フェルメール展に行ってきました。
7点来日−ということでしたが、特に目に止まったのは「手紙を読む女」
あえて解説では触れないことにしているのかもしれないが、フェルメールは風俗がのスタイルを用いてはいるが、風俗そのものを描いているわけではない。
というのがフェルメールの絵画の魅力の理由だと考えている。
「画家のアトリエ」も本来「絵画芸術」つまり七つの自由学芸の寓意画であって、場面やストーリーを描写した絵ではない。「地理学者」「天文学者」といった絵も、学者を描いたわけでなく、「地理学」「天文学」という概念、寓意なのである。
古典主義や新古典主義ではギリシア・ローマの擬人像という形で描かれたテーマをフェルメールは、フランドル・デルフトの当世風俗の日常の中で表した。
日常性の中に舞台設定されながら極めて静謐でかといって自然な普遍性を湛えているのは見事というほかない。
また光の使い方をフェルメールの特質にあげる場合も多いが、今回はその前身ともいえるフランドル画家の作品が来日していてとても興味深いものがあった。
北方では、絵画に描かれた光といえば、蝋燭、ランプなどの人工の灯り(ホントホルスト等)であり、それをいかに描くべきかが問題だったし技術のみせどころであった。
自然光は人工の灯りに対して、超自然的な光、つまり超越性を意味する。
北方では自然光よりも人工の灯りに意味を見出して重視したのがプロテスタントの特質と関係があるのかどうかは知りたいテーマなのだが、フェルメールの時代では、室内を自然光で満ちた空間として描くのである。
光が差し込んでくる方向と影、その光。
この画家がプロテスタント的な風土と気質の中で重視していたものは、おそらく自ら描く必要があったものなのだろうと思う。それだけ画家のテーマとして重視されていて、それを描くだけの技術があったのだろうと思える。
会場にフェルメール作品の現物パネルがあり、見たことがない作品の大きさを見られたのはよかった。
またアンケートがあったのだが、私が最も見たい「天文学者」「地理学者」の絵の認知度が0.8%という結果があり、フェルメールの作品に求めているものとのギャップを感じてしまった。もっとも傑作二点は「ブーム」以前に来日して見られているのでその点はいいのだが。パネルにもなっていたが天秤を持っている女性
が描かれている絵が素晴らしい。「真珠を量る女」というタイトルが付けられているようだが、これもおそらくは論理学(天秤が描かれている)か「審判」の寓意画なのだろう。天秤には何も乗せられていないらしい...
「好き」という個人の「快さ」のために絵画をみるのもいいのだが、美術史的な解釈を多少はフェルメール展では扱ったらどうだろうかと毎回思ってしまう。
方法を知っても誰にでも可能でないものがある。科学は全てを「客観視」することで真実を言おうとするのだろうが、それは平均的なモデルを解釈するためのものであり、私たちがある作品を目にした時に感じるもの、それに迫ることはできない。
描かれているのはモノではない。コトでもない・・・・優れた作品ほどそうなのではないだろうか。もっとも私たちが「かんじるもの」それさえも、「科学」は消去しようとする。それは間違いではないのかもしれないが、それによって何がもたらされるのだろう。
話が逸れたが、すくなくとも、映画のストーリーのような描写をフェルメールは念頭においてはいないのだから。作家に近づいて見ることが、作家への敬意であると思う。

追記:この時に書いていた「地理学者」「天文学者」はなんとこの数年に来日公開された。
何事も書いておくと実現することも多々あるものだと、感じたので、さらに今回追記しておくと次はぜひ「真珠を量る女(論理学または審判の寓意とも読み解ける)なぜかといえば、真珠を量る女というタイトルなのだが(英語風に言えば)しかしながら、この天秤には真珠が乗っていないのだ...
7点来日−ということでしたが、特に目に止まったのは「手紙を読む女」
あえて解説では触れないことにしているのかもしれないが、フェルメールは風俗がのスタイルを用いてはいるが、風俗そのものを描いているわけではない。
というのがフェルメールの絵画の魅力の理由だと考えている。
「画家のアトリエ」も本来「絵画芸術」つまり七つの自由学芸の寓意画であって、場面やストーリーを描写した絵ではない。「地理学者」「天文学者」といった絵も、学者を描いたわけでなく、「地理学」「天文学」という概念、寓意なのである。
古典主義や新古典主義ではギリシア・ローマの擬人像という形で描かれたテーマをフェルメールは、フランドル・デルフトの当世風俗の日常の中で表した。
日常性の中に舞台設定されながら極めて静謐でかといって自然な普遍性を湛えているのは見事というほかない。
また光の使い方をフェルメールの特質にあげる場合も多いが、今回はその前身ともいえるフランドル画家の作品が来日していてとても興味深いものがあった。
北方では、絵画に描かれた光といえば、蝋燭、ランプなどの人工の灯り(ホントホルスト等)であり、それをいかに描くべきかが問題だったし技術のみせどころであった。
自然光は人工の灯りに対して、超自然的な光、つまり超越性を意味する。
北方では自然光よりも人工の灯りに意味を見出して重視したのがプロテスタントの特質と関係があるのかどうかは知りたいテーマなのだが、フェルメールの時代では、室内を自然光で満ちた空間として描くのである。
光が差し込んでくる方向と影、その光。
この画家がプロテスタント的な風土と気質の中で重視していたものは、おそらく自ら描く必要があったものなのだろうと思う。それだけ画家のテーマとして重視されていて、それを描くだけの技術があったのだろうと思える。
会場にフェルメール作品の現物パネルがあり、見たことがない作品の大きさを見られたのはよかった。
またアンケートがあったのだが、私が最も見たい「天文学者」「地理学者」の絵の認知度が0.8%という結果があり、フェルメールの作品に求めているものとのギャップを感じてしまった。もっとも傑作二点は「ブーム」以前に来日して見られているのでその点はいいのだが。パネルにもなっていたが天秤を持っている女性
が描かれている絵が素晴らしい。「真珠を量る女」というタイトルが付けられているようだが、これもおそらくは論理学(天秤が描かれている)か「審判」の寓意画なのだろう。天秤には何も乗せられていないらしい...
「好き」という個人の「快さ」のために絵画をみるのもいいのだが、美術史的な解釈を多少はフェルメール展では扱ったらどうだろうかと毎回思ってしまう。
方法を知っても誰にでも可能でないものがある。科学は全てを「客観視」することで真実を言おうとするのだろうが、それは平均的なモデルを解釈するためのものであり、私たちがある作品を目にした時に感じるもの、それに迫ることはできない。
描かれているのはモノではない。コトでもない・・・・優れた作品ほどそうなのではないだろうか。もっとも私たちが「かんじるもの」それさえも、「科学」は消去しようとする。それは間違いではないのかもしれないが、それによって何がもたらされるのだろう。
話が逸れたが、すくなくとも、映画のストーリーのような描写をフェルメールは念頭においてはいないのだから。作家に近づいて見ることが、作家への敬意であると思う。

追記:この時に書いていた「地理学者」「天文学者」はなんとこの数年に来日公開された。
何事も書いておくと実現することも多々あるものだと、感じたので、さらに今回追記しておくと次はぜひ「真珠を量る女(論理学または審判の寓意とも読み解ける)なぜかといえば、真珠を量る女というタイトルなのだが(英語風に言えば)しかしながら、この天秤には真珠が乗っていないのだ...
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