ギルバート・ライル以降・・・
「心の概念」によって一般言語における「心」はないと現代ではされている。

肉体の機能と神経の反応によって「そうおもわれ」るのが心であり、「心」自体はないと考えられるのが「スマート」のようだ。


しかし私は疑問があり受け入れられない部分がある。

同様に、精神もまたそうである。
「精神」の力が「公権力」に働く・働かせられやすいと思われているゆえにタブー化されるのはわかる。
しかし、個人、私人、友人同士、師弟の間では、この影響なしには、精神への相互影響が「構築」につながるのだろう・・・・・

これは私の独り言である。

だがベジャールの映画で「徒弟制度では10年のうちに弟子はなにかを発見する。(そして技術を身に着ける)・・・こうした現代の教育とは別の方法を見直したのはフランスだが・・・現在のシステムが硬直し、単一的であることに危惧を覚える。

私に届く、他者の多くは友人(近く・遠く)を超えて伝わるもの。
それによって生かされている、力というよりも光が届けられる。
感謝したい。皆、それぞれ現代では時間も管理されたなかで、私に言葉を届けてくれる人がいる。


私はそれに答えられるのか。
なにか他人の場所を奪うほどに、何かができるのか。

ところで、ライルの本を冒頭に引いてしまったが、ライルの「心の概念」は面白い。面白いというよりも、現代に生きているからには、この概念を理解する必要がある。

だからこそ、私はつねに立ち止まらざるをえない。

今は思考ほか・・ここ数年の積み上げてきたものが容易に否定されてもとに瓦解するような状況がひとつ、以上あります、1日で立て直し今日すすめるべきものにとりかかるかずが、まったくできませんでした。

言葉を紡いで、ありきたりの言葉ではなく、声をきかせて送ってくれる方に感謝を。

私が考えているのは、おそらく、近代以降のシステム、「大量印刷的」「鋳型的」なシステムです。