メアリ・ルノーは、オクスフォードで文学を学んだ英国作家。ギリシア悲劇を主題にした小説を書き、映画「アレクサンダー」も彼女の三部作品がベースとして反映されている。
メアリ・ルノーが書くアレクサンダーの台詞には、世界国家(コスモポリタン)思想がとてもよく現れている。映画ではそれほど主題にされていなかったように思うし、むしろ、西洋的基盤を継承する「近代市民社会」の視点が反映しているので、アレクサンダーの言動はネガティブなものとして描かれている。この小説を読んでいて、サファブィー朝やオスマントルコでの人材登用が、出自や民族にそれほどとらわれずに能力主義だったのは、アレクサンダー時代のペルシアとのかかわりなどが由来しているヘレニズムの影響なのかもしれないと感じた。
ルノーの小説では両義性をとらえている。
この話はおそらく、映画、、よりもたとえばBBC作成「ROME」のようなシリーズとして描いたほうが生きてくると感じた。
歴史を知ることは現在を認識するためでもあり、過去を知ることは現在とその先の方向性の視野を広くできる。過去を知るときに、もっとも気をつける必要があるのは、現代的な価値観や合理性で価値判断しないことだ。それは事実を歪めた認識になり、その時代の人々の考えや価値観に近づくことを妨げてしまう。
メアリ・ルノーの小説が映画「アレキサンダー」の原作だと知ったのは(数ヶ月前に書籍をお薦めしてもらい)割と最近のことなのだけれども、それを読むと映画中では判然としなかった彼の遠征に含まれる思想がよく表されている。
形の上で征服や遠征といわれているが、彼が成し遂げたいのは「融合」なのだ。アレキサンダーが目指したコスモポリタニズム・世界国家の構想は一部ローマで実現されることになるが、キリスト教単一的な支配が強まるとその基盤は失われていく。
(この失われた基盤や学問はアレキサンドリアやビザンツ帝国で培われていく)
現在でも、オキシデント(西洋)から観た東洋(オリエント)は「征服されるべきもの」という認識が張り付いており、それは時々、「ハーレムの女たち」などのような題材で「征服されるべき女性イメージとしての東洋」として描かれたりもする。このことは、「オリエンタリズム」(サイード)で指摘されている通りである。
アレキサンドロスは、民族の融合と世界国家を夢見ており、実行した人である。
「私はアジアで婚姻するべきだと思っていた」勝者としての支配ではなく、世界国家のために民族の際を和睦(婚姻)によって同族とすることを望んだ。だが、彼らの部下は、納得できない。やはり、勝者が敗者を支配するべきだと考えていた。だがアレキサンダーは勝者としての支配という視野ではなかった。当時の彼の周囲にいた人々はそれが理解できなかった。
部下は当然ながら、王の妃はマケドニアの高位にある自分たちの娘こそがふさわしいと考えていた。次の王はマケドニア人であり自分たちの子孫がアジア人との混血の子孫を王としなければならないのは耐え難いと思っていたのだが、そうした構造は合理的な支配構造は生まれない。
『アレクサンダー』(映画)については立花隆氏のテキスト(http://moura.jp/scoop-e/mgendai/200503/)が大変参考になった。特に、アレクサンダーはプロメテウスだったというキーワードの指摘、メディア、ヘラクレス、アキレスと英雄と神話の悲劇の象徴性をアレクサンダーと重ね合わせて、映画の解読を行っているところは重要だと思う。
しかし、ストーン監督の描き方として(あるいはプトレマイオスに語らせている評価のさわりとして)やはり国家から離れたときに人間像としてのアレクサンダーを観るべきなのでは思ってしまう。現在のアメリカに重ね合わせた解釈は適当ではないように思う。
アレキサンダーのコスモポリタニズムの基盤を表している台詞がルノーの小説にはいくつもある。「最果ての地に住む未知の民族であろうと、長所があればそれに敬意を表さねばならぬ。ましてやそれを軽んじてはならぬ」こうした部分がアメリカのプロテスタント原理主義にはあるだろうか?
