1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

タグ:フィロソフィア

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2016年12月の記事に書いたが、放送大学の講座において堀江聡先生が新プラトン主義および神名論の講座を行い参加した。(ルネサンス研究会から戻る日だったので、京都から東京駅、そのまま茗荷谷へ移動)
その続きあるいは関連事項として、新プラトン主義の9世紀以降のアラビア語圏での展開についてお話しを再度してもらえないかという話になり(懇親会にて)、堀江先生が私が主催している講座 勉強会(言語文化研究)にてお話ししてくださる運びになったのが1月半ばごろ。

この日は2012年に堀江先生が書いた論文、「アラビア語一神教によるプロティノスの改変に向けて」(岩波書店)および国際基督教大学での講演記録の2種を用いて勉教会を行った。
14時から17時すぎまで、論文の内容を中心に、つまり、アリストテレス哲学で神秘哲学が可能なのか、あるいはプラトニズムにおける偽書のようにアリストテレスにも偽書があり(未だ作者不明)断片としていくつかの著作があるものなども検討する話題となった。

すべてを書き残すことはできないので、(整理はするつもりであるが)記録として、あるいはこのblog記事をお読みになり、ネオプラトニズムやアリストテレス、さらにはプラトン対話篇を学びたい学びなおしたいと思われる方もいるかもしれないし、西洋哲学は西洋だけで完結していると思う向きもまだまだ根強いとは思うので、少々まとめてみることとする。

まずは、堀江先生の論文を少々引用してみよう。

「9世紀バクダードで成立した『純粋善論』が、クレモナのジェラルドによって12世紀にトレドでラテン語訳され、『諸原因の書』(Libre de causis)と題名変え、アリストテレス作として数世紀にわたり一世を風靡した。」

覚えやすいようにこの系譜をまとめてみると、つまり9世紀から12世紀のクレモナのジェラルドの間には西洋哲学は身を潜めている。水脈としてかすかに残っているがそれはここでは立ち入らない。それはそれで重要であり、私としてもそのあたりを研究している...(進行形)のである..

9世紀はアル・キンリ―、10世紀はアル・ファーラビー、11世紀はイヴン・スィーナ、12世紀はイブン・ルシュド(アヴェロエス)となる。
アヴェロエスやアル・ファラビー、イブン・スィーナなどは聞いたことがあるかたも多いであろうし逸話も残っている。




全文はこの岩波の三巻に収録されているので、ぜひお読み頂きたい。


       


堀江先生にエンネアデスのオクスフォード OCT=Oxford Classical Text版の原書をお持ちいただいたので写真をとらせてもらいました。

参加したのは、ギリシア語学習会(放送大学では数学)の小又先生、プラトン研究や勉強会の先輩のEさん、同じく講座でよくお会いするTさん、三田会かつ同窓会同期の陽子さん、前回の新プラトン主義の講座運営されたKさん、昨年電気通信大の院を修了して現在はエンジニアのM君、来春から大学生のAさんほか13名ほどで夜の8時頃まで哲学やプラトニズム、プラトン対話篇などの話で盛況だった。昨年亡くなられた熊田先生の話や大学における哲学研究、また堀江先生がピサやドイツに留学していたころのお話もふんだんに聞くことができた。 
2017年3月19日  14時より
言語文化研究  


この週は私が腸炎で完全ダウンしており(・・・)前日の夕方から早期退院してなんとか会を開催できたのだが、やはり読んだり言葉の力は凄く、開催中はとても集中して思考が働いた(ほう)だと思っている。

いくつか整理しなくてはならないのだが、まずは記録しておきたいと思う。

 



この本は新宿のブックファーストでみつけて即購入した本、発行当時だと思う。

ご参加頂いたみなさまありがとうございます。



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私は専門を西洋思想史、特にルネサンス期フィチーノのプラトニズム、プラトンと新プラトン主義についての受容、その意義としている。意義というのは当時つまりルネサンス期とその後の古典古代学術芸術文学への影響を含む。同時にそれは、浸透したゆえの誤解や変容なども含まれる。

過日、放送大学筑波大学の学習センターで開かれている小又先生の古典ギリシア語学習会の時間のなかで、数十年ぶりに堀江先生とお会いした。わたしは最初の哲学講義履修を堀江先生のプロティノスで学んでいる。初めてテクスト、原典を読む、この時と場所を超えて古典となった多くのテクストにいかにむきあうか。
一者、多なるもの、知性 それらの派出と帰還。
プラトンにおいては太陽の比喩から線分の比喩として語られたもの、またわずかな水脈、つまりはアカデメイア閉鎖後の水脈をつうじて、しかしながらキリスト教にも重要な要素をプラトニズムは持っている。

