<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> 
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="ja">
<title>1DAY-25HOURS</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/" />
<link rel="service.post" type="application/x.atom+xml" href="http://cms.blog.livedoor.com/atom/blog_id=335338" title="1DAY-25HOURS" />
<modified>2008-07-21T21:31:07Z</modified> 
<tagline><![CDATA[デザイン・フォー・ライフ25時間目
]]></tagline> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica</id> 
<author>
<name>unica</name> 
</author>
<generator url="http://blog.livedoor.com/" version="1.0">livedoor Blog</generator> 
<copyright>Copyright (c) 2008, unica </copyright>
<entry>
<title>アンジュラン・プレルジョカージュ『メディアの夢』『MC14/22』</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51444586.html" />
<modified>2008-07-21T12:30:51Z</modified> 
<issued>2008-07-21T07:53:47+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51444586</id> 
<summary type="text/plain">アンジュラン・プレルジョカージュの「ル・パルク」でのアプローチ・コンセプトに惹かれて、メディアの夢、MC14/22も購入して観てみました。

まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文？がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51444586.html">
<![CDATA[アンジュラン・プレルジョカージュの「ル・パルク」でのアプローチ・コンセプトに惹かれて、メディアの夢、MC14/22も購入して観てみました。<br>
<br>
まずmc14/22の感想から。<br>
というのもチャコットwebマガジンの批評文？がかなり酷いものと思い。<br>
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して（表現やコンセプトを理解しようともせず）いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。<br>
<br>
まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。<br>
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。<br>
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。<br>
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。<br>
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。<br>
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。<br>
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。<br>
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。<br>
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。<br>
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。<br>
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。<br>
<br>
机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。<br>
（遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている）<br>
<br>
<br>
同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。<br>
<br>
『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。<br>
<br>
関心がつきない２作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。<br>
<br>
アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも２つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。<br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>パリ・オペラ座　『ル・パルク』　DVDと追記</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51438768.html" />
<modified>2008-07-14T11:36:11Z</modified> 
<issued>2008-07-13T23:57:54+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51438768</id> 
<summary type="text/plain">レビューを追加したのでここにも掲載します。