ところでこの映画の冒頭では、ウェルギリウスの「アエネーイス」(Aeneis)が提示される。
「アエネーイス」は、ホメロス「オデュッセイア」をモチーフにして書かれたローマ・アウグストゥス時代のラテン文学。ウェルギリウスもまた旅の途中で病死する。ウェルギリウスの主題は、ダンテに引き継がれ、定点を失って流浪する人の精神性を書き残している。ウェルギリウスは「アエネーイス」を死後焼くように命じたが、アウグストゥスは整然の約束どおり出版させた。この書物は11年にわたって12巻書かれており、ダンテの「神曲」もまた長い追放期間に書かれた作品である。
アレクサンドロスも未完の業の途中で病死し、やはり12年という年月を「故郷」を持たないまま旅を続けた。映画では故郷”Home”を常に捜し求めるアレクサンドロスが描写されていた。「アレクサンドリアが自分にとっての故郷だ」というプトレマイオスに対して、「私には解らない」と応えるシーンが象徴的だった。
ブルクハルトは世界主義(コスモポリタニズム)を「個人主義の最高段階のひとつだと言っている。ダンテは「私の故郷はおよそ世界である」と言い「私はどこにいても、太陽や星の光が眺められないでしょうか。どこにいても高貴な真理について、瞑想できないでしょうか」と書いている。こうしたコスモポリタニズムは、ナショナリズムの対極にあるように思う。民族と言語による統一と他者性の排除は19世紀の植民地主義と20世紀の第二次世界大戦やジェノサイドにも関わる。
おそらく、作者ルノーはこうした民族や言語や人種による全体性や他者性の排除を問題にしながら、アレクサンダーのコスモポリタニズムを捉えて描いている。
オリエントからギリシア、ローマの支配や価値観、宗教性と東方文化、中世からオスマン朝の特性を思い出しながら興味深く読める小説となっている。
アレクサンダーは、王継承権を問題にされたときに、「純粋なマケドニアの世継ぎか否か」を常に問われて、純血純粋なマケドニア人というも出自にこだわる習慣を改めたいと思っていたのではないだろうか。
部族社会はアジアだけでない。というよりもむしろ、血筋や地縁、階級の出自に拘っていたのはむしろ西洋である。(ルノー自身は南アフリカで反アパルトへイト活動も行っている)
和睦と婚姻による結合でしか統合・調和できないと考えていたのは果たして「ばかげたこと」なのだろうか?私はそうは思わない。アレクサンダーは、勝者による敗者の支配、出自による蔑視といった慣習、他者の排除などを改めたいと思っていたのだろう(またはそれでは真に統一はできないとわかっていた。この支配と寛容は後のローマ帝国で一部実現する。)
・・・そうしたことは、自己保存のみを目的にして、自らに対して保守的な人には理解しがたいのかもしれない。アレクサンダーの目指した民族の融合や調和による統一と支配の基盤にあったは、「個人の発見」だったのではないか。
それと同時にこの映画で思うことは、洋の東西の見えない境界線があるということ。
「レバノンの白い山」で山形孝夫先生がシリアがひとつの境界線であるといっていたが、それは東の境界線はおそらくアレクサンダーがこれ以上進めなかった、つまりどうしてもギリシア的な規範や価値観を受け入れられなかったインドの地なのかもしれない。もちろん、ヘレニズムはガンダーラ美術に影響を与えているのでそういった意味では伝わっている。が、基本的な世界認識の構造が違うのかもしれない。これは別に、ギリシアをインドが理解できないということでは全くなくて、異なる構造をもっているのではないかという疑問が起こる。形式的には共通しているが、本質が変容しているのではないか...
