1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

タグ:プラトニズム



プラトン研究の大先輩というべきEさんから私が出席できなかった講座(納富先生)の資料を提供していただきまして、近況含めてプラトニズムの話をしました。テーマがテーマだけに落ち着いて話せそうなのでバルバラ・ルミユゥ(有楽町)にて。

あるテーマを中心に学び続けていると、なんらかの接点から、幸運な偶然から同じテーマで学ぶ方と時間を共有できます、そういうときに、この世の中は基本的にやはり善によって成り立っているのだ、と思います。


内在と超越の閾―加藤信朗米寿記念哲学論文集
知泉書館
2015-08-10









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グラナをくりぬいたチーズの器のなかで仕上げるカルボナーラ、美味しかったです!
ワインが進む・・・。
そしてスマートフォンの電池が異常になくなるのが早い昨近、お料理の写真をかわりにとっていただきました;
(すみません....and ありがとうございます)




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こちらは、第15回を迎えた(一応)自主的に主催している勉教会 講座でみせていただいたルネサンスおよび美術史の新書。図版一部がカラーになっています。
後輩かつ図図しくいえば教え子といえると思いますが、小学生の時に東博へ引率したりして(自分の娘と一緒に)それがいまの研究・制作テーマになっているというのもやはり嬉しいことでした。
広義の教育とはおそらくそういった作用、伝播、継承(批判も含む)のつながりなのだと思っている。



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私は専門を西洋思想史、特にルネサンス期フィチーノのプラトニズム、プラトンと新プラトン主義についての受容、その意義としている。意義というのは当時つまりルネサンス期とその後の古典古代学術芸術文学への影響を含む。同時にそれは、浸透したゆえの誤解や変容なども含まれる。

過日、放送大学筑波大学の学習センターで開かれている小又先生の古典ギリシア語学習会の時間のなかで、数十年ぶりに堀江先生とお会いした。わたしは最初の哲学講義履修を堀江先生のプロティノスで学んでいる。初めてテクスト、原典を読む、この時と場所を超えて古典となった多くのテクストにいかにむきあうか。
一者、多なるもの、知性 それらの派出と帰還。
プラトンにおいては太陽の比喩から線分の比喩として語られたもの、またわずかな水脈、つまりはアカデメイア閉鎖後の水脈をつうじて、しかしながらキリスト教にも重要な要素をプラトニズムは持っている。

堀江先生にむかし授業中にわけていただいた論文抜刷りを持参しお見せしたら、1番最初に書いた論文だといわれた。

来年夏からおそらくプロティノスの講読が行なわれる旨もお聞きできた。

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講読内容についてのお話を学習センター所長と小又先生からお聞きして参加させていただき、文献についてもお聞きできた。プラトン対話篇の講座で御一緒している先輩にもお声をかけてこの日、いろいろ対話できたことも。

台風が近づいて天気が危ぶまれたが、このような機会に参加できたことが幸い。













写真転送がうまくゆかないため、後から修正します。
まずは今週のうちに。


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新プラトン主義と錬金術: 神智学の起源をたずねて
アレクサンダー・ワイルダー
UTYU PUBLISHING
2014-06-09



内容は上記参照ください。






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小又さんの古典ギリシア語学習会は数物クラスの後に実施されています。

高嶺さんの注目記事

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納富信留先生による1回講座、"トマス・モア 『ユートピア』を読む" に参加しました。

Firenzeルネサンスはエラスムスまではなんとなく関連して学んできたけれども、実のところ私も「ユートピア」を繙くのは初めてのことだった。ラテン語原文で書かれ、次に英語版がRobinson版として出たのも、マルシリウスの「饗宴註解」がラテン語からトスカーナ語版としてすぐに出たのも少し似ている。
そして時代は少し違うのだが、トマス・モアの「ユートピア」も広く西欧大陸で読まれたものである。
加えて、Ficinoの「プラトン的愛」がプラトニック・ラブという言葉となり、一人歩きしてしまったように、トマス・モアの「ユートピア」もまたその内実や内容を読まないまま、「なんとなく」広まってしまったものではないだろうか。

今日、日常用語として使われている「ユートピア」はどちらかといえば、「アルカディア」(アルカディアの牧人たち)に近いニュアンスではないだろうか。もっともフランス古典主義の有名な二コラ・プッサンの<アルカディアの牧人たち>では牧人たちがアルカディアでも「死」は存在する、「死をわすれるな Memento Mori」の警告を石棺からうけとるという場面なのだが。

このあるとするならば、いや「どこにもない」(まだかつて)島についての説明は、二巻目以降になされている。
一巻目および、報告のための手紙(の体裁)は文学構成として、把握して読む必要がある。
今回本文をよみはじめたときに、どのようなスタンスで読み始めたらよいものか、と当時のイギリス史と、トマスモア研究所のいくつか、年譜などを事前に調べて読んでみた。

