エトワールとは、パリ・オペラ座の最高位ダンサーの呼称である。
しかし同時に、エトワールとは、単なる最高位を意味しない。
この事はあまり紹介されていないように感じるのだが、エトワール(星)とは「オペラ座の芸術性」を意味する、というか体現する存在である。

つまり、通常のバレエ・カンパニーが1ST(第1位/階層として)的にダンサーを捉えているのとは別の意味で「特別」な存在であることを示している。
よく知られているように、エトワールは芸術監督が任命することができる。
つまりヒエラルキーの外部に位置づけられているダンサーであり、そのようなことが要求される。作品の芸術性を方向付けることができること、その概念と表現と技術、演技に相応以上のものを求められる....ルフェーブルも語っていたが、ルグリはその中でも特別である。内部規範性と他者性を持つダンサーであり、常に自らを完成させそれを乗り越えなければならない。
そういったことを課し、実践できる人である。
つまり、そういった意味で、「最高位」はその名の通り、プルミエであり、役柄を演じることができるのはスジェ(subject/主体)からと捉えられる。
ルグリは、教師達による内部試験でプルミエにはならずにエトワールとなった。
教師は(村井実先生も書かれているが)「完成された人像(鋳型)」だけを追ってはいけないことをよく示している。

ルグリが音楽性のある人という言い方をするのはよくわかる。
舞踏、特にバレエは形とともに形を超えた表現が求められるからである。

オペラ座は、芸術が人から人へ、技術とともに情熱、精神(という言い方を否定するの立場があるのを知ってあえてこう表現するが)とともに継承されることをしっている、あるいは経験によって、それのみが伝統を継承させることが可能だと学んでいるバレエカンパニーである。なぜなら、絵画彫刻アカデミーや舞踏アカデミーですら、かつて断絶し、失われた芸術性を取り戻すことが難しいことをしっているからだと私には思える。
だから、ルグリは年少のオーレリーに多くを教えて共有したのであり、ルグリはプラテルやモニク・ルディエールからも多くのものを受け継いでいる。
しかしながらこういったものは、「教える」ことはできない。
自分で学び取ることが必要なのであり、重要なのは、「自ら」をそのレベルに到達させることは教えられるということである。
周囲、つまり教師や先にその道に生きる人々によってそれは掛かっている。

デフィレを演目に選んだルグリはそのことを真の意味で理解しているのだし、おそらく同じ舞台に立ったダンサーたちはルグリからのギフトを「受け取った」と願いたい。

ところで、エリザベット・プラテルがルグリと会話する所が素晴らしかった。
プラテルもまた「特別」なダンサーだったが、この日観たプラテルは、レオナルドが描いた「聖アンナ」のようだと思った。ちなみにオーレリーはミネルヴァのようになっていた。

「私性」「自律的な人間像」を超えていくことは可能だが、その場合難しいのは、「無私」の表現基盤を得ることだろう...静的にというのではない、些か抽象的になるが、ギエムもこの点だけが自らの問いとなっている舞踏表現なのだと思う。モダンという名のもとに、多くの振付家が能や花伝書を学ぼうとするのはとても興味深い。日本はその点で優位にあると思われるのだが、様々な接点や地平や伝統がすべて断絶している。
番組を観た後、可能性と限界は常に隣り合わせだという思いが最後にした。

この日は仕事から帰ったのが22時過ぎだが、結局放送全てを観た後、録画した映像を最初からまた観てしまった。
疲れているから余計受けるインパクトが大きいのかもしれない。「ル・パルク」の映像など含め貴重な映像ばかりだった。作品や内容の解説・説明は十分とはまったく云えないものだったが、少しでもオペラ座作品を見てくれる人が増えたらよいと思う。

継承と断絶は繰り返すが、その度に形を変えて顕れるのかもしれない。
バレエ・リュス(今年100年だという)がパリにバレエをもう一度再生の機会を与え(パリではグランド・オペラの添え物的なものにされていた)解体したバレエ・リュスは英国ロイヤルバレエの起源にもなった。
ヌレエフによる再度のパリでの再生、その世代のダンサーたちが引退を次々に迎えていることを改めて感じた。そして同時に、あまり言われてはいないように感じるのだが、ルフェーブルの理念と実践とオペラ座の観客達が、「オペラ座の芸術性」を息づかせている原動力だと思う。
つまり、近代以降の今日では、受容する私たちの言動によっても芸術は方向づけられてしまうということを強調しておきたい。