アンジュラン・プレルジョカージュの「ル・パルク」でのアプローチ・コンセプトに惹かれて、メディアの夢、MC14/22も購入して観てみました。
まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文?がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して(表現やコンセプトを理解しようともせず)いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。
まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。
机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。
(遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている)
同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。
『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。
関心がつきない2作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。
アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも2つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。
まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文?がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して(表現やコンセプトを理解しようともせず)いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。
まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。
机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。
(遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている)
同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。
『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。
関心がつきない2作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。
アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも2つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。
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