堀江先生にむかし授業中にわけていただいた論文抜刷りを持参しお見せしたら、1番最初に書いた論文だといわれた。

来年夏からおそらくプロティノスの講読が行なわれる旨もお聞きできた。

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講読内容についてのお話を学習センター所長と小又先生からお聞きして参加させていただき、文献についてもお聞きできた。プラトン対話篇の講座で御一緒している先輩にもお声をかけてこの日、いろいろ対話できたことも。

台風が近づいて天気が危ぶまれたが、このような機会に参加できたことが幸い。













写真転送がうまくゆかないため、後から修正します。
まずは今週のうちに。


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新プラトン主義と錬金術: 神智学の起源をたずねて
アレクサンダー・ワイルダー
UTYU PUBLISHING
2014-06-09



内容は上記参照ください。






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小又さんの古典ギリシア語学習会は数物クラスの後に実施されています。

高嶺さんの注目記事

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Andris Liepa Christmas Gala at Moscow's Kremlin Palace, 15 December 2015. Choreography by Andrey Merkuriev, music by Edvard Grieg


クレムリンパレスでのパ・ド・ドゥ!



<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/wnaYmgHoWcw" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

FBでの友人2名のパ・ドドゥ。Andrey Merkuriev  Ekaterina Krysanova
バレエ、特にフランス、ロシアに関してはFacebookがリアルタイムの舞台情報をしることができて、すばらしい。
ガラ公演といえば、日本未発売のマカロワ記念のアメリカンバレエシアターのDVDが素晴らしいのだが。


素晴らしいダンサー、芸術性は世界各地に存在しつづけている。
しかしそれを知る機会が、出版かつての芸術、文芸に対する尊敬や愛情が反比例的に日本では失われている
。個人的な考えだが、美に打たれるとき、いままでそのジャンルを知らない人も、人や芸術の可能性に気が付くものだ。

・・・パイドロスの人間の原理が参照され、教育や芸術のひとつの礎にならんことを。


ブログネタ
行った場所や気になる場所 に参加中!

2015-10-10-13-24-35

写真はプラド美術館 三菱一号美のポスター。この二種が並んで貼ってあると目立ちます。デザインがいいです。ポスター欲しくなる(購入)デザイン




10月のキーフレーズ モバイル版 インペリアル・プラザの10月の花

  • 絵画技法 油彩とテンペラ混合技法 講座 (画家:古賀郁さんによる)主催
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      10月のキーワード(1)

      1 インターコンチネンタルバリ
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      10 マルガリータ
          山本六三
         エルヴェ・モロー
         TWG
         香港

      image

      このところ忙しくて画像がどれを掲載したかちょっとわからなくなってますが、ヴァニティにいま飾ってるのは自宅で育てたアナベルハイドランジアの自作のドライフラワーです。
      アナベルのドライフラワーはおすすめ。
      今年は華道のお稽古のときに栗を枝で買いまして、ドライフラワーにしています。
      らいでんの赤い美ともあわせたり。

      赤をすがすがしく、みずみずしく使うのは高度な感じがします。
      挑戦してみたい。

      ダンスオブヴァンパイアのチケットをいつとったのか、確認していました・・・・月の舞音も・・・・
      だんだん月のロミオとジュリエット並にいついくのだっけ状態に・・・
      過去語りの記事が閲覧があるのですが
      一応書いておきますと、
      おそらく、2回観劇 オーシャンズ11 (星) 今にいたる親近感もてる公演
      エドワード8世 Misty~ 覚えていない( 月 汗 多分5-7回は観ました・・・
      ドン・カルロス シャイニング〜 (雪 これも覚えていない、初日も行きました。5回は行ったかも・・・S席、A席、B席とすべての席で観たという)
      サン・テグジュペリ CONGA! (花 これも覚えていないくらい観ました・・・貸し切り(真野すがたさんが司会)も行ったような。この公演もS席、A、Bと繰り返しすぎ(めがいくつあっても足りない。そして一度観劇してから春風弥里さんファンに・・・・
      フットルース (雪 梅田 博多)これは梅田2、博多4くらい観ました(見すぎ・・・
      ロミオとジュリエット (月 かなり行ったかも。・・・初日も行きました(東京)大劇場も観ました。役替わりも一度観ました 役替わりを今月放送してました 
      銀河英雄伝説 (宙 大劇場まで行きました、蓮水さんロイエンタールみたさに多分あちらで3公演、東京公演で1回。東京のほうが群舞が揃っていて機材が新しいので見ごたえある。春風さん大さん特出してほしかったくらいの。朝夏さんでキルヒアイス カストロフ動乱お願いします。
      仁 ゴールドスパーク (雪 大劇場で2回。東京で1回
      愛するには短すぎる Heat on Beat (2回みたかも? 今月放送ありますね
      オーシャンズ11 (花 2回取れまして・・・バシャースペシャル期間中(現在
      華やかなりし日々 クライマックス (一日だけチケットとれまして行きました。今月また放送あるので楽しみ
      ダンサセレナータ セレブリティ(星 いわずとしれた涼さん、白華さん退団のため初めて武庫川の近くへ・・ 月組と雪で一度稲葉さんショー観てみたいんですが!
      天使のはしご(星 ギリシアへ行く前に観に行き、追加したかったけれど、翌日にはエミレーツ・・・
      そういえば、去年のキャラメルボックスのときも、翌朝には香港行きの飛行機にのっていた・・・
      復活 カノン (花 あのボーリーンだった蘭ちゃんがカチューシャなカチューシャ物語と壮さんシェンボック、扇めぐむさんのラスト・・・一度だけ観ました
      ・・・・最近のものはカテゴリーから。
      モンテクリスト伯も行きました(一度)
      そして、帰宅したら宙貸し切り公演売り切れてました、なかなか観る機会にあたらないなあと思うのですが、一度くらい観に行けたらいいと思います。
      エクサイター2を花組でやってみたらどうでしょうか・・・あ、でもあえての月でも・・・・
      誕生日のコメントをそろそろ頂いてますが、当日美弥るりかさんのカフェブレが放送されるとか!ありがとうございますスカステ!(今朝気が付きました)

