11月30日(月)の東京新聞のコラムのあった東京新聞のコラムは、「日本のゴルフという世界への違和感」という内容が丁寧に書かれた村松氏のコラムで大変共感した。

「1日たりとも”金額”が活字として躍らぬ日のないジャンルとはいったい何なのだろう。その方が面白いし、人気をあおることができる、ということなのか。「七百万円差」に一喜一憂するファンや読者をあおりたて、ゴルフを盛り上げれば目出度いということなのだろうか。ともかく、何かを忘れてしまったようなあっけらかんとした”金額”の大合唱が、私にはいささか不気味とされ感じられるのだ」

日常的に思っていたことなので、引用させていただく。
そして「この傾向に対して、警告を発し、違和感を向ける公的な言葉を私は寡聞にして聞かない」という点も同感である。

なぜか日本では、「数」と「順位」に換算した価値観を求める人が多いように思う。
あるいは圧倒的多数はそういうものだという認識は、マスメディアが過剰に表出させているにすぎないからなのか?などとも思ってしまう。

順位と数と金額があらわれるものが、記事として書きやすい、煽りやすいからなのだろうか。(ちなみに「日本のゴルファーファッションに首をかしげるという記述も同感」だった。)

私は家具をみるために某大手家具展に脚を運ぶことが多かったのだが、大抵において、アドバイザーが口にする話題は「ゴルフ」「協賛している」などという言葉で、正直「なぜ私たちがすきかどうかも聞かずに、そういう話題を振ってくるのか」という思いが毎回していた記憶がある。家具好きな人は絵画や音楽好きだったりすることが多いように思うのだが、趣味は各自違うとはいえ、はじめから「嫌いな人はいないはずだ」という雰囲気には呆れることが多い。
自分の趣味が「多数」「皆そうだから」というもので決められていくのはつまらない。
しかし、どうも多くの人はやはり絵画なども感覚的、装飾的な「モノ」としてみる価値観が根強いのだろうか。表に表れるものほど、内実が重要、本質は表象に現れるものだ、という見方は日本では少数派なのだろう、とは思ってはいるのだが。
しかし近代以前はそういったものは軽視されていなかった。むしろそれによって支えられてきたと思うことがある。

ともかく、どこかカルチャーや個人の趣味・志向においても「同調プレッシャーのようなもの」が日本には強いように感じる。

東京新聞はWEB上で以前からニュースをみていたが、この秋から東京新聞を購読するようになった。ちなみに村松氏の隣の欄は、梅原猛氏である。ちなみに実家では朝日と読売をとっていて、同じニュース・出来事でも、各紙の書き方がかなり違っているので、読者の認識やイメージはかなり大きくずれるだろう...
ここが、現代での[知る]ということに対する大きなずれを生んでいるのだろう。

新聞は広告を買っているわけでもなく、サービスを買っているわけでもないのだから。