1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

タグ:哲学史




納富信留先生の「古代ギリシア哲学史(全61回)」4年間の講座が一旦終了、4月からはまた新たな講座が始まりますが、初期から出席していたこともあり、論文指導もして頂いたこともあり、講座と講座のあとの食事会にも声をかけていただいたので出席してきました。
受講者で全講座出席されたN様が、個人的に作られたレジュメファイルの目次、即ち講座一覧表と備考の表を出席者に配布して下さいました。
2013年4月22日の「初期ギリシア哲学とは何か:資料論」から始まり、ミレトスのタレス、アナクシマンドロス、クセノファネス、ヘラクレイトスが6月までの講座、夏からはパルメニデス、エレア派、アナクサゴラス・原子論、エンペドクレスなどを経てソフィストの時代へ。「ソフィストと哲学者のあいだ」「ソフィストとはだれか」はサントリー学芸賞を受賞された著作ですので、お読みになったかたも多いかと思います。
(私が三田南校舎で論文発表をしたとき、丁度、NKHの「100分de名著」を納富先生が担当されており、それを見ていた三田会の会員(卒業生)の他学部の先輩方からも質問を頂いたことも。

先日の講座では、プロティノス以降のイアンブリコス、プロクロス、ポルフィリオスをはじめとした新プラトン主義哲学を概観し、イアンブリコスは一部納富先生が翻訳された部分を資料としてもまた講座でも少し読むなどし、ヒュパティア、ダマスキオスなど、アカデメイア派とアレクサンドリア学派の交流、その差異などを含めて1時間半の講座が行われました。途中、何度か質疑応答を含めて受講者と対話的に話しながら、プロクロスの「神学要綱」「プラトン神学」の内容までを扱う内容で、新しく知ることも多く、大変刺激となった。
納富先生は大変、講座の際の情報量が豊富かつ、板書もしてくださったり、翻訳がない文献に関しては、独自に翻訳してレジュメに掲載して下さる。これはとても勉強になるし有難い。加えて、やはり独自に読書していて理解したと(自分で思っている)事柄、内容を先生の解釈を聞いたあとで直接対話的に確認させていただけるのが大変ありがたい。多くの受講者のかたがそう思っているはずである。



哲学の誕生: ソクラテスとは何者か (ちくま学芸文庫) [文庫]
納富 信留
筑摩書房
2017-04-06

このblogでも何度か書いている、また自分が初期に読んだ本でもあり、大学の教養課程で哲学科目を履修している大学生にも時々すすめている「哲学者の誕生」(ちくま新書)がこのたび4月に一章を追加した形で改定+補遺された版で出版される。ラテン語学習会や古典ギリシア語学習会の小又先生から納富先生の新刊が出る旨を聞いていたので、この日、講座のあと先生からこの新版についてもお聞きできた。

この書籍はぜひ、哲学や思想、近代日本の学術伝統を考えるうえでも広く読んでもらいたい本である。

講座が終わった後は今までの講座内容はもちろん、最近の世界での研究状況なども踏まえて貴重なお話を聞くことができた。参加された方にも、もちろん納富先生にも感謝と御礼を申し上げたく、記録しておく次第です。

また、現在は新訳の「パイドン」を翻訳中で年内を目安に出版刊行される旨をお聞きしたので付言しておきます。



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プラトンとの哲学――対話篇をよむ (岩波新書)
納富 信留
岩波書店
2015-07-23








合評会ではかつての卒業生、古典語学習をする皆さま、プラトン研究をする方々、現役大学生等多様な方々、数学専門教育を行う方々を含め、三田キャンパスにて行いました。

http://ousia.livedoor.biz/archives/52373833.html

合評会(2016年12月23日 午後)





アリストテレス全集〈3〉トポス論 ソフィスト的論駁について
アリストテレス
岩波書店
2014-08








ソフィスト的論駁を納富先生が翻訳されています。
アリストテレスのカテゴリー論、命題論もぜひ全集で読まれることをお勧めします。























2017年4月からはディオゲネス・ラエルティオスをテキストに古典期哲学についての講座が予定されています。


ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)
ディオゲネス・ラエルティオス
岩波書店
1984-10-16




