10月は嫌になるほど時間がなく.
ヴェネツィア展には行けました。でも最終日だったのでティッツアーノとカナレット関連の品物は全て売り切れてた・・酷い!しかしパルマ展もそうだがヴェネチア展もあまり流行らなかったみたいですね。ヴェネツィア展はそれほど完成度の高い作品はなかったので仕方ないけど。パルマ展は本当にこれを見ないでどうするというものばかり・・・日本の展覧会趣味って本当に宗教画とは縁遠いものしか好きじゃないよね・・・でもそれならイタリア旅行で無理矢理ウフィッツィ美術館とかいかなくてもいいではないか。宗教画というよりも聖書モチーフはあれはヨーロッパ語圏の古典と思ったほうがよい部分があると思います。
テキスト・テーマから描いたイメージ、ストーリーや象徴はすでに記号・共通認識になっているから伝わりやすい・意外と個性が発揮できるという具合だから凄いものとそうでもないものが一目瞭然でもあるし。古くてもモダンなもの、時を超えているものがはっきり浮かび上がる。
日本人と米国人(世界のど田舎と云われている)が興味もないのにカトリック文化を見にいかなければイタリアももっと行きやすいのでは・・・というか時間とお金があってわざわざイタリアやフランスに行くのに少しは調べて行ったらと思ってしまう事が多いんですが・・・

前から何か即物的な目的や私利私欲だけの為できる事って大したことではないけど何か才能や能力の限界以上を事をしてしまうことって・・・やっぱりバッショネイト・・パトス的なものなんだろうと思う。

それとやはり初期ルネッサンスは抑圧されていた古代思想・文化に触れて驚喜したんでしょう・・その感動の仕方に感動する・・・。ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロがこぞって仕事をしてたそれは相互に影響をあたえた結果だと思う。
イタリアの凄さ、唯一のものはルネサンスで完成と調和を見て、その後解体されていくことの凄さだそうです。自分の為だけにはそれほど一生懸命にはなれない、というか目に見えない力の作用は確かにある。

フェルメールは行けました。しかし解説パネルに相変わらず??となってしまう。
どうしてこう、技法と物質論なんだろう、いつも。
美学専攻ってこういう事で分析するのが最先端なのでしょうか。
同じ技術を用いても再現できない・他とは明かに違う、その部分こそが重要なんですが・・そういう、曖昧さを排斥する事が知識だとは到底思えないのです。

そして他の風俗画とは時間の捉え方がまったく違う、つまり見えてくる世界が違う。日常の中の普遍・永遠性をそこに持っている。
驚いたのはもの凄く明るい絵なのだが陰影もとても明るいのです。
暗さを表現しつつコントラストの為に明るい光を描き出すのは理屈はわかるのですが明るい室内で暗さとの対比なしでこの光を描く技術って・・・
近くでみてわかったことは、適度かつ非常に精巧なバランスでディフォルメされていることです。だから離れてみた時にものすごく印象が繊細だし遠くでみても印象がまったく同じ。。。

天野可淡展にはいけなかった。マリアは会場としては狭すぎて行くのが気が退けてしまった、というのと銀線でやった回顧展があまりにも衝撃だったのでその感覚のままでいいという気持ちが強かったせいもあります。
山本六三展の案内も来ました。でも行けないかもしれない。
11月半ばだったら行けたのに。