレティウスは、人の役にたたず人に厄災をもたらすために権力化した宗教を批判し、物理学の祖といわれているが、のちにキリスト教が権力化したときに、「狂人」扱いされて「狂人として死んだ」ことにされて「書かれている」・・
「書かれたものを、どの程度、真実とみなすのか」
史学に必要なものは、この見方、視点の訓練であり、暗記ではない。
知識は判断のために必要なのであって、暗記することは歴史でもなんでもない。歴史的手続きはすべてのものごとに必要である。
だからこそ重要なのだが、もっとも重要なものがなぜとわれずにいるのだろうか。そして、同じ間違いをするのだろうか?
The Age of Stupid でも問いかけられていたが、「間違っていることに気がつきながら、同じ過ちを繰り返す」のが人と動物の違いではないだろうか。
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意味は言語化可能である。
感情は・・・感覚は・・・それは、言語化する中でほんとうのものからは遠ざかる・・切れ切れになる、断片化する。
思考すら、断片化するのをかろうじて、つなぎとめているだけにすぎない。
私たちを、私 としてつなぎとめているものも。
私という個も、その境界はうすい膜のようなものである。
同化しているときは無意識なので、苦痛はない。
しかし、別離り、私が私であると、他とは異なるということに気がついたときから、それは始まるのであって、その意識は遠のくことはない。
ドゥルーズは、「自殺」したと、新聞や評論家は書きたてる。
しかしそれは一般にいう、肉体保持、生活放棄のレベルの「自殺」という言語では妥当ではないのではないだろうか?
運命論の否定であり、しかし一方で、私たちは自分が他のためになにかできることができる限りにおいて、自己を存続させなければならないのではないだろうか。・・・・・・生も死も自然の産物ではない。ある必然と苦痛のもとからそれらは離れられない・・・・
現代はそれを忘却しようと必死なのであって、思い出すことを禁じるのである。・・・・なぜなら、私たちは人間である以前に「消費者」であるように、方向付けられているから・・・」
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