納富先生のレジュメは7ページほどにおよび、プラトン受容に関しては、「ポリテイア」のギリシア語をご自身で翻訳したものをいれて説明して頂いた。




因みにラファエル ヒロスディの名前由来とされる、大天使ラファエルとトビアス。魚からとれる薬を求める道中の守護天使が大天使ラファエル様なんですね。
ほかの大天使はいきなり現れて秘密を告知したり、飛翔して武装して楽園追放の場面が多いミカエル様など、ラファエルと若者、旅の庇護者というのは派手な主題でもないが、重要であったでしょうね。なんとなく、翼をもち、空間移動すらマテリアに関係なく出現できる大天使なのに、トビアスの手をひき、自ら大地をともに歩くとは、ラファエル様の役割や当時のかたの心性に思いを馳せました。この作品は昨年の文化村でのボッティチェリ展に出品されました。


さて、モアの「ユートピア」思想は広範囲に影響をもっている。
ウィリアム・モリスもまたモアの思想に憧憬を描いていてそのようすは文献としても写真としてものこっている。
またフランスでの社会主義はよりモアの影響は近かった。この本は「マニュアル」ではなくきわめて技巧的、修辞的なレトリックを用いたもので、あそびの部分がある読物だと思う。
何よりも人間的であるかどうか、人間性が重視されることへの配慮が、モアの「ユートピア」の特徴であるかもしれず、それは人文主義を十分に継承している。

ピコ・デッラ・ミランドラのピコ伝、モアがギリシア語をまなんだ師が、Firenzeのアカデミア・プラトニカで学び帰国したこと、などイギリスにおけるルネサンス(まだ英語が確立していない)受容展開を学び、参加者との討議や質疑応答を含めて講座だった。
10時から15時までで途中1時間の休憩と小休止をはさんだ。
納富先生の講座は今後も美の哲学、ヘレニズムの哲学史などユース学生会員の方が受講料を安価に受けられる講座も豊富に用意されている。
今回も、美大在籍中の知人がぜひ受講したいということで参加した。

プラトン
岩波書店
1967-01-16




納富 信留
慶應義塾大学出版会
2012-07-19


講座終了後、納富先生はニューヨークから帰国されたばかりのハードスケジュールながら、参加した受講生やユース会員のかたとおよそ3時間時間をとってくださり、ギリシア語、翻訳の問題、ソフィステスの問題、当日のテキストであるトマス・モアの問題等、軽く食事をしながら談話会の時間を設けて下さった。

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カフェでフレンチトースト・スモークサーモン。ラタトイユ添えを。



2015年12月に慶應義塾三田キャンパス会議室にて、合評会を行った。
その後参加した方も、それを機に読み始めたという方もおり、ぜひ対話篇を決めて、あるいは、後半の章に絞って、あるいはパイドロス、ピレボス、テアイテトス、など焦点を絞った会を、と聞いています。
それまでには私のほうも、もう少し、ピレボスについて整理しなくてはならない。
ピレボス研究についての質問にも答えてくださいました。

朝日カルチャーでは、美のシリーズとして、哲学の美として、プラトンからプロティノスの1回講義が6月に予定されている。



プラトンを、哲学を、という方にはぜひこの筑摩書房の新書をお読み頂きたい。





トマス・モア
岩波書店
1957-10-07


講座レジュメの対応しているページ数はこちらの岩波版。


慶應義塾大学出版会
2015-10-29



納富先生がRobinson版の英語版、ラテン語版の書物も教室に持参くださり、現物をみることができた。





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12月23日(祝・火)午後13時より18時まで、納富信留先生の新書『プラトンとの哲学』を読んだ読者からの質疑応答、感想を踏まえて議論する会を慶應義塾三田キャンパス会議室にて行いました。
まず、場所と年末の忙しい時間の中で、時間と場所と機会を提供してくださった先生に感謝の言葉を述べ書き残しておきたいと思う。
納富先生のもとで哲学、哲学史、また私のようにプラトン受容とプラトン哲学、プラトニズムについて研究した卒業生(饗宴、国家、パイドロス、ピレボス、メノン等)、古典語を学び古典文学を学んだ慶應卒業生、現役の他大学の学生、西洋史の専門、放送大学で数学物理とギリシア語クラスを教えているK先生、工学部の学生など、いわゆる「理系、文系」にカテゴライズされず、学んだ人あるいは学びつづけている人たちで会議を行えました。ご参加されたみなさまにとって、著作を通じて対話できたこと、直接先生から執筆動機をうかがえたことなど、本当に貴重な機会だった。


13時から序章 プラトンとの対話 (アカデメイアの木陰で....)より 
      第1章 生の逆転『ゴルギアス』 P21より
      第2章 魂の配慮 『ソクラテスの弁明』P.45より まで
      第3章 言葉の中での探究 『パイドン』P71より
      

