2011年から小学校56年で英語必修化となる。
中学校の英語がその内容を踏まえたところから始まるというのが具体的な変化でわかっているところなのだが、先ほど旺文社が調査を行い、小学校ではどのように感じているかというデータが公開された。
http://www.asahi.com/national/update/0208/TKY200902080137.html
現場教師は53%が不安を感じているという。
これにはいきさつがあり、昨年秋に研修において小学校英語教育について講演があり参加した。担当されたのは埼玉の小学校で英語専任講師を続けてこの問題に詳しい渡邊かやの氏。中国では40年前から英語教育が始まり、韓国では13年目となる。これだけでも英語教育には小学校のある時期にふさわしい方法で行うことが必要なのだが、結局、「どうするか」という具体的な導入として、「現在の小学校の先生に、研修を行い、プリントなどで行える簡単な内容として導入する」というものになりそうなのだというお話。これはいかがなものか、ということなのだが、それは複数の意味で問題があると思われる。
つまり、小学校の先生は英語を教えるために先生になっているのではないのであって、教えるという部分でも、その先生の負担という意味でもあまり得策ではないように思う。
それになぜか、「教員免許の有無」に文科省がこだわるわりには、「英語教育の専門知識やスキル」ということは問題にされていない。
別に小学校の先生に英語が教えられないといっているのではなく、子供に適切に英語を教えることができる能力をもっている人がいるならば、非常勤講師などで導入すればよいのに、それを選択肢にいれていないことが問題であるように思う。
そして現に、子供たちに英語を教えることに、小学校の先生たちは「不安」であると50%以上が回答していることが明らかになった。
たとえばアルクなどが小学校英語指導資格などを扱っているがこうした資格者に担当させることは現段階では考えていないという。

しかし、苦手で英語を教えるのが苦手だと感じている人から、基礎や導入部分を教わるのでは、現在の中学英語の基礎よりもさらに英語ぎらいが広がる可能性もある。
勉強したいと思う意欲は、教化でなく、教授によって開かれる。という教育の原則にも適っていないように思われる。

英語は音声言語だから、そもそもプリントなどを使って、発音・発語を伴わない方法では初期教育としてもあまり有益な部分はないように感じられる。

そもそも、英語教育によって何を目指すのかという部分が曖昧である。

一方では、アカデミックライティングなど、英語で論文がかけるというレベルが必要とされているのに対して(そのため中国では高校の理数は英語で行われているところが多い)もあまり有効ではないし、それよりも、やはりコミュニケーションできる、つまり話せるという意味での「理解」が必要と思われる。
どこか想定している目標がとても半端なのだ。

国外にいくと、日本語は読んだり書いたりできないが、仕事のために、話す・聞くことは大変にうまいという人に沢山出会う。そして大抵かれらは(たった)6ヶ月くらい日本語を勉強したと答える。つまり、英語で論文を書く、ビジネス文書を書くというレベルでないならば、一年勉強して、「話す」「やりとりできる」という目標を設定すればよいのではないだろうか。
物事には様々な段階があるのだから、どこを目標にするのかが明確でなければ、学ぶほうも曖昧な気持ちになるだろう。

また英語は便利な原語だが、母国語は日本語であることも忘れてはならないと感じる。多言語性と、母国語での理解や表現は切り離せない。
(バイリンガル教育でもっとも重視されるのは、「本当に」自分の感情や心理状態を表せる言語としての母国語を「失って」しまうことだそうだ。)

様々な情報がでているが、結局のところ、専任講師やスタッフを雇い入れることは予算的に難しいということも原因らしい。
改めて言うまでもないが、教育とは人間形成であって、現在のだけの問題でもなく、自分の子供だけを問題にしていればよいという問題でもない。日本では、教育は利権がないために、ほどんど専門的に改善しようという議員もいないと聞く。

勿論教育の本質は私的なものだから、各々がどうするかは考えることなのだが、制度として、適材適所の考えが実践されにくい現状が続いていることは残念な思いがする。そして適切な予算がつけられるようにならないのだろう。

公教育が現在なにをもっとも重視しているのか、疑問に思うことがある。
日本とドイツは、イギリス型教育とは異なる「公教育」を行ってきたが、その理念の原型にある、1)自立と自律(理解と判断、義務と権力の行使)2)現在の社会を持続させるための人材育成 にもどこかずれていっているように思うのだが...

教育にはその子供の特質を「取り出して育てる」という役割と意味がある。
これは学校だけでは無理で、本来的には学校と私的教育(家中心)とによって成立つといわれているが、このあたりの問題はまた別の機会に書きたいと思う。

とにかく、より良い状況と実践に近づくことが必要であり、今後もニュースや情報は集めていきたいと感じた調査だった。