      タワレコから誕生日クーポン来ていたので、1789の実況CD注文してみました。車移動のときに聞くためです!!

      キーワードモバイルがキーフレーズになってました。
      修正します。
      イーゴリ公の感想は次回に!(武装してきた兵士や大公をみて、朝夏さん、真風さん、愛月さん、あっきーさん、怜美うららさんまで容易に予想できてしまった・・・プリンスまなととハーンのゆりかさん。いかがでしょうか・・・

      観劇のことばかり書いてしまいましたが、移動中はプラトンのノモイ 法律 を読んでいます。
      アリストテレス アテナイ人の国制も。

      僭主制、寡頭制の区別があまり周知されてない気がします。
      民主主義か独裁かなんてあまりにも中身の吟味ができないように思います。
      せめて古代以来の4種の政体を取り上げてから現在も吟味すべきでは。
      考えないために出版業があるわけではないでしょう、なにか必要な本ほど流通していないような。
      杞憂とか考えすぎならいいのですけれども。

      我々はどこの立ち位置でなんのポジションにいるのだろう。
      自覚的(フィロソフィア的)に、というのはとても日常的なことだと思うのです。

      アテナイ人の国制 (岩波文庫 青 604-7)
      アリストテレス
      岩波書店
      1980-05-16






        

      追記:トーナメントつくりました お気軽にご参加下さい。
      観劇舞台トーナメントも近々に。

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「「正午、アテネの遺跡では、それほど大きくないオリーヴ樹の幹に、蝉がとまって短い鳴き声を発しています。日本でよく見かける種の蝉より。ひと周り小さいようです。光と土に囲まれ風が、木の幹を涼しく通り過ぎます。
 ムーサの女神たちが歌う声の快さに心を奪われて、寝食をわすれ、干からびて死ぬまで歌い続ける人たちが蝉になった。そういわれています。彼らには神々から、特別な役割が与えられました。学問や芸術、宇宙の秩序など、ムーサの女神たちそれぞれが統括する学芸について、報告をするという役割です。・・・・(中略)
本当の「音楽」(ムーシケー)つまり哲学に従事すし言葉をうむかどうか、セミたちは私たちを見張っているのです。・・・」

「プラトンとの哲学」(岩波新書)より


数日前に、夜22時をすぎてもないている蝉について書いた。
昨日ある研究会へ足をはこび、帰宅するころ23時近くでもはやり蝉は鳴いていた。

蝉たちが見張っている。
それはほんとうにそう感じていたので、「第七書簡」に関するこれ以下の記述をみたときに、なんともいいえない、いやもっと正直にいおう。理由がわからないが涙が出てきたのだった。

現代の蝉たちは、私には歌ではなく嘆きや生き急ぐあまりの悲鳴に聞こえる。
それがそう聞こえなかったのは、今年は京都本能寺境内で、住職から声をかけていただき、読経をきき、40分のあいだ遠くに聞こえる蝉の声に本来の夏の音を聞いたときであった。

まるで、時間を拘束され、発言も強制され、居場所がなく陽の光にあたる時間もなく、なにもわからないまま泣き続けて生成をめざし消滅する・・・何か時代的なリアルタイム性質を、感じ取ってしまったのだ。

帰りの電車にのったとき、あまりにも「唯名論」に傾いている志向に愕然としたのだった。
実、有、普遍、本質これらが、何を意味するか問われないままに、語られることの空しさ。とてもむなしく、知の横断性、そういったかつて私が学びを受けてきた世界観、知識の集積からの断絶を感じた。
感情的理由ではない涙が止まらなくなってしまった。

