1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

タグ:教会

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以前より言っていたフォトブック。その名も「ザ・バリ・スピリッツ」

これは見開きにしたときの頁です。
紙焼きにしてアルバムにはることを考えたら+母親にもプレゼントするならば?と思い作成。
114頁だったか。データ保存しつつのべ3日くらいで作成。

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ちょっとバリの旅行本みたいに仕上がってませんか!?

自画自賛してますが、家の人間と一緒に行った母からはなかなかいいリアクションを貰えたし、やはり編集作業は楽しい、ということで。
(※ ビジュアル素材があると私は編集作業が好きになります)

ギリシア、マカオ、香港もつくろうと思っています、もちろんイタリアも。
しかし、ギリシア、イタリアはまずデータを発掘しなくてはなりません。

そこで疑問が。
フェイスブックはとりあえずの写真保存媒体としてもある程度信用していいのかどうか。
(パソコンからの操作性は相変わらず脆弱ですが)

いえ、以前スナップショット?にすべてのデータをいれていて、当時本当に忙しい時期で、ものすごく突貫工事的にデータ救いをしたのですが(一人で・・・)データも物質化・マテリアしておかないと不安なのです。

大変どうでもいいのですが、連休中くらいからハーマンのガステーブルのうち、もっとも使うタイマーがかけられるコンロが絶不調です。
(IH最盛期のときに、やっぱり火で調理したいという理由でガスです)
煮込み料理や何をするにも、タイマーにしておいてその間に在宅でできる作業ですとか、洗濯〜草取り〜だいたい何分煮込む、とかパエリア的なものを炊き上げるなどに不可欠だったのですね。
自分が普段どの程度、ながら作業で日々を行っているのか・・・
ぎりぎりまで不便になれよう。(明治時代の人っぽいといわれる所以)
買い替えるにはまだ、機能のうち1つだけなので・・・

6月は行事が多いです!!
出張もちらほら入ってきます。

そうか、6月はあまり芝居に行ってないので、ストレスがたまるのかもしれません。

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書斎のかたづけをしていて、出てきた、慶應義塾150周年の切手。
旧館のステンドグラスと建築が好きで、たしか2シート購入。
まだ売っているのかどうかはわかりません。が、東門前の郵便局で私は買いました。


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もう一つ、おそらくこちらも後から古賀郁さん、浅野信二さんから頂いたものですが書斎にベームのサインなどと一緒に保管しています。
このときは「幻想の芸術展」 IFAA(国際幻想芸術協会)のもの。


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バリ島の睡蓮。
睡蓮といえば、鎌倉八万宮。
いけばなでも睡蓮はできるようです、たのしみ。




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香港、ST ジョーンズ教会。



オーレリー・デュポンの引退公演 <マノン>  Les Et

5月のキーフレーズ (1/2

まんさくと芍薬 山アジサイ ばら New Dawn

Intercontinental Bali stay ⑴ バリ島 インターコ

山紫陽花「藍姫」「紅(くれない)」アナベル・ハイド


blogmuraのリンクの後にLivedoorと書いてあり、その下に5つリンクをつけるようにしていますが、
これはその時のアクセス閲覧数順です。

カテゴリーごとにも出てくるようなのですが、一応自分の記録のためにも書いてあります。



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私用、仕事に関わらず御茶ノ水の近くにいくときは、ニコライ堂に立ち寄ることが多い。
外観だけ眺める日もあるし、時間があるときは聖堂内に入りしばし内部の椅子に座り、しばらくドームの天上を観たり、アカンサスの柱頭を観たり、考え事をしたりといった具合。
2月初旬、お茶ノ水にて東京三田会の記念行事と米山先生の講演があったので出席、その帰りにも立ち寄りました。