そういったことを含めて映画を見直すと面白かったが、「アレクサンダー」(映画)では後半のアレクサンダーが何を考えているかが、台詞がはしょられている部分が多く、そのせいかわかりにくいと感じる人が多いのかもしれない。私も劇場版をDVDで観ただけでは気が付かなかったことが多々ある。
テーマはアクションでは表現されない映画の要素だから、重層的なテーマは見る人によって受け取られたり、見落とされたりする。立花隆氏が3回半みた後にやっとわかったと書いていたが、その通りである。そういった映画は完成度とテーマの深さに対して、概して評価が低いのも最近の傾向かもしれない。
ルノーの小説では、ペルシアの考えやマケドニア/ギリシアの考え方や価値観がバゴアスとアレキサンダーによって語られる部分が多い。
だからこのシーンが欠落していくと、人と王としてのアレクサンダーが何を考え、何をしようとしているのか、また王の苦悩とともに何を成し遂げているのかが解りくにくなってしまう。映画ではすべてが「英語」で語られているのだが、言語の多元性も実は重要だと思う。高位のマケドニア人や高位のペルシア人はギリシア語を解する。ダレイオスもギリシア語に通じており、バゴアスもギリシア語ができる。
兵たちは、マケドニア語を使い、ロクサネも宮廷のペルシア語とは違うペルシア語を使う。
バビロンのシーンで、ペルシア語の音楽的な響きが聞けたら、議論の場でギリシア語が聞けたらどんなにいいかと(無理な)希望を抱いてしまう。
ルノーの小説は英国では72年に出版されたロングセラーで、第二部だけが邦訳(堀たほ子さんによる翻訳)されて中央公論から出版されている。UK-Japan 2008 WEBに記事掲載

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The Nature of Alexander
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The Nature of Alexanderはメアリ・ルノーによるアレクサンドロスの評伝。
Fire from Heavenの扉にあるテキストによると1983年にケープタウンでルノーは亡くなった。オリエント史からローマに至る視点で眺めるとアレキサンダーが行ったことと意図の先行性と意義が解るように思う。
何度かblog等でも書いていますがオリエント史や神話伝承については小川英雄先生の本がとても面白いので、ローマやギリシアとの繋がりの面でもお薦め。

ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書)
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世界の歴史 (4)
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メアリ・ルノーが書くアレクサンダーの台詞には、世界国家(コスモポリタン)思想がとてもよく現れている。映画ではそれほど主題にされていなかったように思うし、むしろ、西洋的基盤を継承する「近代市民社会」の視点が反映しているので、アレクサンダーの言動はネガティブなものとして描かれている。この小説を読んでいて、サファブィー朝やオスマントルコでの人材登用が、出自や民族にそれほどとらわれずに能力主義だったのは、アレクサンダー時代のペルシアとのかかわりなどが由来しているヘレニズムの影響なのかもしれないと感じた。
ルノーの小説では両義性をとらえている。
この話はおそらく、映画、、よりもたとえばBBC作成「ROME」のようなシリーズとして描いたほうが生きてくると感じた。
歴史を知ることは現在を認識するためでもあり、過去を知ることは現在とその先の方向性の視野を広くできる。過去を知るときに、もっとも気をつける必要があるのは、現代的な価値観や合理性で価値判断しないことだ。それは事実を歪めた認識になり、その時代の人々の考えや価値観に近づくことを妨げてしまう。
メアリ・ルノーの小説が映画「アレキサンダー」の原作だと知ったのは(数ヶ月前に書籍をお薦めしてもらい)割と最近のことなのだけれども、それを読むと映画中では判然としなかった彼の遠征に含まれる思想がよく表されている。