すべてではないが、私はなにを空虚に感じているのだろうか。・・・・それはここでは言及しない。
おそらく語る機会があるだろうから。

プラトンの言葉を考えつつ、ソフィスト的論駁を読み、先月読んだソフィストの内容を考えるとき。

私がかつて言葉によって力や発想の転換、認識のかけらをひろうことができたように、
なにかしらの言葉、書物、語られ考えつづけられることの、小註解の小さなもののひとつとして、


可能態であるうちになにかしらできればいいと思っている。









精神史における言語の創造力と多様性
納富 信留
慶應義塾大学言語文化研究所
2008-04



世界バレエフェスティバル期間中ですね。
私は一公演のみ行く予定です。

芸術表現についてのバレエについて、納富信留先生の言及が正鵠を射ていると私は思っている。


英国の大学にはカレッジ《学寮があり、多様な分野の人があつまり夕食をともにしながら話し合う機会が日常にあるという。こうしたことの違いが、基礎的な教育でも高等教育にも反映し、その差はあまりに大きな気になってしまう印象をもっている。


インターコンチネンタル バリ Intercontinetal Bal...

8月も半ば....

< 1789 - バスティーユの恋人たち - > (...

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イタリアン・セオリー (中公叢書)
岡田 温司
中央公論新社
2014-02-24

読書メモとはいえ、話題が散乱しそうだったのに、別記事に。
マッシモ・マッチャーリとモダニズムの天使たち、この章で解説されるのはショーレムのベンヤミンの天使は、根本的に「メランコリー」のかたちをとる。

カッチャーリの『必要な天使』第2章では
もともとギリシア、ネオプラトニズムの伝統において天上界における私たちの身分であり、根源のイメージでありう、神と地上のわれわれとの「仲介的存在者」であttからである。(そのため悪魔とあらゆる意味で区別される。
さらに、ソクラテスが対話篇で用いるダイモンも、今日的な感覚でいうところのデーモンとは区別され、これらは、仲介し不死なるもの、神々の血、自然の法則など従来の知に加ええた、本当のところ何なのか、言論で解決できる成熟した、ロゴスを共有できる場を目指した上昇ベクトルを有した「中間者」なのであろう。

我々の中にもいるはずである。
煉獄や死後来世、あるいは義務以上の保守思想に単に迎合せず、書籍・・・過去の先人、あるいは先生がたとの会話のなかで見出せることが。

岡田先生の著書を、成田の行きかえりに読んでおり、改めて気になったところを読書メモ。

ルネサンス研究者でのセレーナ博士のスピーチはどこかアガンベンとエスポジトの中間、あるいはネグリ的なものを感じつつ、大変興味があった。

「哲学とは何か」

私たちの生活とはかけ離れている?もしくは出会う機会が失われている?
最近、理系(というくくりはすきではない)が学問の府として不毛な議論があるうようだが、あいかわらず二者択一なのだ。それがもっとも問題である。
いうまでもなく、海外の大学とは、広い知識を包括的に学ぶ研究ができ、フランス、イタリア、(国際バカロレア)は高校時代に哲学(フィロソフィア)は必須なのだ。

もし公立一貫校、一貫校、私学であっても数学史を選択カリキュラムとし、理系と法学部、文学部の一部の学科は大急ぎでフマニタスについて習得できなれば、狩りに海外にでたところで話題に事欠くと思われる。

日本のクラシックは、ほぼ小3からの受検勉強え習い事もピアノもスポーツもとん挫している状況だ。

文化とは継続性であってはたして。声だかに「日本文化」「一番すぐれている」という意見が多大のようだが、根拠がわからない場合が多い。しかしながら、日本の優れた技術を批判する方たちは、愛着をもめて使っているのだろうか。

アガンベン、カッチャーリ、エスポジトに関しての記事は読む方に夢中になってしまい、今年は読書メモを残せていないほうが多いです。

(同理由でアリストテレス講座、こちらも別に記事で)

8月16日夕方より、プラトニズムおよび、対話篇「ラケス」「国家(ポリテイア」の勉教会をします。
担当者は私。
実施は都内ではありません。メトロで30分くらいの場所です。今までTwitterやブログ経由でもこの話題に関心がある方はメールフォームまたはTwitter DM等でお問い合わせください。夕方より。
ラケスをご持参下さい。一読。国家は必要に応じて資料やこちらで作図しものを、(つくらねば?)
本来の意味のシンポシオン的に考えておりますが。少数定員制。
資料代と講座中の紅茶代で数百円のみ頂戴します。


