1/16から目黒・庭園美術館で開催されているマッキアイオーリ展に行ってきました。昨年の秋ごろから観にいきたいと思っていた展示です。

イタリアにおけるリアリズムは、本来の意味でとても「印象的」な絵画。
フランスの印象派は、光は色彩を変えるものとして、そして「網膜の上で絵画が完成する」という理論をもち、輪郭をぼやかしていったことを思い出すと、明解で鮮明な「印象」は本物の風景や情景を目にしたときの光景として浮かび上がる。風景がそこにある、その場所と時間を体験したような絵画展です。
リアリズムとは何か、このこと自体が問われていると感じられます。
フローベールはたとえば、「本当に自然を目にしたときのような感動」を再起させるものを、文学で目指すことを語っていますが、それ以上のものが明るい明暗のなかに描かれています。風景であって、風景ではないのです。画家の視線、思考、思われ、大切に思っていること、それらが、技術を通じて表されてる。リソルジメントの動きと連動しながらも、個人は生きていて、そして繋がりをもっている。
そして、トスカーナの、あの陽光が絵画の中に再現されている作品にとくに魅かれます。
カビアンカの「糸つむぐ人」は寓意的なテーマももちながら、光のなかの日常を光景として描く。この光は、図録や印刷では再現できない光です、絵画は再現不可能性だと私は思っています。人の手と思いと意志と技術によってつくりだされるものなのです。全体の構成としてとても見ごたえのある展覧会ですが、この2作のことをわすれないうちに書いておきたいと思います。ジュゼペ・アッバーティ「フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ教会の内部」この光景に描かれた光と大理石、陰影・・・こうしたものが絵画で描けるのか、と思うほどです。そして同じアッバーティの「カスティリオンチェッロの谷」と「カスティリオンチェッロの眺め」です。何度も展示室に戻っては対峙したくなる絵画です。
カスティリオンチェッロは、マッキアアリオーリの画家たちの活動の場でした。ここでもヴィラが芸術家たちの活動の場で、庇護者マルテッリの家でした。
芸術活動の中心にあったのは、カフェ・ミケランジェロで、そこでマッキアイオーリ派ができたというのも、「場」の喪失を思わざるをえない現代では、絵画と同様に印象的でした。図録を、時間をかけてよみたいと思います。
2月までやらねばならない事が多く、期日が決まっていることが続くので、時間に追われている感覚が強いのですが、印象が鮮明なうちに読みたい図録です。
図録はカバーデザインが2種から選べます。私にとっては、カスティリオンチェッロの風景が大きく載っていたのが嬉しかったです。説明文がとてもわかりやすく、なお、問いかけをしてくれる。

庭園美術館はあまり絵画展をやらないのですが(宝飾品が多い...私はあまり宝飾品を見たいほうではないのですね、考古的なものはまじまじと見てしまいますが、あまりアクセサリーに興味がないのです。)この展示がこの場所で行われてよかったと思います。カラバッジオ展のときを今も思い出しますが、(カラバッジオ展は奇跡的な展示でイタリア側は展示の際に機関銃をもった警備員をつけるようにと要望したそうですが、それももっともだと思ってしまう...分散しているカラバッジオ作品とカラバッジェスキ(カラバッジオ派)の作品をまとめてみるのは殆ど奇跡的です。個人ではなかなか実現できないことです...。
ボルゲーゼ展ももちろんいきますが、マッキアイオーリ展を混雑しない状況で見られて本当によかったです。会期中できたらもう一度行きたい。
ピッティ宮の近代美館から主に出ていますが、個人蔵も多く、貴重な展示だと感じます。
イタリアにおけるリアリズムは、本来の意味でとても「印象的」な絵画。
フランスの印象派は、光は色彩を変えるものとして、そして「網膜の上で絵画が完成する」という理論をもち、輪郭をぼやかしていったことを思い出すと、明解で鮮明な「印象」は本物の風景や情景を目にしたときの光景として浮かび上がる。風景がそこにある、その場所と時間を体験したような絵画展です。
リアリズムとは何か、このこと自体が問われていると感じられます。
フローベールはたとえば、「本当に自然を目にしたときのような感動」を再起させるものを、文学で目指すことを語っていますが、それ以上のものが明るい明暗のなかに描かれています。風景であって、風景ではないのです。画家の視線、思考、思われ、大切に思っていること、それらが、技術を通じて表されてる。リソルジメントの動きと連動しながらも、個人は生きていて、そして繋がりをもっている。
そして、トスカーナの、あの陽光が絵画の中に再現されている作品にとくに魅かれます。
カビアンカの「糸つむぐ人」は寓意的なテーマももちながら、光のなかの日常を光景として描く。この光は、図録や印刷では再現できない光です、絵画は再現不可能性だと私は思っています。人の手と思いと意志と技術によってつくりだされるものなのです。全体の構成としてとても見ごたえのある展覧会ですが、この2作のことをわすれないうちに書いておきたいと思います。ジュゼペ・アッバーティ「フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ教会の内部」この光景に描かれた光と大理石、陰影・・・こうしたものが絵画で描けるのか、と思うほどです。そして同じアッバーティの「カスティリオンチェッロの谷」と「カスティリオンチェッロの眺め」です。何度も展示室に戻っては対峙したくなる絵画です。
カスティリオンチェッロは、マッキアアリオーリの画家たちの活動の場でした。ここでもヴィラが芸術家たちの活動の場で、庇護者マルテッリの家でした。
芸術活動の中心にあったのは、カフェ・ミケランジェロで、そこでマッキアイオーリ派ができたというのも、「場」の喪失を思わざるをえない現代では、絵画と同様に印象的でした。図録を、時間をかけてよみたいと思います。
2月までやらねばならない事が多く、期日が決まっていることが続くので、時間に追われている感覚が強いのですが、印象が鮮明なうちに読みたい図録です。
図録はカバーデザインが2種から選べます。私にとっては、カスティリオンチェッロの風景が大きく載っていたのが嬉しかったです。説明文がとてもわかりやすく、なお、問いかけをしてくれる。
庭園美術館はあまり絵画展をやらないのですが(宝飾品が多い...私はあまり宝飾品を見たいほうではないのですね、考古的なものはまじまじと見てしまいますが、あまりアクセサリーに興味がないのです。)この展示がこの場所で行われてよかったと思います。カラバッジオ展のときを今も思い出しますが、(カラバッジオ展は奇跡的な展示でイタリア側は展示の際に機関銃をもった警備員をつけるようにと要望したそうですが、それももっともだと思ってしまう...分散しているカラバッジオ作品とカラバッジェスキ(カラバッジオ派)の作品をまとめてみるのは殆ど奇跡的です。個人ではなかなか実現できないことです...。
ボルゲーゼ展ももちろんいきますが、マッキアイオーリ展を混雑しない状況で見られて本当によかったです。会期中できたらもう一度行きたい。
ピッティ宮の近代美館から主に出ていますが、個人蔵も多く、貴重な展示だと感じます。
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