戦後日本におけるアメリカニズムと権力
http://todai.tv/contents/kokai/yoshimi_shunya/001/index.html
吉見先生の公演動画が(やっと)公開されてました。
本当の権力は透明で、無意識なままに人はコントロール下に置かれる。
過半数以上の人をどのように(無意識に)コントロールできるか、あたかも自分の自由意志によって行動していてそれが充実感でもあるように感じられるような方法でコントロールできるか。ということをこの話や本を読むと思うことが多いです。
公演の内容は2007年10月24日のこのブログのログにメモしてあります。
モダン・ガールという言葉で(それまではメディアによって)位置づけられていた日本女性のイメージは「家電を使いこなす奥様」というアイデンティティとなり、(戦争には負けたがその「アメリカが認めた日本の技術力と家電」)というアイデンティティが日本の企業と男性の存在の心地よさになったという点。天皇とアメリカの「結婚」「ご成婚メディア」・・・次第に「占領軍アメリカ」という暴力性は透明になり、日本人の戦後のアイデンティティとなって、イラク戦争時まで「親米意識」を形成するまでになっている。
都市研究・社会学の目線からは、旧日本軍の施設があった場所がそのまま米軍に所有されたことが現在の都市と関連しているという指摘が改めて興味深い。日比谷線沿線を辿ればそれは明確である。
現在、表象から本質を捉えるという方法は社会学が用いている。(というよりも社会学だけが一部この方法を用いてよいことになっているのではないか。あとは西洋美術の主題と表層解読は伝統的に認められている。私は時代に逆行していると言われても、本質は内在していると思うので、吉見先生の考え方は興味深いのです)
哲学、特に現代哲学というものではこの方法は用いないことになっている。現象は本質から外側に現れ出たものと捉える方法をヒューム以降の流れでは由とはしない。しかし、表象をそのままの意味だけで捉えるという方法では、人と世界を結びつけることができない(と私は思っている)
現象学的還元の方法はやはり現実の問題を捉える際に、重要だと思う。
バジュラールが言ったように、火を酸化過程としてとらえるというよりも、人は「浄化」と「熱情」のイメージとして認識することで、人は世界に結びつけられる。結びつけられるというのは、了解するということだ。
話が逸れたが、吉見俊哉氏の講演がやはり見直してもとても面白い。
講演に参加した直後から、はやくWEBでもう一度聞きたいと思っていた。勿論「親米と反米」(岩波新書)も読み、何人か、機会があると薦めている本でもある。
PDFで、パワーポイントの資料もUPされている。
吉見氏はディズニーランドの分析もしている方なのだが、このディズニーランドの隆盛というのも80年代からの消費と公共性の喪失、私化の現象とあてはまる部分がある。
日本は広場や公園という「公共」の空間を創る政策がとても貧弱なことと、更に住宅事情がとてもわるい、家(場所)の所有と共にローン地獄になるという状況になっている。それで、どちらの居心地のよさと、非日常的体験できる場所としての「ディズニーリゾート」のニーズが在る、と思うことがある。
ディズニーシーのポンテベッキオやメディテレーニアン・ハーバーを夕方歩くときの「心地よさ」は現代日本の都市が造り出せなかった空間だといつも思ってしまう。
(寧ろ、以前は街中で得られた共有や空間が、消失したといったほうがよいのかもしれない)
消費とレジャーの場であるTDRなのだが、エンターテイメントと風景の共有は不思議と「共有」という感覚も味わえることなのだろうと思う。
TDRのニーズは、ある程度、日本の社会に欠落していて補いようがないものや価値の裏返しである。税金を払ってもまるで得られない充実のために「パスポート」を購入し、「住民」となりに行くのである。(ヨーロッパにはTDR的なニーズはない)
50年前以前の記憶の風化とも無縁ではなく、アイデンテティの喪失・忘却を思う。しかしそれは遡れば維新期まで遡る話で、閑散とした江戸城跡などに行けば自然に思うことでもある。(東京は江戸歴史地区のような場所を残せなかった。明治政府を創った薩長土肥という江戸文化や日本の文化に対する無知と価値観のなさがなぜもっと問題にされないのだろう?そして、先日の新聞記事にあった、圧倒的にやはりその地域出身の首相が多いという事実も、合理化と文化レベルが迷走するのと無関係ではないと思う。世界遺産に認定された奈良や熊野へいくと、明治維新の文化的破壊者としての被害と実感をいつも聞くことが多いが、私も東京(江戸)という場所と時代に由来があるので、その思いは強い。本来性の忘却は、本当の意味で何の進展ももたらさない。ものごとの改良や保存、発展の基盤に関わるからだ。)
こんなことを書くとTDR批判のようだがそういう事ではなくて(現に今年ももう2回ほどTDSに行ってしまった)だが、色々と思うことが増えたということは確かでもある。
親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書 新赤版 1069)
家リンクなどにも参加させて貰っておりますが、私は日本の無意識のコントロールというのは、持ち家と老後不安の2点なのだと思います。皆その為に不満や不安を我慢しつつも、過剰な個人的消費に没頭するのかも、と思ってしまいます。