例外状態
ジョルジョ アガンベン
未来社
2007-10



花とインテリア 華道 アレンジメント作品ブログトーナメント

作成しました△


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加藤 信朗
創文社
1997-07


「後期プラトン哲学の探求」と題して、新宿で8月から10月に合計5回の講座が行われた。
私は日程の都合上、荻原先生の「ピレボス」以降しか参加できなかったのだが、10月11日の加藤新朗先生の「法律(ノモイ)」を受講し、一連の「後期プラトン哲学の探求」講座は一応終わりとなった。
しかし、同時に、我々一般読者をはじめ、かつて研究しテキストを読んできた人々のとっても、探求はこれからであるととう思いがした。
「法律」は来るべき理想的共同体政治の際、時の為政者は人間であるから間違うことは多々あるが、それに先んじて法律を制定すべし、というプラトンの提言だったと思う。
私は「国家」に相応、いやそれ以上に「法律」は読まれてしかるべきであると思うプラトン著作で、それは「ピレボス」に対しても同様に思っている。
しかしながら今日では、法律を「解釈」という名のもとに放埓に解釈するうごきが多い。
これはさながら法による秩序に対して、法をもってしてもカオスのようで、私としては非常に居心地が悪いものを感じている。これは一体どういうことなのか。
政治がどの方向をめざしているのかわかりづらい、これは今回の主題にも挙げられたが、同感である。
我々は何を望んでいるのか。
「法律」のなかで残っている言葉は『戦勝でさえ最善のことではない」とうことで、私はそれに同意する。
世の中には、どこかしかの国とのちょっとした戦争状態を想定しているいるような無責任な言動がたまに眼につくが、彼らはその先のビジョンは語っていない、もしくはなにが目的なのだろうか。
はなはだ疑問である。

受講して、そのことのメッセイジ、プラトンを読んだあとに自らにかえってくる自問自答。
それを各自引き受けてなおかつ、次回の課題にすること、講座のなかで言葉による理解を得た時間だった。

加藤先生からは、今年7月の後期語録を纏められた冊子をいただくことができた。
心して、拝読したいと思う。
メランコリア(アルブレヒト・デュラー)に関しても然り。

納富先生からの「ある」「ない」の問題提起には眼が覚めた気持ちがした。
そうなのだ。
ない、とはなんのか。
日本的、禅的な「無」とは違う。
ない、とは非有とは違うであろう。
このあたりはさらに読まねばならないし、機会があれば耳を傾けなければならない。

アンケートを後日提出することになっているので、この1月以内には提出したが、4名の先生方の話にはそれぞれ、聞きたいことが多く、それは同時にこの先の自分の課題をみた気持ちだった。

鉄は熱いうちに叩けという気持ちで、昨日のことがらを綴っている次第だが、私たちは自分でもこの状況を引き受けて、Oui、Non といえるはずである。そしてその説明も。

11月に衆議院議員会館で、政府および官僚の方々に意見交換をする機会がある。
この機会に、論点を整理し、過去をかんがみ先を見据えたなかでの問題提起ができればと思っている。
あくまで代弁者として、そしてあり方を未来志向で語るという意味で、である。

後期プラトン哲学は、以前から惹かれる著作群で私は、「ピレボス」「法律」「テアイテトス」をフォーカスしていたのだが、ポリス的人間をとっぱらったところの人間論という視点を示された栗原先生の話ももっと聞いてみたい。
また、「ある」「ない」というソフィステスと、今一度線分の比喩、および上昇のモチーフについて(中庸に対してのプラトン特色)こうした話を納富先生からお聞きしたいという気持ちが募のる。それには私がもっと理解を深めている必要があるのだが・・・

第一線で活躍される先生がたの対話的セッションを目の当たりにして、ある意味で大変幸福でした。
数の問題やポピュリズムの問題もあるが、かきのこしておく価値のあるものは書き残しておく、という古代ローマの文学に倣い、肯定も否定もそれは後の問題でリアルタイムの記述を行いプラトン主義の特色のひとつ「同位の結合」「上位への転向」「下位への配慮」はぶれなくていいとおもうのです。それが「幸福」にも通じることだから


思ったのは、プラトンを研究するとき、多かれ少なかれ、「新プラトン主義」も同時に少し研究したほうが、プラトンにおいて、雑多な疑問を整理できるんではないか、ということです。
すくなくとも、私はそう思っています。

色々と不十分なことがあるとは思いますが、12時間以内の雑感および私が思うところの問題提起の一部であります。

先生がた、聴講され同じく空間をともにされた方々、そして後期プラトン哲学という企画を実現するに至った関係者の皆様に多謝。そしてさらにこの企画はつづけて欲しいと思っている研究者の一端からの声として記録しておきたいと思った次第です。