15時から 
       間奏曲 第七書簡 P.101より
       第4章 『饗宴』P.121より
       第5章 理想の変容『ポリティア』P.145より

16時50分より 第6章 宇宙の想像力『ティマイオス』P.175より
          第7章 哲学者とその影 『ソフィスト』p.197より
          終章  プラトンは何を語りかけるか

3部に区切っての会となった。それぞれ間に約5分から10分の休憩を挟み、18時の会議室が閉まる直前まで議論や対話、感想を語り、先生がコメントや解説を加えられた。
私は納富先生から、哲学者、すなわちフィロソフィアは知を愛するものであり、かつ中間者であることを論文を作成するなかでとてもよく覚えており、その後の文献の分析、どのようにわれわれが書かれたものと向き合うべきかを得ることができたと思っている。またプラトン主義はつねに数学あるいは真実を追求する知的活動とつねに同時に起こっていることも重要であろう。
今回はじめて納富先生と話されたり先生がお話される言葉を聞いた方は、おそらく、この『プラトンとの哲学』はもちろん、他の著作、書かれたものを開いて読み始めたときに、理解できる事柄が増えるという体験をされるのではないかと思う。言葉は、書かれたものと話されるものがあるが、音声として、その場と時間を共有できる言葉は生きた言語であると私は思っている。すなわち、パロールされる言語、また対話者とのあいだにかわされる言葉が言論として活きているものである。書かれた言葉は、ロゴスとして意味をもち、時間と場所を共有しない読者にも語る力をもっているが、それだけでは充分ではない。

この会はもともとの発端は、『プラトンとの哲学』が夏に刊行された後、朝日カルチャーセンター新宿にてプラトン『法律篇』の総括回があり、その講座ののちに受講者から発案され、先生が承諾してくださり、具体的な日時や場所を決めるために私と先輩のプラトン研究をされている方とで話しあい、実現した。10月中旬ほどから11月の間に日時が決まった。今回出席できない方もいたので、これを機にまたある章について、例えば、ポリティア、ティマイオス、パイドン、ソフィストといった風にあるテーマに絞った会でも良いと先生からお言葉をいただけたのがとても嬉しかった。私もそうなのだが、これを機にあらたに原著や先生の著作を読む機会となるのではないかと思う。

納富先生からは、自己の変容という言葉を聴き、やはり自分の中で言語を通じて変化をもたららすものが、プラトンの思想ではないかという言葉を聴き、また昨年は井筒俊彦全集が発行された(慶應義塾大学出版)ので、イスラームにおけるプラトン主義の思想についてもコメントをいただいた。井筒俊彦全集は、今後さらに解読されるべき課題だと思っている。また、多言語の重要性とともに、日本語で考え、書き、読解し、それをまた語り書き残し対話し思考する、判断し行動するということにつなぎ合わせねばならないだろう。

最後に、これから読まれる方、次回参加される方のために、プラトンは何を語りかけるのか、終章より引用したい。

「現実と理想のはざまにあう人間とは、いったい何でしょう。「ある」と「ない」の中間にいる人間、「知を愛し求める存在」としての人間です。(略)私たちの生は、無知やごまかしにまみれています。なによりも、私たちは有限な、死すべき存在です。ですが、真理に目を向け、それを実現する理性、魂の本来のあり方という希望も私たちの内にあります。人間の悲惨を見据える悲観主義と、可能性を限りなく信じる楽観主義、その間で私たちは生きていくのです。
 プラトンは現代を生きる私たちに、何を語るでしょうか。人生や心のあり方、対人関係、社会問題、国際紛争やテロ、地球環境問題....私たちが直面している問題は多岐にわたり、古代ギリシアでは想像もされなかった困難も出現しています。問題は多くきわめて複雑で、とてつもなく難しい...

(中略)
では、一緒に、始めから考えていこう。
「問題だ」と思っていることの中には、実はたいしたことがないものだったり、別の問題だったりするもののあるはずだ。何が本当に大切で、何が無視してよいものなのか
それを見極めねばならない。一見新しい問題に見えることにも、惑わされる必要はない。私たち人間がこれまで思索してきた基本的な問題が、やはり根底にあるはずだから。
そして中間者である自覚を持ち、自分に反省の目を向けながら、勇気をもって自身の理性で考えよう。現実を見据えよう。その綻びに戸惑いながら、「現実とは何か」一緒に考えていこう。・・・・」P.234


一部抜粋しての記述です。ぜひ新書を読んでほしいし、先生が会の中で語られたように、この本は専門研究者や古代ギリシア研究という範疇にとどまらず、高校生たち専門を決める以前のひとたちにぜひ読んで貰いたい。

