パトリック・デュポンの「プティ・パン」は、ミハイル・フォーキンの「ナルシス」、ニジンスキーの「牧神の午後」の系譜にあるバレエながら最も「踊り、跳躍する」バレエである。ニジンスキーの「牧神の午後」の音楽はドビュッシー、そしてモチーフはギリシアの壺絵であり、古代のモチーフであるプロフィール(横向き/横顔)で表現される。そして、跳躍で20世紀初頭のパリを一斉風靡したニジンスキーの作品ながら、跳躍をみせないバレエである。人間とは何か、動物とは何か、神とはなにか、聖性や超越性などを非言語的に表現した作品だが、余程のこの主題に根ざした解釈がなされない限り、主題にたどり着けないという「難解さ」をも孕んでいる。
フォーキンの「ナルシス」は転身物語(メタモルフォーセス)のナルキッソス/ナルシスと牧神存在を重ね合わせた作品である。こちらはどちらかといえば、人間性や無意識、フロイト的深層心理や純粋な精神性の表現、シュルレアリスム的な作品といえるだろう。マラーホフの、「ナルシス」と「ブラボー・マラーホフ」に収録された作品はどちがも素晴らしいが、「ブラボー・マラーホフ」のほうが超自我的な深淵な表現だと私は思っている。
パトリック・デュポンの「プティ・パン」を改めてみていて、人間と動物の境界とは、また野性と神聖の境界とは何か、そういったテーマを全て包んでいる作品であり、ほぼ完璧に踊られていると感じた。超人的な跳躍というだけではない、身体の極地といえるような動き。しかもそれは解釈が難解な動きではなく、誰もが観ても「凄い」と思える身体能力の高さによって観る者は引きつけられる。
しかも、身体能力の高さだけで踊れるものではない。人間、野性(動物性・生命存在の力の根源性)、そして聖なるものの解釈と位置づけ、そういった文学、歴史、心理的表現を咀嚼して体現できたダンサーだけが演じられる演目だと思う。
葡萄を食べる様子、踊る様は、ギリシアで発見された「踊るサテュロス」を思わせる。古代性がなぜ、モダニズムに通じるかといえば、中世と近代は連続しているのに対して、古代は更に古い文明の集束によって築かれた数千年の歴史の先端に位置しているからだと考えられる。
進歩とは、単に時間の経過によって得られるものではなく、影響を与えるもの、それを理解して受容し改良するもの、継承によって得られるのだと思う。
ヌレエフ世代のダンサーたち、カデル・ベラルビ、マニュエル・ルグリ、ローラン・イレール、L.ドラノエら、ギエム、ノエラ・ポントワ、映像は古いが、これらの作品を後の世代が観られるということが遺産なのだと思う。
舞踏や運動競技自体が、元々ギリシアや古代では死者に対する「捧げもの」であったといわれている。つまり、永遠の生の価値や美を、死者にたむけるために行われたものであり、だからこそ、踊る身体、躍動する身体そのものも、非永遠なものなのだ。しかし、観る者はそこに永遠を感じ、普遍の美を感じるのだろう。
だから、素晴らしいバレエは、動きそのものや身体の物質としての運動を超えたものとして現象する。
抽象的な話になってしまうが、ヌレエフ世代のダンサーたちが引退をする中、あらためて濃密な舞踏史にのこるバレエをみた思いだった。
ベラルビは「シーニュ」でパリ・オペラ座を引退した。
「シーニュ」をみると、ベラルビが表現できる静的で言語を超えた表現としてのバレエを一貫してみることができるようにも思う。
日本でも、舞踏や絵画芸術、音楽といった芸術全般を現象学的に観ることがもっと必要だと感じている。
科学主義に偏った分析や解釈、説明では語れないものがあるのが芸術だからである。
つまり、物質に還元できないものがあるのだから。
このゴールデンウィークは、パリ・オペラ座学校公演のレッスン見学と公演をみたばかりのためか、感慨深くDVDを観た。
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だから、素晴らしいバレエは、動きそのものや身体の物質としての運動を超えたものとして現象する。
抽象的な話になってしまうが、ヌレエフ世代のダンサーたちが引退をする中、あらためて濃密な舞踏史にのこるバレエをみた思いだった。
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「シーニュ」をみると、ベラルビが表現できる静的で言語を超えた表現としてのバレエを一貫してみることができるようにも思う。
日本でも、舞踏や絵画芸術、音楽といった芸術全般を現象学的に観ることがもっと必要だと感じている。
科学主義に偏った分析や解釈、説明では語れないものがあるのが芸術だからである。
つまり、物質に還元できないものがあるのだから。
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