昨年中から観たかった「ベジャール そしてバレエは続く」を観てきました。
今のところbunkamuraのル・シネマでの上映だけのようですが、もっとこの映画を観られる機会・劇場が増えたらよい。多くの人がこの作品を観られるとよいし、同時にこの映画を作って記録してくれた映画監督に感謝したくなった作品だった。

とにかくジル・ロマンがベジャール追悼公演(パリ・オペラ座2008年10月)で踊った「アダージェット」のシーンから引き込まれる。そして、ベジャールとジョルジュ・ドンから託されたような作品の少々でもある「アダージェット」を躍るジル・ロマンと、新作「アリア」の創作の過程。
団員とジル・ロマンの挑戦は、新しい創造と芸術が立たされている問題の象徴でもある。
「芸術やARTは感覚的なもの」という安易な認識をもし持った人がいるならば、それは払拭されるだろう。本当は多くの人が惹かれ想いを抱くような芸術や美術は常に、責任や重圧の中で生み出されるものなのだと実感できるだろう。そして、多様な意味で、舞台や演目は観客と観客の反応によっても方向付けられてしまう、可能性を与えられたり失ってしまうことがわかる。(今日、時代を超えて上演されたり読まれたりする作品の殆どは賛否両論か、売れなかったか、あるいは生前には未発表だったりすることは言うまでもない。)
過去の圧倒的な映像も「引用」されて、この映画は多くのことを教えてくれる。
監督はスペイン出身で、自分もバレエを学んでいたことがあり、80年代にはベジャールのバレエ学校で学んだこともある女性。文学の教授資格を持つ。つまり、バレエのテクニックやメソッドを知り、バレエが持つ可能性や意味も充分に理解している人の手によるドキュメンタリーで、単なる記録や説明でも過去のコラージュでもない。
リハーサル中。首の頚椎・筋肉を傷めながらも、翌日のローザンヌ市長に見せるために全力を尽くそうとするジュリアン・ファブローが印象に残る。リハーサル中のダンサーたちの姿が多く映し出され、すばらしい。私たちはいつも舞台しかみることがないから、その背後や過程の積み重ねを知ることは舞台をみることと同様に大切だと思う。
ヴェネチア・サンマルコ広場で踊られるベート−ヴェン「第九」の映像が素晴らしかった。ベジャールは映画「エトワール」で「「第九」は一種のデモのようなバレエであり、劇場ではなくスタジアムが相応しい」といっていたが、「広場」がもっとも相応しいのではないだろうか。
それと同様に「広場」(PIAZZA/人々の交流の場でありソーシャルで誰もがアクセル可能な場所)がなければなにも始まらないとさえ思う(日本にはそのような「広場」はない。)

ルフェーブル、ショナ・ミルク、ミシェル・ガスカール、ミカエル・ドナールほか多くの人々の言葉も活きたものである。
多くの人に観てもらいたい作品、そして観られてよかった。語りつくせない内容なので、また追記したいと思います。
ところでチャコット本店に立ち寄ったのですが、新春のフェアでトゥシューズのゴム・リボンつけと刻印(イニシアル他)をしてくれました。

映画の余韻が消えるのが嫌だったので、表参道まで歩いていき、それから帰宅しました。
写真は映画ポスター(日本版)とbunkamura1階ホールギャラリーの映画紹介パネル.
今のところbunkamuraのル・シネマでの上映だけのようですが、もっとこの映画を観られる機会・劇場が増えたらよい。多くの人がこの作品を観られるとよいし、同時にこの映画を作って記録してくれた映画監督に感謝したくなった作品だった。
とにかくジル・ロマンがベジャール追悼公演(パリ・オペラ座2008年10月)で踊った「アダージェット」のシーンから引き込まれる。そして、ベジャールとジョルジュ・ドンから託されたような作品の少々でもある「アダージェット」を躍るジル・ロマンと、新作「アリア」の創作の過程。
団員とジル・ロマンの挑戦は、新しい創造と芸術が立たされている問題の象徴でもある。
「芸術やARTは感覚的なもの」という安易な認識をもし持った人がいるならば、それは払拭されるだろう。本当は多くの人が惹かれ想いを抱くような芸術や美術は常に、責任や重圧の中で生み出されるものなのだと実感できるだろう。そして、多様な意味で、舞台や演目は観客と観客の反応によっても方向付けられてしまう、可能性を与えられたり失ってしまうことがわかる。(今日、時代を超えて上演されたり読まれたりする作品の殆どは賛否両論か、売れなかったか、あるいは生前には未発表だったりすることは言うまでもない。)
過去の圧倒的な映像も「引用」されて、この映画は多くのことを教えてくれる。
監督はスペイン出身で、自分もバレエを学んでいたことがあり、80年代にはベジャールのバレエ学校で学んだこともある女性。文学の教授資格を持つ。つまり、バレエのテクニックやメソッドを知り、バレエが持つ可能性や意味も充分に理解している人の手によるドキュメンタリーで、単なる記録や説明でも過去のコラージュでもない。
リハーサル中。首の頚椎・筋肉を傷めながらも、翌日のローザンヌ市長に見せるために全力を尽くそうとするジュリアン・ファブローが印象に残る。リハーサル中のダンサーたちの姿が多く映し出され、すばらしい。私たちはいつも舞台しかみることがないから、その背後や過程の積み重ねを知ることは舞台をみることと同様に大切だと思う。
ヴェネチア・サンマルコ広場で踊られるベート−ヴェン「第九」の映像が素晴らしかった。ベジャールは映画「エトワール」で「「第九」は一種のデモのようなバレエであり、劇場ではなくスタジアムが相応しい」といっていたが、「広場」がもっとも相応しいのではないだろうか。
それと同様に「広場」(PIAZZA/人々の交流の場でありソーシャルで誰もがアクセル可能な場所)がなければなにも始まらないとさえ思う(日本にはそのような「広場」はない。)
ルフェーブル、ショナ・ミルク、ミシェル・ガスカール、ミカエル・ドナールほか多くの人々の言葉も活きたものである。
多くの人に観てもらいたい作品、そして観られてよかった。語りつくせない内容なので、また追記したいと思います。
ところでチャコット本店に立ち寄ったのですが、新春のフェアでトゥシューズのゴム・リボンつけと刻印(イニシアル他)をしてくれました。
映画の余韻が消えるのが嫌だったので、表参道まで歩いていき、それから帰宅しました。
写真は映画ポスター(日本版)とbunkamura1階ホールギャラリーの映画紹介パネル.
コメント