4
「寛容論」・・・すべては1762年にトゥールーズで実際に載った三面記事に由来している。
ラヴェスという名の若者がカラス家の夕食に招かれた。ところがあいにく、食後に長男マンカントニが地下室で縛り首にされたまま発見される。容疑者は父、母、兄(弟)、女中、それにラヴェス本人である、。その動機に関しては、疑いなかった。(中略)
市民たちの間に内乱が勃発する。みんなは父親ジャン・カラスを「車刑」に処すよう、容疑者たちは女中を含めて、投獄せよ、と要求する。ジャン・カラスは処刑されることになろう。
しかし三年後、マンカントニは自殺だったとわかるのである。

ヴォルテールはこの話を利用して、読者たちを寛容へと誘っているのであり、激情に引きずられることなく、行動の前に考えるよう誘っているのだ。狂信より危険なものはない、と彼は言う。」

(物語近代哲学史 P.136)


行動する前に、激情にかられることなく、考えること。
「寛容論」の文庫新訳がでたことは聞いていたのであらためて近代についても再考すべきだろう。



寛容論 (古典新訳文庫)
ヴォルテール
光文社
2016-05-12


物語近代哲学史〈2〉デカルトからカントまで
ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房
2005-07



物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで
ルチャーノ デ・クレシェンツォ
而立書房
2004-02


ルチャーの近代史は前半はルネサンス思想である。(機

P1020985

写真は昨年5月のL.D.ブレスウェイト.
あまり本文とは関係ありませんが、育てた花にせよ、買った花にせよ、頂いたりする花にしても、私は枯れた花をゴミとして捨てることができないので、土に埋めもどすことにしています。
生命あるものを物としてみなすことができないがゆえに。


ヒュパティアは数学者の娘であり女性哲学者だった。
(私としてはこの呼称自体、ある種の偏見があると思うのだが)
アレクサンドリアの新プラトン学派の学校長になり、ストア派、アリストテレス哲学、所有物軽視について論じた。

しかし反ユダヤ民族主義的な大虐殺が当時おこり、ヒュパティアはその友好関係のために最悪の事態に遭遇した。
ユダヤ人でなかったのだが私用で馬車に乗っているときに、捕らえられて激高した信者の群れによって引き裂かれ,40歳で死亡した。
民衆の言い分は、彼女が「真の女性らしい」行動をしなかった、つまり男性の地位に就き公の学校で教育したと弾劾したのもその理由だった。

今日とて同じような理由で学問自体が禁じられる場合はいくらでもある。
「そのようなことはない」というのはそれが露見しないだけであり、事実として語られないからである。

学問が禁じられたり、公的な役割を果たすよりはいわゆる「内助の功」のような役割をすることが「美徳」とされる。
また、多くの場合は「そんな必要もなく、金銭と時間の無駄だ」と言われる。また「女性」であるというアイデンティティが非常に強い人(つまり個人の自覚よりも「妻」「女性」「母親」といった役割と存在事由が同一で疑うこともない人)からは、それ以上の感情的な理由によって、ほぼつるし上げのような状態が起こる。

ボエティウスは、東ゴート族の王と良好な関係をむすぶことで異例の出世をした。しかし突然万事が悪くなった、親ゴート族のキュプリアスという卑劣な人間が中傷をもってボエティウスを告発し、弁明したが捕らえられ、有罪となった。プラトン、アリストテレスをラテン語に翻訳しようとした最初の人だった。パヴィアの塔に監禁されている間に『哲学の慰め』を書いた。ほぼ死ぬ直前のことであって、・・・北方・ゴート族の刑罰は18世紀になってもひどいものがあるので(これをよく調べるようになると、よく問題になるカトリックの火刑はまだましだったのではないか、それゆえに何の罪もない人を火刑にしたフランス王シャルルが「善人」といわれているナンセンスなことがらも、多少は説明できるように考えられる。私見に過ぎないのだが、この刑罰が「見せしめ」であると同時に「尊厳」は「記録」されるからではないだろうか。刑死、暴力死は現在でも残っているが、これが隠蔽されることの問題はあまり問われていない。そして、この制度が存在しても、暴力自体(言葉の暴力も含む)はなくならないのである。応報はどのように断ち切るべきなのか。)