講演では私教育が本来のパブリックな視座を持つ教育になるために必要な事柄を幕末から明治初期、そして大正、昭和戦後に至るまでの慶應義塾の教育に照らして聞くことが出来た。
個人的に、この時期、はたして教師と教員と先生とは何か・・・ということを考えざるをえない状況で、それだけに興味深かった。

個人的な意見になるかもしれないが、「先生」と呼ぶための条件、それはおそらく学ぶものと同じ線上に立ちながら、経験的にも先人から得た知恵においても「先を歩む人、先に生きる人」という意味が不可欠のように思われる。誰に強要されることでもない。また、慣習的な呼称でもない。同じく学ぶ、研究をすることを目的としていなければ、自然に学ぶ立場から「先生」とは呼ばれないだろう。そういった意味で、慶應の学びの場というのは、質疑応答の際でも、立場をわきまえたうえで、対等な人間として対話的に行うことができるし、それが推奨されている。
これはなんでも黙って受け入れることが由とされている(おそらく疑問を持つことや、了解が不十分なままでも従うのがよい、という因習的な)大多数の教育現場と一番異なることで、もっとも重要なことのように思うのだが。
「教える」ことができるから先生なのではない、「疑問」や「問題」、より善くなることを、より追求できる視座を共有できる、出来ない事を可能にするための方法を伝え、ともに歩むことができることがその条件なのではないか・・・・などと漠然と帰宅してからも考えていた。
これは広義では私生活の場でもいえることなのではないだろうか・・・
教育心理学関連の資料を読んでいて、本来「遺伝」とは環境に適応するために常に動的なもので、生まれ持ったもの、という静的要素よりもダイナミズムの要素が強いものなのである。
人の細胞は常に生まれ変わるものなのだから、こうしたことは、こどもや未成年に限った話ではない。
(米山先生の講演では、こうした常に学ぶことを生活の一部にする事柄を、社会教育と呼ぶ時代から生涯教育と呼び方が変わったことが指摘されていた。私も同様に思うのだが、このことは果たして「公」(pubric)を「個」の集合概念と捉えるのか、または先んじて「公」が先んじてあり、個はそれを形成する一部にすぎないと捉えるのかで「社会」「公」という意味は変容してしまうだろう。私がいう「公」とは、無論、自律した個々人の集まりであり、まず個人があり、その自律した個人が他者との関係と共生で築く社会というモデルである・・・こうしたソーシャルな意味がある時期からは廃され、故に「生涯学習」というプライベートな意味に限定されていったのではないだろうか。いずれは消える肉体や蓄えた知識、経験をいかに「活かせる」のだろうか・・・
それは私が14-15世紀の文献からも抽出しようとした事、また、二度の大戦という新しくてもはや半ば忘却されそうになっている歴史的事実にも関わるし、選択の連続が身近な未来と個人、他者の生にも影響を与えてしまうということにも通じると考えられる故でもある。

無視するののは容易な事だ。
だが、時間がかかっても対話は必要だし、本当に理解するには時間も労力も惜しめない。
難しいことですが・・・

それにしても、同じ労苦を悲観的にならずに行ってきた学友と集う事はなぜこうも心強い気持ちにしてくれるのだろう!
そしてそうした場で語られる先生がたの言葉というのは、活力とあらたな視座を与えてくれる。


個人的な近況としては、2月中は天候不順で、冷えからの症状悪化で日常生活上でも苦労しました。ご連絡が散々に滞り、申し訳ない限りです。




建築オーダーの意味―古代・中世・ルネサンスの古典オーダー建築オーダーの意味―古代・中世・ルネサンスの古典オーダー [大型本]
著者:ジョン オナイアンズ
出版: 中央公論美術出版
(2004-09)



福沢諭吉事典―慶応義塾150年史資料集〈別巻2〉 (慶応義塾150年史資料集 別巻2)福沢諭吉事典―慶応義塾150年史資料集〈別巻2〉 (慶応義塾150年史資料集 別巻2) [単行本]
出版: 慶應義塾
(2011-01)


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