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マニック・ストリート・プリチャーズのギタリストというよりも詩人であり「告発者」だったリッチーが昨年2008年、11月に死亡認定され、彼の両親も受け入れたというニュースを遅れてしまったが、読んだ。

マニックスは初期のRADIOHEADやdead can danceとともに最も影響を受けたアーティストである。それと同時に、今頃になって、リッチーが書いていた詞が実感として解るようになってきたように思う。例えば、ヴァン・ゴッホからとった「哀しみは永遠に消え去らない」・・・これは真実だ。たとえば、トラキア人や古代エジプト人が葬祭を重視したのは、肉体の死以降、「苦しみが断ち切られる」と思っていたからである。よく、エジプトの棺の周りに描かれる壁画は、現世の生活を模したものではなく、「そのような豊で苦悩のない生活があるように」願ってミイラとして保存した「肉体」とともに葬ったのである。どうも、魂は肉体から離れて自由となり、夜はミイラに戻って永遠を過ごす・・・その飛翔している隼の姿がメッセンジャーとしての天使(翼をもつ霊的なもの)の原型であるようだ。その位の起源をもつほどに、本来「生」は苦しみを伴う。エターナルな哀しみ、苦痛...それは対の言語である、Live on・・・と同等の強さを持つ言葉であるように思う。
(最早現代では、出産が痛みと死を伴っていることすらも忘却しているが....)

リッチーは”詩人”であったから、多くのアフォリズムを作品に付している、当時よりも現在のほうが、なぜ、この言葉をひくのか、イプセン、キルケゴール、ニーチェ・・・正に「永遠に遅れてやってくる」のだろうという思いがする。

19世紀のフランス詩人たちが、ブルジョワ的物質主義を批判したような方法で、リッチーは、「透明化」し「物質社会」を受容した「英国」を批判した。おそらく、20世紀はポップミュージックが文学の詩の役割をおっている。日本では小説は一部、漫画などに取り入れられている部分のほうが強いだろう(文字で書かれているからといって、文字の芸術・文字の批評性をもつとは限らない。むしろ、「売るための」文体をもつ活字(もはや写植でもない)でしかないとでもいえるかもしれない)
現在の日本のポップミュージックに詳しくないのであまりいえないが、マニック・ストリート・プリーチャーズという命名からして、自発的に、他のミュージシャンとは立場の異質さを表明していた”バンド”である。


19世紀前半のフランスでロマン主義が負った役割は、教会の司祭が導いていた人々の心を、詩人が導き、人々の心の代弁を行った「伝道者」であった。

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そういう意味で、今思うとマニック・ストリート・プリチャーズとは、2名の詩人と2名の奏者によるユニットであって、やはり一般的なバンドではない。
ギタリストという呼ばれ方、ポジション、ボーカリストではない作詞者、弾けないギタリスト、どれこもれもが彼にとってはパラドックスであっただろう。パラドックスを一身に引き受けなければならないとき、そしてそれが彼の良心を傷めるならば、外的な攻撃(すなわち、具体的には、「ホーリー・バイブル」発売後の英国プレスの諸々の記事と記者たち)は彼の肉体と精神の因果関係を保っていたものを修復不可能なほどに傷つけただろう。彼が、スーパーモデルの痩身を例にとって書いていた心情は今になるとよくわかるし、「生まれながらにして流産だった(私達)」という言い方もよくわかる。リッチーは、太宰治を読んでいたが、ナルシズムを超えた自己否定、いや自己否定に向かわざるを得ない、社会の全体性・産業構造性からくす「USELESS」な世代という認識である。

日本ではロストジェネレーション、団塊Jr.とも呼ばれるが、私自身の実感はやはりリッチーが1992に「Repeat」で繰り返し詠っていた「USELESS GENARATION」である。
つまり、既存の価値観と構造に「はまる」ように育てられながらも、その構造が途中崩壊したために、価値とみなされたものの大半が「lost」したことを味わった世代だということだ。いつも思うのだが、この「切り捨てられても「社会」が痛みを感じない世代、つまり私もそうなのだが、現在、自殺者の大半の若年層がこの世代に入るのではないだろうか。

因みに「消費自体が人生の目的」(のようにみなされる)のはアメリカ60年代後半からである。日本や英国では80年代前半にそれは始まる、拡大するに従って更に「グローバル」という曖昧な表現もついてこの動きは良きモノとしての言葉のイメージも強まっていく。マニックスのリッチーなきあと、ジェイムスやニッキー・ワイアが繰り返し「自分たちは過去の遺骨のように感じる」とコメントしていたのもこのような「作り出された(表層させられた)POPに対してであり、例えば、バタイユ「呪われたもの」以来、ボードリヤールが唱えた「消費社会」とポップアートの告発だとすれば、「KNOW YOUR ENEMY」以来のマニックスはこのことをほぼ率直に表現しているアーティストである。
生死が対である以上、そこに価値を見出してきたのが人間でありそれは文化と総じていえるかもしれない、「消費だけ」という価値に肯けない人々の行き場のなさ、生き場のなさ、空虚さ、システムが高度に構築されればされるほど、この問題は根が深くなっている。話がそれてしまったが、リッチー、st.エティエンヌのエマ(だっただろう)、ブラーのデーモンが座談会をしたとき、リッチーが今でいう「消費社会」「私生活主義」批判をしたら、他の同席者たちは、「何を言い出すのか」「自分でかせいだ金を好きなように使って何がわるいのか」と、リッチーに同調する人々はその場では皆無だった。(無論私は、リッチー派なのでこの反応には驚いた)
・・・今からおそらく17年位前の話だが、その頃よりも更に、問題の根幹は「透明」になっていると思う。


リッチーの死亡認定という事実は、私の中でも大きな衝撃だった。
「真の生活は不在だ」といった、ランボー以来の詩人であると思うし、本当は、ランボーのように詩と決別してでも生きていてほしかった。
彼のような人(奨学金を得て大学を卒業し、歴史の学位をもっていたリッチー)が、単にナルシストとかアジテータというようなレッテルを貼られるのも、永遠に忘れられるように風化したりするのは、私にとっては彼の死以上に哀しいことだ。



再発売が繰り返されている「名盤」となうった記念盤CDについてはここではあえて何も言わない。私は、当時の音楽ライター・ジャーナリストたちが決して「名盤」とはいわなかったのを知っているし、マニックスを正のチャージ(電極)をもつバンドとして認知しはじめたのも「売れる」ようになってからだからだ。



10代の頃にもっとも影響を得た”詩人”として、追悼の心を捧げたいと思う。



リンク先は死亡認定を報じたページです
http://nmn.nifty.com/cs/catalog/nmn_topics/catalog_081125010111_1.htm

ずっと書けずにいたリッチーに関することだったが、愛犬が17歳になり、この間の長く短い時間とともに色々と思い出してしまった。自分が力を貰っているものたちが、地上から離れていってしまうのはとても辛いことです。

http://www.dailymotion.com/video/x2on6n_manic-street-preachers-you-love-us_music

YOU LOVE US (PV)