今回、この書籍が刊行された2015年末に、有志で会をもてたこと、また次の機会にむけて書き残しておきたい。


納富 信留
慶應義塾大学出版会
2012-07-19
















筑摩書房のこの新書はぜひ再販してほしい。この会に際して、未読の大学生に今私の本は貸出中。
NHKのプラトン、あるいはソフィストの問題は、最初に英語でケンブリッジから出版された専門研究書、またアリストテレス全集の新訳である『ソフィスト的論駁』もお薦めする。










納富先生からは、エンドクサについての論文抜き刷りも今年頂いた。あわせて読み返していきたい。



昨日新春号が届きましたが、写真は秋号の巻末に掲載されている紹介ページ。


納富先生は、引き続きギリシア哲学史を朝日カルチャーで担当されていますが、
3月26日は一回講義 トマス モア 『ユートピア』を扱います。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
トマス・モア
岩波書店
1957-10-07




ユートピア (中公文庫)
トマス モア
中央公論社
1993-04

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イタリアン・セオリー (中公叢書)
岡田 温司
中央公論新社
2014-02-24

読書メモとはいえ、話題が散乱しそうだったのに、別記事に。
マッシモ・マッチャーリとモダニズムの天使たち、この章で解説されるのはショーレムのベンヤミンの天使は、根本的に「メランコリー」のかたちをとる。

カッチャーリの『必要な天使』第2章では
もともとギリシア、ネオプラトニズムの伝統において天上界における私たちの身分であり、根源のイメージでありう、神と地上のわれわれとの「仲介的存在者」であttからである。(そのため悪魔とあらゆる意味で区別される。
さらに、ソクラテスが対話篇で用いるダイモンも、今日的な感覚でいうところのデーモンとは区別され、これらは、仲介し不死なるもの、神々の血、自然の法則など従来の知に加ええた、本当のところ何なのか、言論で解決できる成熟した、ロゴスを共有できる場を目指した上昇ベクトルを有した「中間者」なのであろう。

我々の中にもいるはずである。
煉獄や死後来世、あるいは義務以上の保守思想に単に迎合せず、書籍・・・過去の先人、あるいは先生がたとの会話のなかで見出せることが。

岡田先生の著書を、成田の行きかえりに読んでおり、改めて気になったところを読書メモ。

ルネサンス研究者でのセレーナ博士のスピーチはどこかアガンベンとエスポジトの中間、あるいはネグリ的なものを感じつつ、大変興味があった。

「哲学とは何か」

私たちの生活とはかけ離れている?もしくは出会う機会が失われている?
最近、理系(というくくりはすきではない)が学問の府として不毛な議論があるうようだが、あいかわらず二者択一なのだ。それがもっとも問題である。
いうまでもなく、海外の大学とは、広い知識を包括的に学ぶ研究ができ、フランス、イタリア、(国際バカロレア)は高校時代に哲学(フィロソフィア)は必須なのだ。

もし公立一貫校、一貫校、私学であっても数学史を選択カリキュラムとし、理系と法学部、文学部の一部の学科は大急ぎでフマニタスについて習得できなれば、狩りに海外にでたところで話題に事欠くと思われる。

日本のクラシックは、ほぼ小3からの受検勉強え習い事もピアノもスポーツもとん挫している状況だ。

文化とは継続性であってはたして。声だかに「日本文化」「一番すぐれている」という意見が多大のようだが、根拠がわからない場合が多い。しかしながら、日本の優れた技術を批判する方たちは、愛着をもめて使っているのだろうか。

アガンベン、カッチャーリ、エスポジトに関しての記事は読む方に夢中になってしまい、今年は読書メモを残せていないほうが多いです。

(同理由でアリストテレス講座、こちらも別に記事で)

8月16日夕方より、プラトニズムおよび、対話篇「ラケス」「国家(ポリテイア」の勉教会をします。
担当者は私。
実施は都内ではありません。メトロで30分くらいの場所です。今までTwitterやブログ経由でもこの話題に関心がある方はメールフォームまたはTwitter DM等でお問い合わせください。夕方より。
ラケスをご持参下さい。一読。国家は必要に応じて資料やこちらで作図しものを、(つくらねば?)
本来の意味のシンポシオン的に考えておりますが。少数定員制。
資料代と講座中の紅茶代で数百円のみ頂戴します。


