ピエール・ブルデューの「市場独裁主義批判」「メディア批判」およびアンソニー・ギデンズと統計資料を11月から見直しているのですが、あと数日で最初の形(下書き)にしなければならない状況です。
クリスマス頃から悪質な風邪になり、一度は治りかけたものの30日から再び悪化してしまいました。元旦は実家へ行ったり、犬たちの様子をみたり、具合のわるい犬の世話をしたりしていました。母親がエビチリソースやら野菜の揚げだしなど沢山の手料理でもてなしてくれました。もうすこし手をぬいてくれてもいいのにと思うほどでした。二日は半日仕事で、今週末も休日はない状態なのですが、今日の昼すぎからまた具合が芳しくなく..31日に無理をしたせいかもしれません。無理したくないと思っていますし、無理しないようにと周囲も友人たちも言ってくれるのですが、やはり無理しないとできない・完成しない不器用さがあるのですね...逆にいうと、多少無理しないと何もできないのではないかと思う部分もありますが、多分、資金やもっと能力が高い人ならば無理せずできるのかもしれませんが、手間ひまや作業を速く進める、他の人の迷惑にならないように他の人が納得してくれるレベルのものを造ることといったことでしか私は埋め合わせられないのです。


完全に雑記なので後日消しますが、...自分のパソコンが不調なので、お返事やお年賀などは遅れてしまいます。いつも年末の仕事締切りのあとに急いで年賀をつくって、宛名とコメントは手書でつくっているのですが、今年は年末不調で何もできず、印刷もうまくできず。
年に何回もお手紙やお葉書など便りをくれる方とは今年も来年も同様に、宜しくお願いしますという気持ちで一杯です。

みなさんもそうかもしれませんが、一方でデリカシーに欠ける年賀状というのは、年末年始もあまり休めないという状態だとかなりのダメージをうけることもしばしば....。誤解のないように付け足しますと、私の直接的な友人にはそういう方はいません!
しかしまぁなんというか、ある友人の方の名言をお借りすると「私たちは人をがっかりさせるようなことをしたり、がっかりさせる人にならないようにしよう」ということを思ったりします。
人から受けた好意は、ほかの人にもそうするほうがいいし、自分がされて嫌なことを人にするような「悪意の循環」はやはり良くないな、と感じます。相手の気持ちを考えるという単純なことですけれど。

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ボッティチェリは「憎悪」や「羨望」や「嫉妬」などあらゆる悪徳を目に見える形で描きました。「真理」を忌々しげに見上げる「悛悟」の寓意、また「欺瞞」「嫉妬」「誹謗」が「無実」の人を「不正」な審問官の前に引きずり出すというあの、「アベレスの『誹謗』」(ウフィッツィ美術館にある・ボッティチェリの絵では小さい絵、しかし「春」と同様に絵自体が語りだす絵画です)に描かれた社会・世界とおなじものが世の中には蔓延しているのではないでしょうか。現代ではさらに、それらが「自由」という言葉のままに振舞っているのではないでしょうか...。ボッティチェリの描く「不正」には「無知」と「猜疑」がヒステリックに何事か(つまり無知と猜疑に満ちた言葉を)を吹き込んでいるのですが、どこか現代の社会でも同じ構図が人を生き難くしているように思えてしまいます。

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中世的だといわれそうですが、私が感じるのはやはり自分の中にそういった感情を律することは必要なのではないでしょうか。
些細なことで、人に元気をもらったり、その逆もあります。だから、気がついたらそれは他者に対しては特に「形」や「言葉」として表すべきなのだろうと思います。
特に感謝を示すことは大切だと感じています。
細部の大切さを感じることが多いです。

私圏(私生活)と公的な生を両立したり、複数の役割をそれぞれ適切に果たすことは難しい。しかし「生きている」なら「そうするしかない」のが現状だったりします。

生きている証というのに意味がないという人も多いのかもしれませんが、やはり私の中には「死を想え」memento moriの価値観が常にあります。古代ローマからルネサンスの教訓であり、形があるものは常に壊れていく過程なのであって、維持と保存だけでもかなりの労力を使い果たしてしまうものです。しかしそこになにかの意味を加えたいとするならば、それは物質に留まらない何かなのです。多くの場合は、私生活において物質を所有したり消費したりすることにエネルギーが向けられます。しかしそれはそれで意味がないとは言いませんが、それがすべてではない。部分ではあるが、全体ではないということです...



1月末まで週ごとにプレッシャーの多い出来事が重なっています。