東京バレエ@ベジャール追悼公演にいってきました。(5/11)
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。
勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現(世界観ともいえる)が現れるには、必要なものがある。
それが、よく出ている舞台だと思った。
ギリシアの踊りでは中島周さん。
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。
始まりは終わり、終わりは始まり。
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。
火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。
そして「春の祭典」
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか?
男/女はあきらかに異種として描かれている。
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」(フロイト)でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた(選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である)犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・
舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・
舞台の上には、それが見事に再生されていた。
素晴らしかったと思う。
ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ(優しさ)と「自ら再生する」力を自覚していたように。
そしてその価値を守ったひとがいたように。
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。
勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現(世界観ともいえる)が現れるには、必要なものがある。
それが、よく出ている舞台だと思った。
ギリシアの踊りでは中島周さん。
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。
始まりは終わり、終わりは始まり。
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。
火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。
そして「春の祭典」
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか?
男/女はあきらかに異種として描かれている。
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」(フロイト)でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた(選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である)犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・
舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・
舞台の上には、それが見事に再生されていた。
素晴らしかったと思う。
ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ(優しさ)と「自ら再生する」力を自覚していたように。
そしてその価値を守ったひとがいたように。
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。
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