形の上で征服や遠征といわれているが、彼が成し遂げたいのは「融合」なのだ。アレキサンダーが目指したコスモポリタニズム・世界国家の構想は一部ローマで実現されることになるが、キリスト教単一的な支配が強まるとその基盤は失われていく。
(この失われた基盤や学問はアレキサンドリアやビザンツ帝国で培われていく)
現在でも、オキシデント(西洋)から観た東洋(オリエント)は「征服されるべきもの」という認識が張り付いており、それは時々、「ハーレムの女たち」などのような題材で「征服されるべき女性イメージとしての東洋」として描かれたりもする。このことは、「オリエンタリズム」(サイード)で指摘されている通りである。
アレキサンドロスは、民族の融合と世界国家を夢見ており、実行した人である。
「私はアジアで婚姻するべきだと思っていた」勝者としての支配ではなく、世界国家のために民族の際を和睦(婚姻)によって同族とすることを望んだ。だが、彼らの部下は、納得できない。やはり、勝者が敗者を支配するべきだと考えていた。だがアレキサンダーは勝者としての支配という視野ではなかった。当時の彼の周囲にいた人々はそれが理解できなかった。
部下は当然ながら、王の妃はマケドニアの高位にある自分たちの娘こそがふさわしいと考えていた。次の王はマケドニア人であり自分たちの子孫がアジア人との混血の子孫を王としなければならないのは耐え難いと思っていたのだが、そうした構造は合理的な支配構造は生まれない。
『アレクサンダー』(映画)については立花隆氏のテキスト(http://moura.jp/scoop-e/mgendai/200503/)が大変参考になった。特に、アレクサンダーはプロメテウスだったというキーワードの指摘、メディア、ヘラクレス、アキレスと英雄と神話の悲劇の象徴性をアレクサンダーと重ね合わせて、映画の解読を行っているところは重要だと思う。
しかし、ストーン監督の描き方として(あるいはプトレマイオスに語らせている評価のさわりとして)やはり国家から離れたときに人間像としてのアレクサンダーを観るべきなのでは思ってしまう。現在のアメリカに重ね合わせた解釈は適当ではないように思う。
アレキサンダーのコスモポリタニズムの基盤を表している台詞がルノーの小説にはいくつもある。「最果ての地に住む未知の民族であろうと、長所があればそれに敬意を表さねばならぬ。ましてやそれを軽んじてはならぬ」こうした部分がアメリカのプロテスタント原理主義にはあるだろうか?
ところでこの映画の冒頭では、ウェルギリウスの「アエネーイス」(Aeneis)が提示される。
「アエネーイス」は、ホメロス「オデュッセイア」をモチーフにして書かれたローマ・アウグストゥス時代のラテン文学。ウェルギリウスもまた旅の途中で病死する。ウェルギリウスの主題は、ダンテに引き継がれ、定点を失って流浪する人の精神性を書き残している。ウェルギリウスは「アエネーイス」を死後焼くように命じたが、アウグストゥスは整然の約束どおり出版させた。この書物は11年にわたって12巻書かれており、ダンテの「神曲」もまた長い追放期間に書かれた作品である。
アレクサンドロスも未完の業の途中で病死し、やはり12年という年月を「故郷」を持たないまま旅を続けた。映画では故郷”Home”を常に捜し求めるアレクサンドロスが描写されていた。「アレクサンドリアが自分にとっての故郷だ」というプトレマイオスに対して、「私には解らない」と応えるシーンが象徴的だった。
ブルクハルトは世界主義(コスモポリタニズム)を「個人主義の最高段階のひとつだと言っている。ダンテは「私の故郷はおよそ世界である」と言い「私はどこにいても、太陽や星の光が眺められないでしょうか。どこにいても高貴な真理について、瞑想できないでしょうか」と書いている。こうしたコスモポリタニズムは、ナショナリズムの対極にあるように思う。民族と言語による統一と他者性の排除は19世紀の植民地主義と20世紀の第二次世界大戦やジェノサイドにも関わる。
おそらく、作者ルノーはこうした民族や言語や人種による全体性や他者性の排除を問題にしながら、アレクサンダーのコスモポリタニズムを捉えて描いている。