例外状態
ジョルジョ アガンベン
未来社
2007-10



花とインテリア 華道 アレンジメント作品ブログトーナメント

作成しました△


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加藤 信朗
創文社
1997-07


「後期プラトン哲学の探求」と題して、新宿で8月から10月に合計5回の講座が行われた。
私は日程の都合上、荻原先生の「ピレボス」以降しか参加できなかったのだが、10月11日の加藤新朗先生の「法律(ノモイ)」を受講し、一連の「後期プラトン哲学の探求」講座は一応終わりとなった。
しかし、同時に、我々一般読者をはじめ、かつて研究しテキストを読んできた人々のとっても、探求はこれからであるととう思いがした。
「法律」は来るべき理想的共同体政治の際、時の為政者は人間であるから間違うことは多々あるが、それに先んじて法律を制定すべし、というプラトンの提言だったと思う。
私は「国家」に相応、いやそれ以上に「法律」は読まれてしかるべきであると思うプラトン著作で、それは「ピレボス」に対しても同様に思っている。
しかしながら今日では、法律を「解釈」という名のもとに放埓に解釈するうごきが多い。
これはさながら法による秩序に対して、法をもってしてもカオスのようで、私としては非常に居心地が悪いものを感じている。これは一体どういうことなのか。
政治がどの方向をめざしているのかわかりづらい、これは今回の主題にも挙げられたが、同感である。
我々は何を望んでいるのか。
「法律」のなかで残っている言葉は『戦勝でさえ最善のことではない」とうことで、私はそれに同意する。
世の中には、どこかしかの国とのちょっとした戦争状態を想定しているいるような無責任な言動がたまに眼につくが、彼らはその先のビジョンは語っていない、もしくはなにが目的なのだろうか。
はなはだ疑問である。

受講して、そのことのメッセイジ、プラトンを読んだあとに自らにかえってくる自問自答。
それを各自引き受けてなおかつ、次回の課題にすること、講座のなかで言葉による理解を得た時間だった。

加藤先生からは、今年7月の後期語録を纏められた冊子をいただくことができた。
心して、拝読したいと思う。
メランコリア(アルブレヒト・デュラー)に関しても然り。

納富先生からの「ある」「ない」の問題提起には眼が覚めた気持ちがした。
そうなのだ。
ない、とはなんのか。
日本的、禅的な「無」とは違う。
ない、とは非有とは違うであろう。
このあたりはさらに読まねばならないし、機会があれば耳を傾けなければならない。

アンケートを後日提出することになっているので、この1月以内には提出したが、4名の先生方の話にはそれぞれ、聞きたいことが多く、それは同時にこの先の自分の課題をみた気持ちだった。

鉄は熱いうちに叩けという気持ちで、昨日のことがらを綴っている次第だが、私たちは自分でもこの状況を引き受けて、Oui、Non といえるはずである。そしてその説明も。

11月に衆議院議員会館で、政府および官僚の方々に意見交換をする機会がある。
この機会に、論点を整理し、過去をかんがみ先を見据えたなかでの問題提起ができればと思っている。
あくまで代弁者として、そしてあり方を未来志向で語るという意味で、である。

後期プラトン哲学は、以前から惹かれる著作群で私は、「ピレボス」「法律」「テアイテトス」をフォーカスしていたのだが、ポリス的人間をとっぱらったところの人間論という視点を示された栗原先生の話ももっと聞いてみたい。
また、「ある」「ない」というソフィステスと、今一度線分の比喩、および上昇のモチーフについて(中庸に対してのプラトン特色)こうした話を納富先生からお聞きしたいという気持ちが募のる。それには私がもっと理解を深めている必要があるのだが・・・

第一線で活躍される先生がたの対話的セッションを目の当たりにして、ある意味で大変幸福でした。
数の問題やポピュリズムの問題もあるが、かきのこしておく価値のあるものは書き残しておく、という古代ローマの文学に倣い、肯定も否定もそれは後の問題でリアルタイムの記述を行いプラトン主義の特色のひとつ「同位の結合」「上位への転向」「下位への配慮」はぶれなくていいとおもうのです。それが「幸福」にも通じることだから


思ったのは、プラトンを研究するとき、多かれ少なかれ、「新プラトン主義」も同時に少し研究したほうが、プラトンにおいて、雑多な疑問を整理できるんではないか、ということです。
すくなくとも、私はそう思っています。

色々と不十分なことがあるとは思いますが、12時間以内の雑感および私が思うところの問題提起の一部であります。

先生がた、聴講され同じく空間をともにされた方々、そして後期プラトン哲学という企画を実現するに至った関係者の皆様に多謝。そしてさらにこの企画はつづけて欲しいと思っている研究者の一端からの声として記録しておきたいと思った次第です。



初期プラトン哲学
加藤 信朗
東京大学出版会
1988-01



キリスト教をめぐる近代日本の諸相―響鳴と反撥
加藤 信朗
カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
2009-04








