夏目漱石の『行人』(1913)には人間の不安について述べられている箇所がある。

兄にあたる漱石は、人間、近代以降の人間の不安について述べている。近代の人間の不安とは”生きるか死ぬかの不安”ではない、”生きるか生きるかの不安”である。

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれたことがない。(略)どこまでいっても休ませてくれない。どこまで伴われていかれるかわからない。実に恐ろしい」

「そりゃ恐ろしい」と答える”私”に、さらに答える。

「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使って差し支えないという意味だろう。実際おそろしいんじゃないんだろう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。僕のは違う。僕のは、心臓の恐ろしさだ。」


1913年の『行人』 1911年の講演『現代日本の開花』では、現代のまで続く問題が提示されている。そして「断片」という日記には現在はさらに拡大しているニューエコノミー的な価値観と単一的支配構造が指摘されているように思う。
先日、川村晃生先生のお話を直接聞く機会があった。
漱石は高校生のころ、進められて柄谷公人の「漱石試論」と後期3部作といわれる作品と夢十夜をよく読んだ。改めて「行人」の主題について考えさせられる。

善や美を感じなくなる人の風化によって、風景や自然が風化していく。

「自然」のよさ、とは何かということについては、また別の問いがあるのだが、私には、漱石が気がつき、書き記したパラドックスはますます深くなり、しかも透明になり、「当たり前」「何も感じない」という自明さへと浸透していくように思う。


環境問題はともするとほとんど楽観主義と商業主義に転化させられてしまう。

現在問題になっている、八つ場ダムには、牧水がその風景をたたえた「吾妻渓谷」が「ダムに沈む」という問題で反対されているのだが、メディアはそういう理由を取り上げない。数字と金銭にまつわるものしか、情報価値はないとでもいう報道内容になっているという指摘が上村先生からあった。またダムをつくることは単に公共事業と予算の問題ではない。環境システムから考えると、山から海へ海から陸へという循環自体が断ち切られてしまうという指摘も、ほとんど話題にならない。・・・

なぜ必要か、という説明には商業的な価値観を、なぜ必要ではないのかという理由にも、「無駄使い」が理由に挙げられるが、そもそももっとも「無駄」に費やされている税・予算のことはあまり問われずにいるようにも感じる。

進歩主義、科学主義、功利主義、機能主義を、超えなくてはならない。
理想論というものはなく、現実の認識の先に、ようやく見えてくるあるべきビジョン、「ライトプレイス」という場所と方法を模索しなければならない。
・・・・
「心臓の恐ろしさ」を実感した漱石は1910年に吐血する。

この心臓の恐ろしさ、に共感してしまうのは、やはり私が東京圏・と江戸時代の価値観をすくなからず継承しているからだろうか?
ちなみに、小林秀雄もそうらしいのだが、「モダン東京人」(「東京人の水脈」参照)という江戸の価値観をもちながら、近代の価値観も知ってしまった人は、えてして東京に起きている「発展」が「破壊」にみえてしまう。しかしこれは単に個人的な感傷ではない・・やはり、1910年代から続いている問題なのだと、私は思っている。




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