いやー子供が家で鼻歌歌うわけです、君が代の。
70年代生まれな私はちょいとびっくりです。
鼻歌で思わず出てしまうほど学校でヘヴィローテーションなのか?と引いてしまいますが、そうなると教育基本法・憲法に「愛国心」と書き込まれるのはただでさえみんな一緒にがモットーで、管理教育になりがちで能率重視でもない公立での教育に影響でそうです。

「姜尚中の政治学入門」

憲法は権力者の権限を制限するために制定されるのであり、そもそも愛国心や風土・伝統について触れるような性質のものではない、憲法でそれを明記しようというのはそれ自体、「憲法」が誕生した意味も、役割も分かってなさすぎる、ということが改めてよく解ります。

"「俺たち(国)も頑張るからおまえたち(国民)もがんばれよ」という意味あいを憲法に明記する事はあり得る"
などと言っている政治家もいますが、うーむ、
「俺たち(国)」ががんばらなかった場合や間違った場合、責任や処遇が曖昧ですが、国民だと「がんばらなかった」場合にペナルティや処分がストレートに来易いですね。ちょっと都合が良すぎるんじゃないかと思うんですがね...。

大体において昭和初期〜戦前・または日露戦争くらいの日本を指して「昔はよかった」という懐古趣味はあまり信用ならない。


「社会学入門」見田宗介

「人間はどう生きたらよいか」この問題について<「いつかはどうせ死ぬんだし」という死とニヒリズムの問題系><「どうせいつか死ぬんだから楽しまなくては」という愛とエゴイズムの問題系>がありそれを<論理と実証に基づいて>経験学的に追求するのが「社会学」。
何が必要か、それは「問題意識を禁欲しないこと」

”大人”になればなるほどに「そんな事考えたって仕方ない」と意見もありますが...本当にそうではない。現実的じゃない、といって理想論を超えられれないのは、問題意識が鈍っているのと、停滞だと思うのです。

メキシコでは「死者が帰ってくる祭りの日があり、その日は死者のためにごちそうをつくり、しかも誰からも招待されないかもしれない死者のために一人分よけいにごちそうを用意する習慣」があるそう。
(ラテン系の人を家に招待するとかならず友達もさそって2人呼んでも4人来る、そうやって交流が広がる、のだそうだ)
西洋的な合理主義では真っ先に削除されるのがこの「死者のひとり分」だが、その時、その社会からは本質的なものが失われることになる。
こうして考えると、やはり生活時間の速度が早まる度に、社会は得るものの代償として失うものがあるのでしょう。


西洋社会では、簡単に、生きている花を折ることができる精神構造なのだそう。
アジア・ネイティブアメリカンたちの間では、死者に花を手向ける時だけ花を摘むことが許されていた。
簡単にある種を絶滅させるのも、生存するものへのデリカシーの強さ、世界に対する感受性の強さが失われた地域に起こるのだという。名状し難い「ものとこと」について精一杯、実証していて、面白いです。

姜尚中の政治学入門
社会学入門―人間と社会の未来