私が理解できないのは、嫉妬、羨望、および嘘を言うこと、また一方的に自分の都合を押し付けてくることに無自覚なこと。

私自身は偉大なもの、驚嘆することがら、人物などに対して称賛とか自らの在り方を問うことや改善したいという気持ちが興るのであって、それをねたましく思うとか、非難するという感情自体が理解できない。


常に万事がだめになるとき、権力と権威に関わるものがこうした言動に出ることによってその後よりすべての状況はより悪くなることがある。
忘却、暴虐、理不尽といったことが蔓延する、と思うことがある。

恐ろしいのは、かつて自らが否定し抗ったはずのものに、いつのまにか気がつかないうちに同じ過ちをしていることである。
真の自己認識を行うのは難しい。

だが、自分自身の内に、自我の分裂がおきている場合、主観と客観が真に別のものとして「純粋に」在ることができるのか?

純粋理性とすべてをできるだけ精緻に記述する方法をもって、また見たものを、常に質料、形相、作用因、・・・・可能態、現実態といったように分析的に日常ですらみていると、ほぼ感覚でとらえたとおりには、「現象」しなくなる。

「在るもの」とは実のところ感覚しえない、「存在する」以前のものをとらえることであり、・・・なぜかイタリアやトルコの人と話すときにはこうした了解が、在るためか、意思疎通にそれほど苦労することはない、のだが...

国内にいてそれがうまくいかない場合には、なぜか(私には理解できないのだが)、相手よりも自分が「上」であるという立場を保たないといけないという意識が強い場合には、まったくコンタクトがとれない場合も・・・生じる。閉じた言語の用い方がなされているからなのかどうか。

読むこと、および理解することは、自分に留まっている状態ではけして理解できない。

それはおそらく、現在の自分が在る場から「動く」ことによって初めて生じてくる、「開かれ」−了解の地平なのだ。

観ようとしなければ、何も見えてはいないし、知ろうとしなければ、正しく知る事もできない。

タイトルに書いたことは、ほぼ1日に5回以上は自問する事柄である。

その理由は、私自身は次のようなことがらを求めてはいないからである。
即ち「真なるものよりも、自らが傷つかないこと、気分よくくらすこと、「癒し」や「救い」を「待っていること」を望むこと、絶対に自分が正しいという立場から他を非難してばかりいるといった状態」こうしたことを望んではいない。

しかしながら、それを望むことが大多数の場合、「不在」であること、「不在化すること」が望まれるからである。

私としては、なすべきことをできる限り形にしたいと思っているし、理解するべきことを理解したいと思っているのだが、それを無意味であるとかほかさまざまな理由によってやめるように、具体的には父親から「死ぬように」昨年の夏以降言われつづけているという状況がある。今に始まったことではないのだが・・・
また普段仕事の関係で遭遇する事柄としては、能力も学力も十分であるのに、親の価値観から進学できないという人が未だにいるからなのだ。
(そして実際のところそれは貧困のせいではない、親の欲望が強く限度がないことが理由であったりもする。または最初から蓋然的になり、主観的に「その必要はない」と決め付けてしまう。)

またやはり同様に、父親の無責任さによって努力が無駄になるということがらはいくらでもある。家父長制はうまくいけばいいのだろうが、必ずしもそうではない、ということなのだが、今現在であっても個人が学んだり、探究するためにはその権利はそれほどは保障されていない。