初期プラトン哲学
加藤 信朗
東京大学出版会
1988-01



キリスト教をめぐる近代日本の諸相―響鳴と反撥
加藤 信朗
カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
2009-04




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加藤信朗先生著 『哲学の道』

加藤先生の講座『パイドン 第2期』の初日講義に行ってきました。
前期は2回出席するはずでしたが、第3回は、義理父の病院付き添いのため参加できず、第四回のみ参加し、(このブログにも過去記事 白鳥の歌 セイキロスの墓碑の関して書いてあります)年明けの参加ができて本当によかったです。

ディアクレティケー、一と多の問題は、『ピレボス』を読んでいたときにかんがえ、一部まとめていたことでもあり質問させていただきました。大変丁寧にお答えいただき、講義もお忙しいところを質問・・・
先生の本にお名前を頂けますかと伺ったところ・・・・

『アポロギア』の最後の部分が一番好きなところだから・・・・と、ギリシア語で書いて下さいました。
私にとっては、学ぶことは「名」の問題ではありません・・・
やはり自らの在り方、それが属する世界の在り方の問題なのです。
帰りは、松永氏訳(今回のテキストは先生が指定された松永氏)の『パイドン』を読みながら帰りました。

哲学の道―初期哲学論集
著者:加藤 信朗
販売元:創文社
(1997-07)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る



講義の前には、慶應義塾言語文化研究所主催『ウェルギリウスとホラーティウスーラテン文学公開講座』で第2回目講座(日向先生の講座)でお会いし、同席した他大2年生でイタリア語やラテン文学も学ばれているIさんと新宿でお会いしました!Iさんはシエナに留学されるので、その前に会いましょうといっていたのが実現できてよかったです、ほんとうにイタリア、美術、都市の話がつきませんでした。
年始に、京都大学・助手の山下太郎氏に、公開講座の資料を(わたしの書き込みがありますが・・・・)郵送でシェアしたときにIさんの分も用意したので、それをお渡しできたのでよかった。
本当に、学ぶための意欲は愛情が必要なのだ、と思いました。


山下氏がお礼に・・・・とご自分のサイトで夏の講座の資料を公開してくださいました。
サイドバーのリンクからもいけますが、以下のページです。

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昨年の夏に山の学校でラテン語の夕べを開催しました。そのときの発表原稿と資料を公開します。

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1月30日には書籍も出版されます。
 題名:ローマ人の名言88
  著者:山下 太郎
  出版社:牧野出版
  発売予定日:2012年01月30日
  発行形態:単行本
  ISBN: 9784895001526 (4895001520)
  税込価格:1,470円

  こちらから予約できます。








ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)
ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)
著者:プラトン
販売元:講談社
(1998-02-10)
販売元:Amazon.co.jp






ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
著者:プラトン
販売元:中央公論新社
(2002-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


朝日カルチャー 講座より(思想)で最


慶應義塾大学教授 納富 信留

講座内容
プラトン『ソクラテスの弁明』は、西洋哲学史で最大の古典といわれます。一語一句にまでに込められた意味は、テキストをじっくりと読み解くことで初めて明らかになります。本講義では、最新の研究にもとづく新訳をもちいて、ソクラテス裁判にプラトンが見た「哲学」の真意を探っていきます。
 
 
※テキストとして、独自の翻訳(プリント)を配布しますが、既存の翻訳と比べて読むことをお勧めします。
『講談社学術文庫、あるいは中公クラシックスなどの『ソクラテスの弁明』。

日時10/24〜12/26
月曜
10:00-11:30
2011年10/24, 11/14, 11/28, 12/12, 12/26

講座 慶應義塾大学教授 納富 信留


講座内容


プラトン『ソクラテスの弁明』は、西洋哲学史で最大の古典といわれます。一語一句にまでに込められた意味は、テキストをじっくりと読み解くことで初めて明らかになります。本講義では、最新の研究にもとづく新訳をもちいて、ソクラテス裁判にプラトンが見た「哲学」の真意を探っていきます。
 

日時:10/24〜12/26月曜10:00-11:30 2011年

10/24, 11/14, 11/28, 12/12, 12/26

 
※テキストとして、独自の翻訳(プリント)を配布しますが、既存の翻訳と比べて読むことをお勧めします。
『講談社学術文庫、あるいは中公クラシックスなどの『ソクラテスの弁明』。

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http://www.asahiculture.com/LES/list.asp?JCODE=0001&CACODE=00&PJ=1&NECODE=201110&PCOCODE=02#02



朝日カルチャーの講座紹介文より。
私も受講予定です、加藤先生の講座は申し込んでいたのに前半2回は行けませんでした(諸事情と手続き上の問題です)中世思想の山内先生の講座、柄谷行人氏の対談(柄谷さんは今は日本に完全に帰ってきてるんでしょうか?)も秋はあります。講座新設については学友からの教えていただくことが大変多いです。