http://todai.tv/contents/kokai/yoshimi_shunya/001/index.html
吉見先生の公演動画が(やっと)公開されてました。
本当の権力は透明で、無意識なままに人はコントロール下に置かれる。
過半数以上の人をどのように(無意識に)コントロールできるか、あたかも自分の自由意志によって行動していてそれが充実感でもあるように感じられるような方法でコントロールできるか。ということをこの話や本を読むと思うことが多いです。
公演の内容は2007年10月24日のこのブログのログにメモしてあります。
モダン・ガールという言葉で(それまではメディアによって)位置づけられていた日本女性のイメージは「家電を使いこなす奥様」というアイデンティティとなり、(戦争には負けたがその「アメリカが認めた日本の技術力と家電」)というアイデンティティが日本の企業と男性の存在の心地よさになったという点。天皇とアメリカの「結婚」「ご成婚メディア」・・・次第に「占領軍アメリカ」という暴力性は透明になり、日本人の戦後のアイデンティティとなって、イラク戦争時まで「親米意識」を形成するまでになっている。
都市研究・社会学の目線からは、旧日本軍の施設があった場所がそのまま米軍に所有されたことが現在の都市と関連しているという指摘が改めて興味深い。日比谷線沿線を辿ればそれは明確である。
現在、表象から本質を捉えるという方法は社会学が用いている。(というよりも社会学だけが一部この方法を用いてよいことになっているのではないか。あとは西洋美術の主題と表層解読は伝統的に認められている。私は時代に逆行していると言われても、本質は内在していると思うので、吉見先生の考え方は興味深いのです)
哲学、特に現代哲学というものではこの方法は用いないことになっている。現象は本質から外側に現れ出たものと捉える方法をヒューム以降の流れでは由とはしない。しかし、表象をそのままの意味だけで捉えるという方法では、人と世界を結びつけることができない(と私は思っている)
現象学的還元の方法はやはり現実の問題を捉える際に、重要だと思う。
バジュラールが言ったように、火を酸化過程としてとらえるというよりも、人は「浄化」と「熱情」のイメージとして認識することで、人は世界に結びつけられる。結びつけられるというのは、了解するということだ。
話が逸れたが、吉見俊哉氏の講演がやはり見直してもとても面白い。
講演に参加した直後から、はやくWEBでもう一度聞きたいと思っていた。勿論「親米と反米」(岩波新書)も読み、何人か、機会があると薦めている本でもある。
PDFで、パワーポイントの資料もUPされている。
吉見氏はディズニーランドの分析もしている方なのだが、このディズニーランドの隆盛というのも80年代からの消費と公共性の喪失、私化の現象とあてはまる部分がある。
日本は広場や公園という「公共」の空間を創る政策がとても貧弱なことと、更に住宅事情がとてもわるい、家(場所)の所有と共にローン地獄になるという状況になっている。それで、どちらの居心地のよさと、非日常的体験できる場所としての「ディズニーリゾート」のニーズが在る、と思うことがある。
ディズニーシーのポンテベッキオやメディテレーニアン・ハーバーを夕方歩くときの「心地よさ」は現代日本の都市が造り出せなかった空間だといつも思ってしまう。
(寧ろ、以前は街中で得られた共有や空間が、消失したといったほうがよいのかもしれない)
消費とレジャーの場であるTDRなのだが、エンターテイメントと風景の共有は不思議と「共有」という感覚も味わえることなのだろうと思う。
TDRのニーズは、ある程度、日本の社会に欠落していて補いようがないものや価値の裏返しである。税金を払ってもまるで得られない充実のために「パスポート」を購入し、「住民」となりに行くのである。(ヨーロッパにはTDR的なニーズはない)
50年前以前の記憶の風化とも無縁ではなく、アイデンテティの喪失・忘却を思う。しかしそれは遡れば維新期まで遡る話で、閑散とした江戸城跡などに行けば自然に思うことでもある。(東京は江戸歴史地区のような場所を残せなかった。明治政府を創った薩長土肥という江戸文化や日本の文化に対する無知と価値観のなさがなぜもっと問題にされないのだろう?そして、先日の新聞記事にあった、圧倒的にやはりその地域出身の首相が多いという事実も、合理化と文化レベルが迷走するのと無関係ではないと思う。世界遺産に認定された奈良や熊野へいくと、明治維新の文化的破壊者としての被害と実感をいつも聞くことが多いが、私も東京(江戸)という場所と時代に由来があるので、その思いは強い。本来性の忘却は、本当の意味で何の進展ももたらさない。ものごとの改良や保存、発展の基盤に関わるからだ。)
こんなことを書くとTDR批判のようだがそういう事ではなくて(現に今年ももう2回ほどTDSに行ってしまった)だが、色々と思うことが増えたということは確かでもある。

家リンクなどにも参加させて貰っておりますが、私は日本の無意識のコントロールというのは、持ち家と老後不安の2点なのだと思います。皆その為に不満や不安を我慢しつつも、過剰な個人的消費に没頭するのかも、と思ってしまいます。
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