イリ・ブベニチェクとオットー・ブベニチェク、そしてドレスデン国立バレエによるバレエガラ公演へいきました。公演の告知、とくにプログラムと演目に魅かれて観にいきたかった公演です。日本初演になるイリの振り付けのバレエ。そしてフォーサイスのステップテクスト。こういったプログラムを用意し、来日してくれるドレスデン国立バレエの創造性への挑戦は同時に観客も試される作品であると思う。

「辿りつかない場所」は、プラトンの「饗宴」が元になっているという。幕があいた後の3組のダンサーたちは円錐形状の舞台と同化した布に拘束されて緊張と抱擁を表現する。「饗宴」には、人間の原初の姿について語られる部分がある。つまり、もともと男女ー男男ー女女という3種の人間がいて、それぞれはうまれる時に別離する。そして生きている間に、生まれる前に分かれたもう一人の自分を求めるというくだりを彷彿とさせる。こういったプラトンならではの解釈を好まない人もいるが、人間の誕生時点で最初はすべて女性であり、その過程でなんらかのきっかけで男女にわかれるという最近の研究もあることを考えると・・・プラトンはそのことを最初に書きとめた人と思えてしまう。このパートは古代ー現代と連動しながら、舞台としてとても興味深いものだあったと私は思っている。
ただ、途中の人間と世界の解釈は、どちらかというと「闘争」原理に基づいている気がして、「饗宴」とは離れてしまうように思うし、よくも悪くもドイツ的なのでは、あるいは二項対立によっているようにも思えた。世界観として、必要なのはやはり二項対立を超えたものが必要なのでは、と思うからです。
それから、バレエの言語化というのは、「言語」に乗ることではない。言語にあわせることではない。それでは、演劇とバレエの違いはなくなり、言葉を駆使できる演劇(またはオペラ)にはかなうことはなくなってしまう。
バレエは、ひとつひとつのステップ(パ)がすでに言語なのだから。
それも、翻訳がいらない芸術なのだから。
だから、(ノイマイヤーのいくつかの作品でも思うことだが)バレエに必要なのは、音・音楽なのであって、言葉を流してはいけない・・・そう思ってしまう。意味を言語で読まれたら、バレエの意味が消えてしまう。可能性も消えてしまうかもしれない。バレエは、言語を超えて、表現できる唯一の現代の芸術なのかもしれない、といつも思っているので、私にとってはそこが疑問だった。もしナレーションが読まれるとすれば、ドイツ語かギリシア語がよかった..のかもしれません。


「steptext」は、バッハの「シャコンヌ」を使うフォーサイスの作品だが、これはある意味でダンサーが試される作品だとおもう。
普通・・・「シャコンヌ」を聞くとき、私たちはその「音楽」を聴くのに集中してしまう。「シャコンヌ」は「自分自身」をその音楽の中で回想したり、考えたりしてしまう音楽だからでもある。だからこの曲でバレエを踊るということは、完全に音楽を乗り越えなければならない。
エレナ・ヴォストロティナはそれを表現していたと思う。
またこの作品は、幕がない。
幕が上がる前から、もう始まっている。・・わたしたちは、普通、物事が始まっていることにいつも途中から気がつく。ダンサーは、見られる存在でありながら、観客をみている。オレグ・クリュミゥク、クラウディオ・カンアロッシは、音楽のつながりをバレエのひとつひとつの形を流れるように踊っていた。イリはもちろん、すばらしかったけれど、オレグとクラウディオの音楽性もよかった。

「カノン」の全幕として踊られた「魂のため息」・・この作品をみるのは二度目だが、パッヘルベルのカノンの上昇旋律、ギリシア美術にあるような螺旋の構造、そういったものを、音楽を聴くときよりも、更に浮かび上がらせる作品だと思う。正直いって、この曲に振り付けをすることと、それが踊られて表現されることに感嘆してしまう。私が、ギリシアの調和美に魅かれるせいかもしれませんが。背景にはレオナルドの絵画が映し出されている。イリは本当は、レオナルドが絵画で実験していたような、「理想的人間・性差を超えた美と自然の調和」「この世界に自明にある大気を描くこと」をバレエで挑戦したのかもしれない。
他の観客がどうおもうかわからないが、私はイリ・ブベニチェクが成功していると思う。これは、本当に振付家としてすばらしい仕事だと思う。
多くのダンサーがこの作品をおどるところが見てみたくなる作品だと思っている。そしてバレエの本質が音楽性と詩情(ゴーティエが言ったようなポエジー)だと思える作品である。27分の小作品とは思えない。1時間くらいに感じてしまう・・・

とても良かったのだが、観客の拍手のタイミングが早すぎたのが残念。
(実は会場にいた関係者が、カノンが終わったあと、拍手が幕が下りたあともしばらくないといいね、と話していたくらい・・)
それは、余韻が消えてしまうからで、早すぎる拍手は、ぶっきらぼうに「メルシー」というときの「もう結構です」という意味になってしまうからで、・・・こうした劇場での舞台と観客の交歓というのは、やはり観客も自分の行動を思慮深くするべきなのでは、と思ってしまう。
すばらしいコンサートにいくと、静寂が染み渡り、余韻が消えたあと、洪水のような拍手に包まれる。映像録画をしていた公演だから、余計なことかもしれないが書きとどめておきたい。

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この日の映像が、芸術劇場(NHK)などで放送されることを願います。