これは憶測ではなく、経験上のことがらである。


タイトルは実のところ私の心境でもある。大抵の人は10代のころや子ども時代楽しい記憶があるのかもしれないが、私の場合はそうではない。
(拡大家族や古い家に育った人ならそうかもしれないのだが。よって私としては「まだ若いのだから」と言われるのが苦痛である。ボエティウスが夢にみた哲学の寓意、老婆に姿のほうも成り代わってもらいたいものだ、とさえ思う。)

ところでこのタイトル「生きるべきか、死ぬべきか」という台詞にしろ、シェイクスピアの37の戯曲にしろ、哲学なしには成り立たないといわれており、古い仮説が存在する。
「シェイクスピアはフランシス・ベーコンか」というもので16世紀末、17世紀初頭と時代は重なっている。
(同一人物というよりは、当時の英国では何かしら間接的な影響力が作用したと考えるべきかもしれない。ただ、直接的に関与するには階級の問題が壁になっていたかもしれない。北方のパトロネージは間接的であり個人的な友愛・庇護によるものではないことが多いから、ではないだろうか。)

そして自問してみるのだが、私も同じような憶測に頼りすぎていないだろうか?ある作品とある思想の類似を過度に結びつけようとしていまいか。

常に自己認識に注意をすることが重要であるという考える次第。



物語中世哲学史 アウグスティヌスからオッカムまで
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
而立書房
2003-11-25


261 私たちはひどく思いあがっているため、みんなから認められたがるし、もし誰かが私たちを認めなければ、立腹するのである。

299 人間は概してひどく狂っているから、狂っていないということは、別の種類の狂気にかかっていることを意味するだろう。

134 多くの人びとは迷信から信じており、多くのひとびとは放蕩から信じないし、最後に少数の人はそれらの中間で待っている。

・・・

姉ジルベルト・ペリエによればパスカルは12歳のときに最初の論文をかいた。彼の教育はすべて父から得たものだったが、父親は才能に気がつくと、ラテン語や語学といった職業のための学問より数学に熱中することをおそれて数学と幾何学の学習を禁じたほどだった。しかし、パスカルは一人で(父には内緒で)ユークリッド幾何学の命題32まで解き明かしてしまったといわれる。19才のときに最初のコンピューターを考案した。考案するのは容易だったが、これ(パスカリーヌ)を作るさいに職人たちに理解させるために2年が費やされ、健康をますます害してしまったといわれる。
(思考することや考案することよりも、理解を得ること、<かたち>にすることのほうが困難であることが多いが)

彼は名声や金銭を得ることには関心はなかった。「真空論」は断片しか残っていない。 

「パンセ」はブレーズ・パスカルの死後に、友人たちがまとめて出版したもの。たいてい、「人間は考える葦である」というかなり切り取られた文によって説明されている。だが、これではルソーが「自然に帰れ」といったと誤読・曲解され、内容を理解せずに、あたかもキャッチフレーズ化するように聞き流すようなものだ。

377 「人間は1本の葦である。自然界に存在するうちでもっとも脆弱な生き物である。しかしそれは考える葦である。宇宙が彼を押しつぶすためには、そう骨折るには及ぶまい。水滴だけで十分だ。けれども、たとえ彼を殺しても、最良のものでありつづけるだろう。それというのも、これは死ぬべきことを知っている葦であるが、他の葦はそのことを知らないからである。」

40歳に満たないときに、亡くなった。

パンセ〈1〉 (中公クラシックス)パンセ〈1〉 (中公クラシックス)
著者:パスカル
中央公論新社(2001-09)









・・・今日では、「死の必然性」についてどれほどの人が自覚するだろうか。余命宣告されたらその意味を問いはじめるとか、あるいは逆に叶えられないであろう欲望についてさらに思いを募らせ問うこともないこともあるように思える。

生涯の軌跡 (メナール版 パスカル全集)
著者:B. パスカル
白水社(1994-06)

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物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで
ルチャーノ デ・クレシェンツォ
而立書房
2004-0