追記*

講座で用いるハンドアウトは来春出版される納富先生による新訳です。
途中受講でもお時間とプラトン・ソクラテス・フィロソフィアに関心がある方に受講をおすすめします。
もっというならば、時間を創って聴きにいくべき内容です。





5
有(ある)と非有(ない)これらについて一つの例を。というのは、意味や価値というものが酷く一面的になっている、と思われるため。

以下、「中世哲学史物語」聖アンセルムスの項の説明ページから引用。

−−私は思い出す、オーディションのためにチネチッタ映画撮影所にやってきた美しい少女に、有と非有との違いを説明しなければならなくなった日のことを。

「で、きみは何をしたいの?」
「女優か、ヴェリーナ(テレビ・アシスタント)の仕事をしたいです」
「じゃ、君が女優になりたいのは、有のためなの、それとも非有のためなの?」
「有のためです、女優になるためです」
「オーケー。じゃ、女優の有がどういうことで、女優の非有がどういうことか説明してあげるよ。きみが女優をやり、有名となり、雑誌の表紙にきみの写真が載り、サインをしたり、テレヴィに客として出演したり、たくさんお金を稼いだりしたいのなら、いいかい、こういうことはすべて、女優のノンエッセレ、つまり見せかけなのだよ。」

今日ではエッセレのように仕掛けることで、背後にいるさまざまな人びとが(実践にはかかわらない)利益を得るシステムになっている、とでもいうべき、かもしれない。
今日では、見せ掛けが本当のように思われている。

現に見せ掛けで得るものが、いかほどのことか。
だがこの見せかけですら、容易には動いてはいかない。ノンエッセレなしの生き死にがむしろないかのように思えることが・・・問題なのではないだろうか、と思うことがある。

ともあれ、上の対話は以下のように続く。

「じゃ、有とはなんですか」
「君の目の前にいる人が笑ったり、感動したりするのに気づくとき、君が内心に感じるもののことさ。だってね、そういうときにきみは”ほんとうに”女優になったこと、つまり、きみのものではなくて作家のものだった感情を、観衆という他人に伝達したことを悟るのだからね。しかもこの気持ちは世のあらゆる職業にも役立つだろうし、ひょっとして、無職の人びとにも役立つだろうよ。」


あらゆる生には有がある、召命とはこうした意味のもとにあるのだと私には思われるのだが、基本的な構造が近代に基づいているにもかかわらず、中身は不合理であることがままある。要するにシステムだけが近代化しているように「見せかけて」あることが問題なのではないだろうか。

そして仮に、「エッセレ」を実現している人がいたとしても、それを無視するか理解できずに、見せ掛けを追ってしまうのではないだろうか。

ルチャーの意見や、サン・デグジュペリが書いたことは正鵠を得ているのだが、「生きなければならない」と絶対化された人間は果たしてこの矛盾をどう位置づければよいのか。
ことは楽観的とか悲観的といった問題ではない。

しかも有をに近づくほど・・・、ノン・エッセレの立場にはもはや戻れない。
これが多くの人がもつジレンマなのではないだろうか。

(もはや、気晴らし程度では済まされない問題となってくる。そして、それほど気に病むことでもないとか、大したことではないとか、楽しみが足りないとか言われることのほうが・・・ダメージが大きいのではないだろうか)

実践とテオリア、探求は本来は切れていないはずである。切り離されたときに、それらはまた有機的な繋がりを失い、「ことば」自体も・・・「物質」もなくなるのではないだろうか...つまりより「有(ある)」をもとめるべき立場の人が実のところ「非有(ノン・エッセレ)」を目的としていることに無自覚になりそれが「あたりまえ」となるとき、「得ていた」と思われたことが「失われて」いるということがおきているのではないか。


http://love.blogmura.com/tment_tbe/10931/wcnslwc2tfh5

5

力と他者―レヴィナスに力と他者―レヴィナスに
著者:斎藤 慶典
勁草書房(2000-11)
おすすめ度:5.0
販売元:Amazon.co.jp


タイトな日常が続いていますが、帰宅後(普段あまり観ない)TVをつけると広島の慰霊に初めてアメリカ大統領が出席し、イギリス・フランスの代表、国連事務総長も出席したと報道されていた。イギリスからはディビット・フィットン氏が出席しコメントも流されていた。(フィットン氏は「The Age of spupid」の上映会とレセプションにも出席してコメントをしていたのをよく覚えています。

