ピエール・ブルデューの「市場独裁主義批判」はフランスでは10万部売れた本である。この本を翻訳されている加藤晴久氏の言葉を引用させていただく。


「市場の論理」という単一思考に支配されているこの国の市民、とりわけ「ニュー・エコノミー」イデオロギーの犠牲になって解雇されたり、リストラの脅迫にさらされている人々、特に21世紀の世界を生きなければならない若い人々に『市場独裁主義批判』と『メディア批判』を読んでもらいたい」・・・・

 ブルデューは「常に失業するかもしれない可能性」と「非安定雇用の立場」になることの脅迫が、今現在雇用されて生活が成り立っている人にさえ「恐怖」としてい張り付いていることを指摘し、問題視しています。
「他人事」であると思う風潮が強まれば強まるほど、市場の原理がますます個人の生活圏に入り込んでくるのであり、市場の原理とは基本的に、投資家の「気分」によって影響をうけやすく、イメージによって影響をうけやすく、市場原理を「自然」にしておくことがよいという立場の人ほど「予定調和論者」であるのです....
ソーシャルなことを「考えたいか」「考えたくないか」・・こうしたことは、好みや趣味の問題ではなく、自覚せざるをえないのです。古代の民主制では、こうしたパブリックなことは「自由民」に生まれた人だけが考えればよい問題だったのです。パラドックスのようですが、近代以降は、「生まれた瞬間に自由か隷属的な立場か」ということは決定しない分、個人は自覚せざるをえないのです。

「さらにまた今日では、人類のもっとも貴重な文化的成果の経済的・社会的基盤が破壊されつつあります。市場に対する文化生産の世界の自律性は作家や芸術家、科学者のたかかいと犠牲によって増大してきたのですが、それが今、次第に脅かされています。「商業(コメルス)」と「商業的(コメルシアル)」の支配が文学や文芸・芸術批評、映画の上に日々、重くのしかかりつつあります。」


 「ベジャール、そしてバレエは続く」の中でジル・ロマンが言っていた言葉、「芸術は壊れやすい」というのは一面では(というかなりの面で)こういう時代と社会構造・システムと芸術の関係を象徴的に、しかも的確に表した言葉だと思う...

私たちの目の前には、あることがもっとも都合よく解釈され受容され、一般化するための演出がなされていること自覚するべきである。
報道は、報道しながら情報を隠すことも可能である。
「テレビは見せながら隠す」といったように、数字は数で表されるが故に、表面的に物事を結論に結びつけるために利用されることもあるのである。
(私もそうだが、私の友人たちもあまりテレビを観ないのでたまに忘れているが、未だに「テレビ」が生活に浸透する量は多大のようである...)


ブルデューの言うことと標的は正しい、だがそう思うがゆえに、ブルデューともうひとつの立場の中庸に、第三の道があるようにも思える(思わなくてはならないのか?)と思う面もあるのだが、...いずれにしても、答えも論も作成の過程にあります。なぜこんなことをかくのかといえば、同感する面と基本的な問題意識がとても似ているがゆえに、消耗するのを実感するからです。

あまり何度も書くのもどうかとも思うのですが、年末から体調的には最悪でした。3日に1度食事ができるかどうかという状態でしたし、3日に一度は頭痛や吐き気で寝込んでいました....もう1月も10日なのですからいいかげん、日常レベルのことができるくらいに回復させなければならないのですが。昨日は、ある新年祝賀会に出席し、知事や衆議の方と話をしました。出席して、いろいろな方から相談される問題について話を聞いてもらえたのはよかったと思います。ちなみにその前の日はあまりにも体調がわるく、娘を実家で預かってもらったりと、...時間が足りない、と思うことが多いです。とにかく、時間が足りないと感じます。時間は作り出すものだとはわかってはいますが、年々それは増えていっているように思います。

新聞やTVのニュースに物足りなさ、納得のいかなさを感じる方はぜひ、ブルデューの上記の2冊および、「再生産」を読んでほしいと思います。それから、ベジャールとジル・ロマンの映画は、1月15日までです。いずれDVD化されるのをもちろん望んでいますが、ぜひスクリーンで観てもらいたい作品です。

「私たちは加害者と被害者の間でもがき苦しみ、地獄を作り出している」
「現実はきれいごとではない、現実に暴力が存在する、それは世界が他の世界を攻撃するものだ。」ジル・ロマンが新作の主題にした「神話」は、現代にも存在しつづけてる構造を顕わしている。「神話」は「犠牲」となった人をメモリアするために語られる。しかし「犠牲」は・・・「神聖化」しすぎてはならない...私たちはこの次元を何千年も廻っているのか、あるいはシステムが逆行しているのか。

つまり、私たちは、実のところ、存在するだけで、他者の場所を奪っているのである。そのことに自覚的になることと、無自覚なままの状態は、あまりにも振る舞いや言動に断絶を起こしてしまうのかもしれない。それが、互いの眼に映る「世界」をまったく対照的に感じさせてしまうのかもしれない。

・・・・造的な問題から心性的なものを語るつもりはなかったのですが・・・ホッブス以来の「力」の原理は否応なくどこにでも影響を及ぼします。ばらばらにされた人間や個の孤独だけが普遍なのでは、とも想えてくるテーマは、見事に作品となっていると思う。