オリエントからギリシア、ローマの支配や価値観、宗教性と東方文化、中世からオスマン朝の特性を思い出しながら興味深く読める小説となっている。
アレクサンダーは、王継承権を問題にされたときに、「純粋なマケドニアの世継ぎか否か」を常に問われて、純血純粋なマケドニア人というも出自にこだわる習慣を改めたいと思っていたのではないだろうか。
部族社会はアジアだけでない。というよりもむしろ、血筋や地縁、階級の出自に拘っていたのはむしろ西洋である。(ルノー自身は南アフリカで反アパルトへイト活動も行っている)
和睦と婚姻による結合でしか統合・調和できないと考えていたのは果たして「ばかげたこと」なのだろうか?私はそうは思わない。アレクサンダーは、勝者による敗者の支配、出自による蔑視といった慣習、他者の排除などを改めたいと思っていたのだろう(またはそれでは真に統一はできないとわかっていた。この支配と寛容は後のローマ帝国で一部実現する。)
・・・そうしたことは、自己保存のみを目的にして、自らに対して保守的な人には理解しがたいのかもしれない。アレクサンダーの目指した民族の融合や調和による統一と支配の基盤にあったは、「個人の発見」だったのではないか。
それと同時にこの映画で思うことは、洋の東西の見えない境界線があるということ。
「レバノンの白い山」で山形孝夫先生がシリアがひとつの境界線であるといっていたが、それは東の境界線はおそらくアレクサンダーがこれ以上進めなかった、つまりどうしてもギリシア的な規範や価値観を受け入れられなかったインドの地なのかもしれない。もちろん、ヘレニズムはガンダーラ美術に影響を与えているのでそういった意味では伝わっている。が、基本的な世界認識の構造が違うのかもしれない。これは別に、ギリシアをインドが理解できないということでは全くなくて、異なる構造をもっているのではないかという疑問が起こる。形式的には共通しているが、本質が変容しているのではないか...
そういったことを含めて映画を見直すと面白かったが、「アレクサンダー」(映画)では後半のアレクサンダーが何を考えているかが、台詞がはしょられている部分が多く、そのせいかわかりにくいと感じる人が多いのかもしれない。私も劇場版をDVDで観ただけでは気が付かなかったことが多々ある。
テーマはアクションでは表現されない映画の要素だから、重層的なテーマは見る人によって受け取られたり、見落とされたりする。立花隆氏が3回半みた後にやっとわかったと書いていたが、その通りである。そういった映画は完成度とテーマの深さに対して、概して評価が低いのも最近の傾向かもしれない。
ルノーの小説では、ペルシアの考えやマケドニア/ギリシアの考え方や価値観がバゴアスとアレキサンダーによって語られる部分が多い。
だからこのシーンが欠落していくと、人と王としてのアレクサンダーが何を考え、何をしようとしているのか、また王の苦悩とともに何を成し遂げているのかが解りくにくなってしまう。映画ではすべてが「英語」で語られているのだが、言語の多元性も実は重要だと思う。高位のマケドニア人や高位のペルシア人はギリシア語を解する。ダレイオスもギリシア語に通じており、バゴアスもギリシア語ができる。
兵たちは、マケドニア語を使い、ロクサネも宮廷のペルシア語とは違うペルシア語を使う。
バビロンのシーンで、ペルシア語の音楽的な響きが聞けたら、議論の場でギリシア語が聞けたらどんなにいいかと(無理な)希望を抱いてしまう。
ルノーの小説は英国では72年に出版されたロングセラーで、第二部だけが邦訳(堀たほ子さんによる翻訳)されて中央公論から出版されている。UK-Japan 2008 WEBに記事掲載

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The Nature of Alexanderはメアリ・ルノーによるアレクサンドロスの評伝。
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何度かblog等でも書いていますがオリエント史や神話伝承については小川英雄先生の本がとても面白いので、ローマやギリシアとの繋がりの面でもお薦め。

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