ゆとり教育についてその2。

「ゆとり教育」が招いた結果は「学力低下」のとどまらず「学習意欲の低下」をも招いてしまった。また子供たちの知的好奇心は満たされず、教養も深まってはいない。

学校がその場になれるかどうかはともかく、教育という言葉は常に曖昧だ。
しかし私と私の所属では「学習」は受験指導と結果の為のものではなくそれは「進学」や「結果」の先にある世界や生活で必要とされる知識であり、思考方法を学ぶものである。

「ゆとり教育」が実施される直前には偏差値が一部廃止されたり、EQなどの言葉がもてはやされた。だがもてはやされたものの本質をとらえることなく導入された「ゆとり教育」は単に授業数の削減や教科の削減、過度な教科書からの文章の削除(理科の教科書を見てみるとよい。ある現象について説明してある文など見あたらない。)そして週休2日制といった「目に見えるものを単に減らしただけ」の変化だったのだ。

「ゆとり教育」で変化すべきだったのは、実は見えない部分の変化である。

「ゆとり教育」を成功させるには教師の側の授業や質の向上とよいテキスト、そしてそれを受ける子供の側も必要なものがあると思う。
今のこどもたちを見ていると、自分の主張はできるが、人の話をまったく聴いていない子供が増えている。まず、聴くことだ。たしかに聴くに値しない話もあるかもしれないが、それでもまずは聴かなければ「学ぶ」ことはできない。

多くの進学校を見に行くと感じることだが、中堅進学校は大学(学部にこだわるよりも名前にこだわる)進学数や合格率をしきりに学校目標にしている。
だが、さらに上の進学校では「知識と思考を表現する力」を育てることに力をいれていることが多い。また「答えのない問題」に対する考え方を導くことにも力をいれている。

自分の考えを自分の言葉で表現する。
また比較し、新しい考えを導きだす。
そういった創造的な思考、判断し、考えを導くのに必要な知識こそを伸ばせるのは人間にとって限られた期間なのだ。
ゆとり教育で本当に望まれていたのはそういったものだと私は思っている。

自分をとりまく外の世界がいかに膨大であることを子供は子供のうちに知らなければならない。

大学の図書館の閲覧室に入り膨大な蔵書に出会った時、また膨大な世界史を前にしたとき、古代やルネッサンスや覆われた日本の文化の美術や文化の片鱗に触れた時、その圧倒的な世界に触れることが重要だ。