パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
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