文書や文字で書き残されたものは「資料」として残り参照される。
しかし、文字によって文化を伝える伝統がない民族もある。
文字の記述で残すことのは重要だが、残らないもののほうが遥かに多い「事実」でもあり、少なくとも側面にはなる。その断片的な側面によってしか内実は構成できないのではないかと思う事も多い。
歴史もまたディフォルメした事実としてのみ扱えないと思う。
(ブームによるディフォルメにも危惧を覚える)
そのようなことを思うことがあるのだが、オーラル・ヒストリーという研究があることを知った。興味がある方はどうぞと薦められたので、URLと内容を紹介しておきたいと思う。
http://joha.jp/?eid=93
オーラルヒストリーと和解
ジェノサイドの認識、加害者と被害者の和解は文書の上では行われるが、こころの面ではほんとうに和解が成り立つのか、成り立つとしたらそれはどのようなことなのか、また和解を前提とすることが不可能な被害もあるのではないだろうか。
死者との和解、・・・この有末先生の言葉の重みを感じる。
知られていない事実のほうが多い。
知っていることや読んだものについても断片にしかすぎない。
同時代に生きていても完全に認識できないことが多い。
しかし、実際にそこに居た人々にか分からないこともある。
私自身は、祖父母が第二次世界大戦に関わった世代である。直接体験を聞くことは多かったほうだと思う。祖父は硫黄島に行き、辛くも戦闘になるまえに負傷により帰還した体験があり、祖母は東京大空襲を体験した。また義理の父は疎開中に太平洋沖で両親ののった民間船が攻撃されてそのまま沈没し亡くなったという。
こうした経験は書き残されないので、残らない。
祖父が亡くなったときに、そのことを思った。
被害者としての体験、そしてその体験をどう扱うのかということもこの報告会ではテーマにしているとのことだった。何ができるのか、それは忘却できない問題であると思う。被害者と加害者(その図式も固定的にとらえるべきではないのかもしれない、なにがそうさせたのか)そして、その事実を受け止めること。
最近よく、いかに他者の問題を自分の問題として考えることができるのか、そんなことを思う。知らないことを知るということでも自分がなにか役割の片鱗を果たせるのではないだろうか、今生きている者が、死者に対して一片でも「奢り」にならないように、共有者となることはできるのだろうかと思いながら、時間をつくって聞きにいけたら良いと願っています。
熊野の写真と現地で聞いたお話についてまとめたいと思いながらも、PCが不調です。。
しかし、文字によって文化を伝える伝統がない民族もある。
文字の記述で残すことのは重要だが、残らないもののほうが遥かに多い「事実」でもあり、少なくとも側面にはなる。その断片的な側面によってしか内実は構成できないのではないかと思う事も多い。
歴史もまたディフォルメした事実としてのみ扱えないと思う。
(ブームによるディフォルメにも危惧を覚える)
そのようなことを思うことがあるのだが、オーラル・ヒストリーという研究があることを知った。興味がある方はどうぞと薦められたので、URLと内容を紹介しておきたいと思う。
http://joha.jp/?eid=93
オーラルヒストリーと和解
ジェノサイドの認識、加害者と被害者の和解は文書の上では行われるが、こころの面ではほんとうに和解が成り立つのか、成り立つとしたらそれはどのようなことなのか、また和解を前提とすることが不可能な被害もあるのではないだろうか。
死者との和解、・・・この有末先生の言葉の重みを感じる。
知られていない事実のほうが多い。
知っていることや読んだものについても断片にしかすぎない。
同時代に生きていても完全に認識できないことが多い。
しかし、実際にそこに居た人々にか分からないこともある。
私自身は、祖父母が第二次世界大戦に関わった世代である。直接体験を聞くことは多かったほうだと思う。祖父は硫黄島に行き、辛くも戦闘になるまえに負傷により帰還した体験があり、祖母は東京大空襲を体験した。また義理の父は疎開中に太平洋沖で両親ののった民間船が攻撃されてそのまま沈没し亡くなったという。
こうした経験は書き残されないので、残らない。
祖父が亡くなったときに、そのことを思った。
被害者としての体験、そしてその体験をどう扱うのかということもこの報告会ではテーマにしているとのことだった。何ができるのか、それは忘却できない問題であると思う。被害者と加害者(その図式も固定的にとらえるべきではないのかもしれない、なにがそうさせたのか)そして、その事実を受け止めること。
最近よく、いかに他者の問題を自分の問題として考えることができるのか、そんなことを思う。知らないことを知るということでも自分がなにか役割の片鱗を果たせるのではないだろうか、今生きている者が、死者に対して一片でも「奢り」にならないように、共有者となることはできるのだろうかと思いながら、時間をつくって聞きにいけたら良いと願っています。
熊野の写真と現地で聞いたお話についてまとめたいと思いながらも、PCが不調です。。
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