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「いつもわたしに不幸に思えるのは、「神」の語(これは結局は宗教用語である)が、哲学者たちによって、かれらの体系における、なんぴともおそらく信仰の、まして愛の対象とはみなされないような因子の名として、保持されてきたことである。」(「ソクラテス以前以降」 F.M.コーンフォード P.121)


コーンフォード著作を読んでいる。同感なので明記しておくが、付け加えると「神」とか「善」とか「理」という言葉は日本ではそれまで使用されてきた歴史的背景や言語に染み付いたイメージがつきまとっているがゆえに、更に不幸な状態に思われる。
哲学も同様で、フィロ・ソフィア(知を求め愛する いうなれば知の欠乏を認識することによって始まること)がどこか狭義に受取られて、人々からは遠ざかる。結果として、怪しげな「自己啓発」とか「ニューサイエンス」のような霊感商法に惑わされたり、「セラピー」のようなものに依存したりと、さらに不幸な状況が生まれている。

不安は、逆にいえば、それまでがその人が「思い込み」の世界にいたからなのであって、何事も決定していないことは自然なのだが、奇妙な形で近代(移殖された、または途中で頓挫している)した社会となり、生存競争は激しくなる一方で、実をいえば多くの人のメンタリティは2000年前とかわらないような「多神教」(開運とか、厄除けとかそういうもので何か状況が変わるという、また支配者にすべて任せ、他者依存的な態度など)状態なのだから、混乱する人で溢れているようにみえる。

ある大型書店(大型書店ほど読みたい本、探している本がない傾向はいっそう酷い)で塩野七生が十字軍について執筆するという広告をみたが、その理由づけに首をかしげた。
「現代では宗教戦争が続くのだから、多神教世界のほうがよい」というような内容だった。あまりにも素朴な誤解というか思い込みのような気がする。多神教から次第に一神教が形成されていくのであって、イスラムとキリスト教が反目しあっているという単純な構図ではない。(厳密にいえばキリスト教は宗教だが、イスラームは宗教ではない。聖俗の境界線がないのだ。それにユダヤ、キリスト教、イスラム教は根本において同じところから派生している。イスラームでも旧約は聖典の一つであるし、イエスも預言者の1人として扱われている。共通点のほうが多く、解釈の違いによって異なるものになっている。)その差異において日本人が橋渡しになれるだろうというのは、やや視点が狭すぎる。

権力が宗教的絶対性と結びつくことが問題であって、そういう問題ではない。「混沌」を「自然」と勘違いしている限り、アイデンテティが不安定になれば、忽ちにして、多神教のなかから生じる一神教的独裁が始まりやすい。絶対的なものに身をゆだね、支配することと支配されることを望み、他人と自分の自律性に盲目的な社会ではしばしば、第二次世界大戦前のような状況が生まれやすいのではないか。
無知の民ではないが、忘却の民だと思うことが多い。それはしばしば、人情とか義理とかで正当化される。
問題なのは、公的システムもまたこうした傾向をあてにしたり、利用したりしようとすることだ。


先日もローマに対する日本人の勝手な親近感について書いたが、どこか自分たちの価値を補強してくれるから、ローマを支持するというような人が多い。

私はどちらかといえば、違う部分、差異の部分にローマの美点を見出す。公共事業は有力者や貴族、市民上層部の私財でおこなわれていた、とか市民には食料が保障されていたとか、宗教的民族的寛容性などに美点を見出す。
その差異を見出す点で「ローマ人への20の質問」や比較的自由散文的な「イタリア異聞」などは小中高生には薦めたいとは思うけれども、大人たちが「ローマ人の物語」などを読んで悦に入っている場合ではない。