日光市内を通る途中にオーソドックスの教会があり造りはゴシック式なのだそう、今回は通りすぎるだけだったが次回は立ち寄りたい。

『美と光』第二章に次のような記述がある。

「中世の人々によれば、すべて宝石というものは太陽や月の光が地上に降り、大地に浸透し結晶したものであるという。しかもそれらの目に見える光は、より高い精神界の光に照らされて輝く光なのだから、宝玉は、もともとは精神的光の凝ったものなのである。そこで、人々はルビー、サファイアなどの宝石を砕き、粉末にしてガラスに焼きこんだ。13世紀のガラスのもつ深海のような彩りは、この高貴な材質によるとさえいわれるが、この学問的メルヘンは、我々を限りない瞑想へ誘う。大地に浸透して宝石となり長年のあいだ凝固していた光が、今ステンドグラスとして背後の光に照らされ、ふたたび天上の耀きと自由のなかに燃え上がる」(p.208)

ステンドグラスに漠然と興味があった時期はあったがこういうことは考えていなかった。
宝石なども科学的な理解としてはすべて炭素として片付けられている現代の解釈とは正反対の価値観だと思う。
もちろん、その成分を分析して結論づけることは理解として正しいとは思うが、正しさの中からは美や創造というものでおそらく機能的なものしか生まれてこないのではないだろうか。
リアリティを追及する創造・クリエイティヴというものが果たして「面白いのか」と思うことと少し似ている。
(昨年認知科学やプログラミングを目指す人とその分野についての展望を一緒に考えていたときに、思ったこと)

ステンドグラスが最初に作られたのは、1140年のパリ郊外、サン・ドニ(St.Denis)修道院の院長シュジェールらしい。シュジェールはディオニシオスに対する傾倒があったといい、このことはパノフスキーも書いている。

すこし前に春にフランスに行こうかと書いていたのはこのあたりへの興味からで、シャルトル学派の興味からシャルトルへ行ってみたかったのを思い出した。私の旅の動機はほぼエウメネスのようなもので、読書→旅というもの。
時間は十分あったはずなのだが。まだ理解するだけの読書量を得ていないのでなんとなく見送ってしまった。


建築に関しては、心から良いと思えるのは古典主義と新古典主義のもので、初期人文主義者たちの考えがはっきりと表れているフィレンツェ建築に惹かれる。しかしながら、例えば、アルベルティがファサード装飾を手掛けたサンタ・マリア・ノヴェッラももともとはゴシックであり所々その名残はある。
ホテルも13世紀の修道院を改装したものなどは多くあるので、その名残を感じることはできる。
フィレンツェは英国、フランスからの観光客が多い都市だが、この街が15世紀以前の建築を多く有しておりそれが実際に使われていることが理由である。
(関連してローマの建築について「遺跡」というのはちょっと違う。ローマの建築は今なお使えるものがほとんどであり建築と土木技術の高さがうかがえる。あれらは遺跡ではない。ローマの古代建築というのが正しいと私は思っている)

芸術とかアートと言われるもの(表象されるもの)には必ずバックボーンとしての思想がある。
コンセプトといえば今日でも類似した意味になると思う。

シジェールは正面の扉に次のような刻文をのこしている。

「誰であろうとこれらの扉の栄誉を讃えようとするものは、黄金や費用をではなく、この業のための労力について驚嘆せよ。貴い業は輝く。しかし貴く輝く業は、精神を輝かしめる。それは真の光(lumina)をとおして真の光(lumen)に至るためである。」




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三田文學 2014年 05月号 [雑誌]






先週届いた三田文學117号に「井筒俊彦 生誕100年」が特集されている。

まだ読み途中なのだが、「神秘を歩む言葉ー井筒俊彦の暗夜」という納富信留先生の寄稿、「井筒俊彦とキリスト教 存在論的原理としての愛」を書かれた山本芳久氏のテキストが興味深い。

一と多の問題、および「愛(エロース)」「美」、知識としての「光」などはいずれも抽象的なものではなく、存在と実体の根源に関わっている。


興味深いと書いたのは、山本氏が井筒俊彦先生がカトリシズムに対する親近性を存在論の原理として読み解いていたという指摘である。

カトリシズムと哲学は実のところ関係性が深い。信仰か敬虔か、といった問題は1400年代半ばのフィレンツェではフィチーノが両立させようとしていたが(このあたりは社会史をみるとよい)、イスラームにおいてもアリストテレスとコーランは対立しないといったような主張は中世においてなされてきた。
合理主義と神話性が高いように思えるプロテスタンティズムに関しては、ルター説は、キリスト教の本来性を信仰に結びつけたため、実の所一部逆行している面がある。

普遍についての洞察、おそらくそれが両者の差異なのかもしれないが(普遍をあくまで敬虔主義・統計的に導き出すという方法がおそらく現代なのだが、それで十分というわけでもない。)

プロテスタンティズムではある程度の非科学的なものは取り除かれたのだが、しかしながらカトリシズムでは神学という範疇で哲学や数学が学ばれていたのだ。

本文で扱われているベルナルドゥス、ベッケル、「意識と本質」もまた読み直したい。

ところでキリスト教思想を考察していた15-16世紀では、主にヘブライ-カバラ化(一神教/信仰)へ向かう部分と、多神教(ギリシア・ローマ/哲学・自然学)へ向かう部分があるように思うのだが、内面的な問題は枠組みの在り方に関連するために何に価値を置くのかという価値性にも関係する。

