映画「パリオペラ座のすべて」を観て、実は一番強い印象は「ヌレエフ世代の遺産は継承されるのか?」ということだった。ちなみに第二の印象は、「ルフェーブル芸術監督によって伝統と革新はバランスを保ちクオリティを保っている」ということだった。

映画・映像作品の感想はまとめて書きたいところなのだが、技術、エスプリの断絶は意外と容易に起きてしまうということも感じてしまった。とにかくローラン・イレールが卓越しているせいかもしれない。芸術性を「理解する」こととはどういうことなのか?映画「エトワール」を観ると強く感じるのは、ルグリ、イレール、ルリッシュ、オーレリー・デュポン、プラテル、マリ=アニエスたちのエスプリであって、常に自己の内部規律と常に外部に開かれた精神性の表現の在り方だ。フランス文学では、時に「神のほうへ向き直る」という言い方をすることがある。自己に満足しないこと、規律のもとに自由であること。抽象的な言い方をしているとは思うが、そういった形のないものを、理解しなければ表現できないものもある。
ドロテ・ジルベールはルグリから継承し、マチアス・エイマンはオーレリーから継承できいている現役エトワールである。だが、その後はどうなのだろうか? ジローとベラルビの「シーニュ」、ルグリとレティシアの「ル・パルク」(イレールとゲランの初演キャストはいうまでもない、アンジュラン・プレルジョカージュやベジャールは現実のダンサーをミューズとしてモデリングして作品をつくる。現象させる起因はそのイマージュによっているように思う。ドンやイレールがいなければ、おそらく、ボレロやル・パルクは創られていないのではないだろうか。)
ところで、オペラ座関係の記事を読んでくださる方も多いように思うので、この機会に書いておきたいのは、イレール、ルグリ、シャルル・ジュドらが総出演しているニジンスキー、バレエ・リュス作品のDVDを再発売してもらいたいということ。本当にこのDVDは重要な作品である。パリ・オペラ座の起源はたしかにルイ14世、アカデミー時代なのだが、第2の起源は20世紀初頭のバレエ・リュスのパリ公演である。(その中間にあるパリ・オペラ座のオリジナリティは、ゴーティエ時代である。ジゼルの原作・台本はゴーティエによるものだし、彼が舞踏批評をすることでパリで再び舞踏は芸術とみなされた。因みに19世紀グランド・ペラ(グランドオペラ)の時代は、フランスではオペラの添え物、幕間余興的な存在にされ、ダンサーは知的ではないとされてしまっていた。)
BALLETは確かに目にみえる身体表現である。
それと同時に、目にみえる物質的なレベルを超えたものである。
一瞬一瞬の動きと時間のなかで表現されながら消えていくという側面は、
永遠にその形を観客の中に形成できるという独自の芸術性の特徴をバレエという舞台芸術は持っている。
そういう意味づけを日本ではまだあまりされていないように感じる。
(オペラ座の特集が物質主義的なフィガロ誌などで「ゴージャス」の代名詞のように語られていることも関係するのかもしれない。しかし、間違いなく、文化的な空間と観客であるのは、この層だということ。)
オペラ座も無条件に今と今までの、価値を保持できないのかもしれない。
よく文化の継承と世代間格差、極端にいえば、文化は隔世遺伝されるのかと思うことがある。
それにしても、ルフェーブルが言っていたダンサーの理想、
「ベジャールが名言を」と紹介していた「修道女でボクサー」...まったくその通り。

ベジャールの映画もbunkamuraでは公開されるとのことで静かに期待しています。
パキータのシーンでは、ミテキ・クドーさんに惹きつけられる、彼女をみていると正にスジェ(subject)の意味が象徴的に思えてくる。
実はオペラ座の質はスジェとコール・ド・バレエによって支えられていると感じることが多い。
映画の感想についてはまた改めて書きたいと思います.
映画・映像作品の感想はまとめて書きたいところなのだが、技術、エスプリの断絶は意外と容易に起きてしまうということも感じてしまった。とにかくローラン・イレールが卓越しているせいかもしれない。芸術性を「理解する」こととはどういうことなのか?映画「エトワール」を観ると強く感じるのは、ルグリ、イレール、ルリッシュ、オーレリー・デュポン、プラテル、マリ=アニエスたちのエスプリであって、常に自己の内部規律と常に外部に開かれた精神性の表現の在り方だ。フランス文学では、時に「神のほうへ向き直る」という言い方をすることがある。自己に満足しないこと、規律のもとに自由であること。抽象的な言い方をしているとは思うが、そういった形のないものを、理解しなければ表現できないものもある。
ドロテ・ジルベールはルグリから継承し、マチアス・エイマンはオーレリーから継承できいている現役エトワールである。だが、その後はどうなのだろうか? ジローとベラルビの「シーニュ」、ルグリとレティシアの「ル・パルク」(イレールとゲランの初演キャストはいうまでもない、アンジュラン・プレルジョカージュやベジャールは現実のダンサーをミューズとしてモデリングして作品をつくる。現象させる起因はそのイマージュによっているように思う。ドンやイレールがいなければ、おそらく、ボレロやル・パルクは創られていないのではないだろうか。)
ところで、オペラ座関係の記事を読んでくださる方も多いように思うので、この機会に書いておきたいのは、イレール、ルグリ、シャルル・ジュドらが総出演しているニジンスキー、バレエ・リュス作品のDVDを再発売してもらいたいということ。本当にこのDVDは重要な作品である。パリ・オペラ座の起源はたしかにルイ14世、アカデミー時代なのだが、第2の起源は20世紀初頭のバレエ・リュスのパリ公演である。(その中間にあるパリ・オペラ座のオリジナリティは、ゴーティエ時代である。ジゼルの原作・台本はゴーティエによるものだし、彼が舞踏批評をすることでパリで再び舞踏は芸術とみなされた。因みに19世紀グランド・ペラ(グランドオペラ)の時代は、フランスではオペラの添え物、幕間余興的な存在にされ、ダンサーは知的ではないとされてしまっていた。)
BALLETは確かに目にみえる身体表現である。
それと同時に、目にみえる物質的なレベルを超えたものである。
一瞬一瞬の動きと時間のなかで表現されながら消えていくという側面は、
永遠にその形を観客の中に形成できるという独自の芸術性の特徴をバレエという舞台芸術は持っている。
そういう意味づけを日本ではまだあまりされていないように感じる。
(オペラ座の特集が物質主義的なフィガロ誌などで「ゴージャス」の代名詞のように語られていることも関係するのかもしれない。しかし、間違いなく、文化的な空間と観客であるのは、この層だということ。)
オペラ座も無条件に今と今までの、価値を保持できないのかもしれない。
よく文化の継承と世代間格差、極端にいえば、文化は隔世遺伝されるのかと思うことがある。
それにしても、ルフェーブルが言っていたダンサーの理想、
「ベジャールが名言を」と紹介していた「修道女でボクサー」...まったくその通り。
ベジャールの映画もbunkamuraでは公開されるとのことで静かに期待しています。
パキータのシーンでは、ミテキ・クドーさんに惹きつけられる、彼女をみていると正にスジェ(subject)の意味が象徴的に思えてくる。
実はオペラ座の質はスジェとコール・ド・バレエによって支えられていると感じることが多い。
映画の感想についてはまた改めて書きたいと思います.
コメント