もう一つ、カエサルものの演劇の広告も見たのだが(原作 塩野七生)そのコピーも「リーダー不在の日本に贈る・・・云々」とあって、自分たちの問題を他人まかせにしたいのか、リーダーに「だけ」求めるのかということに対して、あまりにも無頓着すぎる。多元的世界では、「力」を単に独善的に行使するのはファッショなのである。
(石原都知事が再選したときに、「現代思想」の後期でこの傾向、つまり「強力な指導者を盲目的に求める指向」を批判していたが、つまりそういうことである。しかもほとんどのマスメディアではそのことはあまり取り上げられない。なぜならば彼ら自身もまた「力」を欲するところの、権力の力そのものよりも権力が表すものを求める体質があるから、なせいだろうが。

基本的に他者依存的で自律性の低いところでは、ファシズムが生まれやすい。しかも他人に対する憎悪が深いところ、傲慢な民族意識が強いところでは、悪辣なナショナリズムが展開する。自国民もは不幸が美徳になるし、近隣諸国にも多大な被害がでる。
しかも、東京新聞の一面広告には「涙なしにはよめない」というコピーがついた靖国賛美的な本が紹介されていた。違和感を感じるのは、そうした感慨は他人を犠牲にして自分は安楽にしていたいという生贄精神があるからである。
あまつさえ「感動した」などと一言二言のために、彼らは死んだ(殺された)のではない。(”敵”だけによってではない...敵とは「作られるもの」でもあるからだ。多元的なものを包括する世界で単一的な「統合力」を持とうとするとき、それは外に圧倒的な「敵」を措くことではじめて自然に可能となるという側面がある。つまり、「十字軍」の「正義」はそういった意味で理解されるべきである。「正義」は時に、暴力を覆い隠すもの、正当化するものであることが多いのだ。もう一つ、虐殺は、多くの場合「強制徴兵された」場合に起きる現象である。彼らは過酷な受動的立場に強制的におかれることになり、その力の暴発がさらに下位におかれる場で起きる。このような暴発は90年代に入ってもグアマテラなどで起こってきた。)
人の死は無駄にはできない。しかし「消費」されることも適当ではない。
オーラルヒストリーという分野では、「声」としてこうした過去を活かすことが求められている。

マルシリオ・フィチーノは晩年、「正しい哲学と宗教は、人間を幸福にする」と言った。
犠牲者を出したり、自分だけがよければ何も問題としないという類のものは、それは端的にいって正しくない、といえるのではないだろうか。

問題は幸福とか生き方といったものに見合った社会について吟味されていないことだ。社会といったが医療なども同じである。他者性が曖昧なのに、近代的な制度を形だけ移殖しても疎外感が深まるだけである。
主語が省略できる言語を用いている世界と、主語を明確にする必要がある言語とは隔絶している。しかしながら、単一言語世界でまかなえるほど、自立できてもいない。

・・・「無知な人は神というと、それぞれの民族のスーパーマンのような人を思い浮かべる。」ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、生き死にしないものとして長らくDio(大文字で書かれたこの語は普遍なもの、原因としての一をあらわす)という言葉が語られたのである。小文字で書かれればそれは、ギリシア神話の神のような有限な存在として表されてきた)

西洋は進歩主義によって歩んできたが、ニーチェ以来「神なき世界」で絶望にくれてきた。しかし、そもそもそういった捉え方をしていたことが誤解だったのだ。だから無神論者は、実在している可能態としての神がいないといっているのか、それよりも原因、一なるものを否定してるのか、この言葉も曖昧である。

言葉の差異を認識すること、表現を正確なものとして語るのは、この曖昧さ、何となく共感を抱いていけるものを明確にすることである。曖昧でもよいと思うかもしれない。しかし、「何となく抱く連帯感」は「理由ない差別」を引き起こす因子でもある。

プラトンは一なるものと、それを存在として定める不定の二とし、これは不文の教説とされている。

曖昧なはずな言語が、ただ一つの言葉によって同じイメージや像を想起させることもある。これが詩である。文化史的には、私には、おそらく、象徴主義が用いたのはこうした人間の言語、創造といった面に「眠っている力」に働きかけた文学・芸術活動だったように思う。


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物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで

著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
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