フィリアとアガペーを結びつけたのが近代(ルネサンス的な価値観)だと思っているのだが、アガペーとエロースの立場もまたあるように思う。我々が良い(憧憬)と思うものを愛するのも認証、自己保存の一部とはいえ、それは普遍的な原動力なのだと感じる。


・・・・

未刊行作品の「風景」も掲載されている。
じっくり読みたいと思った。

ほかに小説 「仮蜜柑三吉ー蛾」(いとうせいこう)等掲載。

慶應義塾大学出版会
2014-04-10



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後日記入です。
学友有志の会(命名は暫定的ですがメンバーは有志の絆で結ばれています!)をカフェ・ラントマンにて行いました。集まること、言葉を交わすことに意義がある、シンポシオン的意義があると思うのです。
(私は研究もまとめないと・・・・・・なのですが・・・・・・・)

サーモンマリネ。ディルとオリーブが美味しい。

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バッフーンサラダ。(ベリーのソースとレモン)

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ウィナーシュニッツェル。(メインは予約時にチョイス、グーラッシュなどもできるようですがここはあえて)

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デザート+コーヒー。

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先日御輿がでていた表参道にはパレードが。

そして数日前には↓が デモが。

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TTPに意義ある会のデモのようです。
私はパルシステム利用者なので、掲載。いい意味で表参道はパブリック・ストリートだと思っています。


数日後、山手線内で60代後半(あくまで推測)のかたが、「暑いのに、デモなんてまったく意味がない」
と話してるのを聞いて・・・・

あまり運命論者的なことはいいたくはないけれど、
そういう人たちが作ってきた社会・世界の制度やシステムによって子世代や孫世代がその社会的つけを払わされるのだ、という気持ちになってしまいます。すべてをそう断じるほど単純でないにせよ・・・

私とても、悲観論者ではないのです。



悲観論者だったら、何も書くことも読むこともしないでしょう・・・・


すでに論文を終えた学友であい先輩はギリシア講座に通っていたり、新たな勉強を初めていて、私も力づけられました。ちゃんと形にし(できれば)、そして曖昧な形ではなく、自らをごまかすのではなく、取り組みたい。
と日夜思っています。・・・・

当日は、17:00から仕事でした。
当日お会いできたみなさん、朝日カルチャーの情報などもありがとうございます。









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熊田陽一郎先生の「美と光」を読んでいる。

プラトニズム、プラトン、プロティノス、偽ディオニシウス....と続く光と可知性の基底。 スコラ哲学の中でプラトンとアリストテレスを統合させようとしたアルビノス、西欧に偽ディシオニウスを紹介したフランスのエウリゲナなど「プラトニズムの水脈」は大変に読み応えがある。しかし現在は入手不可能な書物となっている。ちくま学芸文庫などで再販されるべき書物である。または講談社学術文庫などで・・・プロティノス「美について」が今年文庫化されたのだから。ノートをとりながら読み進めている。

美とは何か? 装飾、華美、豪奢こういったものは美の本質ではない。善とは何か? 忘却された中で美だけが視覚(認識)を通して、本来性を想起しつつ、「善」それ自体に近づくことができる。
そして知とはなにか? それは光によって照らし出され顕わになるものである。本来性回帰のため、人があるべき姿に近づくために必要なものである。

善さと善について、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」とともに読んでみると、類似性と差異が一層明確になるようにも思われる。


では伝統的美のカテゴリーはどうか。

「高次のものの低次のものへの配慮」
「同位のもの相互の結合」
「低次のものの高位のものへの転回」
「すべてのものが自己を保ち、確乎として自らにとどまること」

プロクロスにおいては、美=即時善として語られる。
 
(フィチーノにとっては、他への益、友愛、志向(目的の達成)などよりローマ的な解釈をしている部分があるように思われる・・・のだが、)
フィチーノも、美といったときに美しい顔、美しい身体などを「目指してはならない」という。「模倣の模倣」がそれに近づくことがないのと同様である。
(※高次と低次を定まった範疇のみとしてとらえないのがプラトニズムの特徴である。
アリストテレスはこの範疇を固定する。というよりも、少なくとも、同じ場所にじっと留まること(身分の固定)という秩序に利用されてきた。位階秩序にダイナミズムの余白を設けないものとして様々な形で流入されている。)

よきものとは、第一次的に「適度」さが筆頭に来る。すなわち時宜をえていること、比、調和のための条件となる。
ものの形、色彩もまた「適度な混合と限定」によって定められる。