ところで私はこの報道を観ていて、やはり永遠平和とは何を指すのか、それが可能ならばどうすればよいのか(可能性はある、のである)ということを思った。ホロコースト、ナショナリズムが起きるとき、それが力による暴走状態になるとき、それを行使するのはまた人間である。そうせざるをえない状態を作り出すのは力と権力、権威とともに「良いことをしている」という信念でもある。できごとが繰り返さないためには、これらの人間心理や構造、社会的な力というものが何であるか、それが明らかにならない限りは、「繰り返し起こる」--ということだ。保有されてるだけで、地球上の生命をすべて殺戮することが可能な力(核)はすでに「在る」のであって、ある方向性によってはそれはいつどこでも可能なのだ。・・・・あまり意識しないでも生きていられるが、それは起こってしまってからは遅いことだし、現に数十年前にも、それも2度も起きていることだ。このことを「自ら体験しなければ、すべて他人事、悲劇的なできごととしか捉えられないような心情が国内で蔓延していくことはとても危険である。

他者の死とはなにか。
映像をみながら、私は斎藤先生の「力と他者」を思い出していた。

「私たちがそれに、「死」を認める「個体」は、いったいどこで成立するのか。私たちがそれに死を認める個体が個体として成立するのは、私がそれに「顔」を認めるときだ、と言いたいのである。通常私たちは、血液中のT細胞や腎臓に「顔」を見ることはない。だから、それらは「死ぬ」わけではないのだ。逆に私たちは、友人に「顔」を、犬や猫に「顔」を、場合によっては子供が可愛がって飼っている金魚や虫に対して、あるいは自分が丹精こめて育てた植物に、「顔」を認めることすらあるのではないか。私たちはそれらに向かって「語り」かけはしないか。すなわち、応答しはしないか。だからそれが死んでしまったとき、なんとも遣り切れない気持ちになるのではないか。たとえば「哀しみ」という感情に、あるいは「憤り」という感情に、襲われるのではないか。」

「ユダヤ人のガス室送りを命じたナチの幹部は、彼らひとりひとりの「顔」を見なかったから、見ずに済んだから、いとも簡単にそれの「抹消」を命ずることができた、と考えられないだろうか。あるいは戦争を、忘れないようにしようと−−、私たちは他人に対してすら、いつも「顔」をみているわけではないのだ。逆に私たちは、場合によってはある個体が「顔」をもっているがゆえに−−そこに「顔」を見てしまうがゆえに、その個体に「殺意」を抱くことがありうるのではなかったか。」(p.196-7 終章 他者の/と死)


もしも国内ですら、「被爆者」が「他者」であると都市民が想い始めたり、過去のことであると思うだけの感慨にひたるだけならば、こうしたことはいくらえも興りえる可能性をもっている。私たちは、無意識のままに「加害者」となっている。加害者を「支えている/出現を容易にする」ということかもしれない。奇妙に聞こえるかもしれないが、アメリカや英仏の戦争大儀は「民主化」なのである。暴力はつねに存在するが、「大義」が「正義」として語られるときに、たいていは逆のことが生じている。日本の場合もそうである。
私たちの意識はどこまで変化しているのか、考えられた結果により「繰り返してはならない」という転換になっているのか。人間にはさまざまな形で「他者」性がつきまとう、極端にいえば、「どうなろうが知ったことではない」という感情や、自分の利害に関係することには興味をもつが、利害がかかわらなれば何の興味も示さないという人も多いのだ。相手個人個人のことを知らないのに、「憎悪」「蔑視」が生じるとき、それはその人や集団のアイデンティティと結束に利用される。
こうした構造が今もなくなっているとか改善されているとは思えない。

それではなぜ、今年は西欧から参加したのだろうか。
彼らにとっての他者は明らかに存在するその一方で、矯正すべき「望ましくない」「核保有」が世界に生じており、その排除のためだけに、それが主な原理として、都合のよい、目的達成的なだけの「平和」へコントロールいていくためにならないことを願っている。

感情的なだけでなく(感情は風化する)構造的なレベルで語らねばならないのだが、日本ではあまり・・・というかほとんど見かけない。一方で感情的な民衆裁判的な意識もあまり変化していないように思われる。
だから「一方で核の抑止力は必要だ」というコメントは、曖昧で誰にとってももはや意味を持たないのであり・・・根源的な議論を含んでいないことにある。答えを重視する人が多いが、「問題」を発することがなければ、何も解決にも向かわないと思われるのである。

アメリカ側のおそらく保守的な意見では「そのような必要はない」と応えるだろう。国内でもそうした意見はよく見かける。
おそらく「実存」の倫理にギャップが生じているのだろうが、そのギャップが討議されなければ、形だけ、または時間とともに薄れて忘却されるような感情レベルの問題としてまた放置され(繰り返される)可能性が多いのではないだろうか。現に日々のメディアやありふれた対話の中ですら、曖昧なアイデンティティを支えるための、排除的「他者性」はありふれている。こうしたものが、状況次第で暴発しないためにも、認識自体をも振り返らなければならないのではないだろうか。