こうしたときに、氾濫する「美」がいかに「その場限りのもの」で「本来的なものではない」ことが判るだろう。
古典主義やクラシシズムに対する批判としての感覚重視の態度、感性という個人主義と曖昧な連帯感・・・ 差異を明確にしたのちに、本来的統一というものはあるだろう。しかし、大抵は、明確にしないために、連帯感を作り出すのだろう。

ところで、日本ではよく教育に思想を反映してはいけない、といわれる。
だが思想に基づかない「教育」がそもそも存在するのだろうか?
この次元の自論を持つ方の多くは、「公共性」「公」についても、いわゆる官公庁の管轄を「公」とみなしていることが多い(ように思われる)

そもそも「思想」が何を指しているかも曖昧である。
もっといえば、法と制度のなかに浸透している「恣意」「固定させようとする力」は問われないことが多い。
話がずれたのだが、議論の前提となる言葉の確認も曖昧なままである。そして、日本では「議論好き」を自称する人ほど、他者の声や考えは聞こうとしないのである。・・・「雄弁家」のように主張するだけで論じることにならない。論じるとは、他者の意見と知を理解したうえで、自信の見解を述べることである。それも「あら捜し屋」のような態度ではなく、より善いものにむけてなされるべきだと思うのだが・・・

制度を定める際に、「習合的」になることが多いのは、よりよきもの、という概念が欠落しているのだろうか・・・と思うことも多い。
多くの人は、「思い」「過去の記憶」を中心に主張したりするので、「より善き制度」は、善きものへ近づくどころか、より不確定なコアをもたないものへと改変されていく。性質の違うもの同士を比較して、権威づけられるような人間性への配慮のなさを、感じることが多い。
はたして、学ばなければならないのは、「大人」たちである。
ウィリアム・モリスは、なぜ多くの人が、大学を出たあとにもう何も学ばないという姿勢をとるのか、支配と所有、しかも数量的なものへの偏りを疑問に思っていた。自らが上昇志向のない大人たちが何を「教えられる」のだろうか、といよりも「知」の獲得への憧憬をどうやって伝えるのだろう。
おそらく、そのあたりが問題なのである・・・

熊田先生については堀江先生の講義を聞いたときに論文雑誌に載っているのを拝見したのがきっかけなのですが(もう8年近く前になるでしょうか)、改めて必読するように納富先生から助言をいただきました。
家人は院生のときに熊田先生を存じているようで、熊田先生と丸山先生の講義がまったく同じ時に行われていたとのことです。当時デリダから井筒先生に送られてきた手紙を、丸山先生のゼミが翻訳担当していて、それを手伝っていたとのことです。
なぜ熊田先生の講義にもでなかったのかと思わず口をついて出てしまいましたが、・・・
昨年夏以降、フィレンツェにおけるプラトニズムについて色々と文献をみていたときにも手にとって読んだのですが、改めて「プラトニズムの水脈」「美と光」を読みすすめたいと思っています。


言論と議論を論争と勘違いしている人が多いように思う。
同様に対話はおしゃべりではない。
この論争が行き詰ると抗争に転じてしまうのが日本の議論という状態なのではないだろうか。議論においてまったく意見のことなる人をも説得する力は必要である。それは丁寧な説明と具体性によるものでなければならないし、感情や暴力性によって誘導されるべきものではない。
難しいのは「思いなし」という状態の言表である。
プラトン、ピレボスにおいてパテーマ(パテーマタ)といわれる状態、すなわち、怒り、自身、恐怖などであり、それは「真実」にある記憶や感情といったものが付加するとおきるものである。こうしたものに囚われない言論、言表がロゴスであり、それがおそらく言葉としての生命なのである。・・・・


「汝自身を知れ」=「自分自身をしる事はない」

これはそれゆえに問わなくともよい、知らずともよいということではない。
まったく逆の意味を真理として問われている。
自分自身が、果たしてこの問いと推論は正しいのか?悪しき憶測に囚われているのではないかとの思いはつきないのだが、「思いなし」(ロゴス)はその憶測に光をあててくれるように思う。・・・・
これも「思われ」だろうか?
今になると、フッサールが思考と単なる思われとを差異化していたことの意味が理解できるようも思う。

(しかし、私のような「無知」の人間にとっては思いばかりに付きまとわれる・・・しかも自覚している以上に、そうなのだろう・・・・)

光の作用によって善自体への認識の契機となる。
光の強さは影の認識にもつながり、この影の部分がおそらく、自己とこの世界の認識、足元と闇の認識にも繋がるのかもしれない。

おそらく建築空間は光の認識作用をいかに想起につながる美の空間として創造できるか、を目的としている。空間の対比、光源の中心に立ったときの感覚を通して知る光。その光源を見上げることが上昇の契機としての美=即時善の体験に繋がっていくのである。その場が日常の場にあるか否か、長い年月を考慮するとこの差異は大きい。

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