2008年「ル・パルク」公演の際に会場で購入しましたが、再生に問題はなく日本国内のDVDプレーヤーに対応しています。

イザベル・ゲランとローラン・イレールによる初演キャストのパリ・オペラ座の「ル・パルク」です。ジャ...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51438768.html">
<![CDATA[レビューを追加したのでここにも掲載します。<br>
<br>
2008年「ル・パルク」公演の際に会場で購入しましたが、再生に問題はなく日本国内のDVDプレーヤーに対応しています。<br>
<br>
イザベル・ゲランとローラン・イレールによる初演キャストのパリ・オペラ座の「ル・パルク」です。ジャケット写真は3幕のパ・ド・ドゥのもの。<br>
<br>
１幕、２幕の衣装はフランス・ロココの時代、ヴァトーの雅宴画を彷彿とさせる衣装がオペラ座のダンサーに大変似合っています。音楽は全幕モーツァルト。描き出されるのは、普遍的な愛の葛藤と苦しみ、その聖性が大胆に表されていて、その普遍さゆえに現代・モダンな舞台装置や「庭師」の存在などがシャープかつシュールな空間を演出しています。ローラン・イレールが素晴らしい。<br>
ヒロインは『クレーヴの奥方』からインスピレーションを得たそうで、恋を拒み、自らに悩み、純粋であろうする意志をもった女性像で大変興味深い観ました。イザベル・ゲラン、ローラン・イレールは共にこの初演ファースト・キャストです。<br>
オペラ座のコンテンポラリー作品の表現の深さ、解釈の奥深さ、テクニックの高さを観られるDVDだと思います。★を一つ減らしたのは、カメラ・ワークがダンサーに近すぎる時があり、実際の舞台での全体的な雰囲気・空間が観られない部分が１幕にあったためです。<br>
<br>
個人的に、１幕、２幕もとてもすきな作品です。<br>
『クレーヴの奥方』も読んでみましたが、成る程・・・と思う文体でした。<br>
文体はシンプルなのですが、心理描写が大変細かいのですね。<br>
<br>
ロココ・美術については、『世界美術大全集』や『ルーブル美術館』の大判図録などをみるとよくわかります。とてもあの時代のフランス的な部分(衣装や振る舞い）とそれに抗うような愛や存在の純粋さ聖性の部分がでている作品だと思います。＞ル・パルク<br>
<br>
ラファイエット夫人自身、ロココの時代の人なのに、アンリ２世の時代の世界を描きだしているところで、きっとロココの世情に違和感を感じていたのでしょう。<br>
フォンテーヌ・ブロー派などのまだ合理的精神で整理しきれない心情や感性、そういったものも人間には必要なのだとそんな気がします。<br>
<br>
アンジュラン・プレルジョカージュはそれを動物の部分と語っていますが、なんというか、前近代的な部分、そこには合理性では片付けられない複雑で繊細なものがあるのだと思うのです。そういった問題も、普遍性＝モダンといえる。<br>
こういった問題をバレエの舞台で表現できる・しようとするところがとても興味深いところです。<br>
<br>
http://www.amazon.co.jp/gp/product//B0015U42FI/ref=cm_rv_thx_view]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>インディ・ジョーンズは聖書考古学者・・・のはず</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51431977.html" />
<modified>2008-07-04T13:59:33Z</modified> 
<issued>2008-07-04T22:59:33+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51431977</id> 
<summary type="text/plain">インディ・ジョーンズの19年振りの最新作を見にいきました。
このシリーズはたしか２、３辺りを小学生のときにみて結構覚えていました。
あとから考えてみると、インディは聖書考古学者のようですね。
特に１作目と３作目はそのようです。アークにまつわる話やら聖杯伝説...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51431977.html">
<![CDATA[インディ・ジョーンズの19年振りの最新作を見にいきました。<br>
このシリーズはたしか２、３辺りを小学生のときにみて結構覚えていました。<br>
あとから考えてみると、インディは聖書考古学者のようですね。<br>
特に１作目と３作目はそのようです。アークにまつわる話やら聖杯伝説など・・途中に挟まれる部分が史実の部分もあるのでけっこう楽しめます。<br>
たとえアメリカハリウッド映画が、パンとサーカスのサーカス部分、アメリカン・ソフトパワーで、娯楽を通じて、政府が浸透させたい価値観を振りまいていても、面白い部分はあります。<br>
<br>
今回は外敵がソ連。けっこうあからさまです。<br>
外敵を描くときに、個別の兵士の扱いがまったくパーソナリティを無視しているのはあいかわらずです。ナチスの兵士だったら、ソ連の兵士だったら、どう死んでもいいという部分はあいかわらず感じてしまいます。<br>
<br>
それよりも気になったのは、南米の古代文明を異星人の文明、と解釈しきってしまうところでした。自分たちよりも高度な文明を先住民が古代にもっていたと思うのが嫌なんでしょうか。保守層はそう思うのかもしれません・・・<br>
ナショナル・トレジャー２で、コロンブス以前に失われた文明が、と歓喜していたのとはちょっと趣が違うような気がします。あちらはアメリカはこうあるべき、というような立場なんでしょうか。大統領はこうあるべき、というメッセイジがとても強かったり、政府は真実を隠蔽しているとする立場ですよね。ディズニーはフリーメーソンの立場なので「より本来的」と思うほうを志向するのでしょうか。どちらも反自然主義だとは思いますが・・・<br>
<br>
話がそれましたが、古代文明＝宇宙からもたらされたもの　という神話の位置づけはアメリカにとってとても便利な価値観です。<br>
古代文明＝宇宙からもたらされたもの　その宇宙を開発したり研究していて最先端にいるのはやっぱりアメリカ、というアイデンティティを形成できるからでしょう。<br>
そう思いたい気持ちはわかりますが・・もう少し冷静になったらと思ってしまいます。<br>
<br>
<br>
軍事防衛と、宇宙開発は期待と不安で際限がないものです。<br>
だからそこに予算を費やしていくことも実は際限がない。<br>
そして、軍事に関わる企業と共和党の繋がりも無視できません。<br>
巨大な利潤がそこにはあります。<br>
そして、常に、必要以上の外敵の脅威が、多国籍他民族の国民を統一するためには必要なのだと、・・もっともそんな単純なことでは説明がつかない部分は沢山ありますが、すくなくともそんな単純な部分がよく反映されていた映画だと感じた。<br>
<br>
映画自体は面白いだけに、けっこううーん、と思ってしまいました。<br>
そう、映画自体は結構面白いです！それはそうなんです・・・<br>
ハリソン・フォードもよかったですけど、息子役の子も嫌味がなくめずらしく感じがよかったです。それになんといってもケイト・ブランシェットが。私好みのおかっぱなソ連将校がやたら似合っていました。何をやってもはまりますね。<br>
エリザベスと同じ時期にとっていたのかな・・・なんて思いながらみていました。<br>
<br>
しかし原子爆弾を冷蔵庫で防いで全然無傷だなんて、それもどうかと思います。<br>
いろいろとよくできているだけに、勘違いしてしまう人が多いとどうなのかと思う映画でした。<br>
<br>
余計なことですが、インディよりも花より・・（私は漫画も読んだことがないのですが；）のほうが売り上げが大きいというのも・・やっぱり、ゆとり内容になってから、世界史、世界地理、世界の文明・文化をまったく教科書で扱わなくなって、興味自体いだけない人が増えてるのかもしれません。<br>
<br>
前倒し内容では多少、内容ももどると思いますが。<br>
それでも世界四大文明もしらないで大人になるのはどうかと思います。<br>
高校では世界史をやらない人も多いですしね・・・<br>
<br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>『ラフマニノフ』　原題　ライラックの小枝</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51394261.html" />
<modified>2008-06-04T14:16:41Z</modified> 
<issued>2008-05-29T09:22:59+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51394261</id> 
<summary type="text/plain">http://rachmaninoff.gyao.jp/

最近映画も観られてないのですがラフマニノフは観ました。
予告編よりもずっとよかった、というかある意味苦しかった、他人事として感動するというのではなくて、始終共感してしまって。

幼少時のトラウマ、また望郷の念、単に出来事と...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51394261.html">
<![CDATA[http://rachmaninoff.gyao.jp/<br>
<br>
最近映画も観られてないのですがラフマニノフは観ました。<br>
予告編よりもずっとよかった、というかある意味苦しかった、他人事として感動するというのではなくて、始終共感してしまって。<br>
<br>
幼少時のトラウマ、また望郷の念、単に出来事としてとらえられきれないほど実感としてわかる気がしてしまいます。ただ帰りたいと思うのとも違う、「本当にいる場所がなく、いるべき場所がみつからない焦り」価値観のギャップ、それら諸々の問題です。物質的に豊かなら満足できる人もいる一方で、存在根拠が満たされないと苦しいばかりの人もいます。創作や内面性で満たされているときだけ「生きている」と感じられるという実感・・・<br>
<br>
幼少時ズヴェリに教えられるときの約束のシーンはどきっとさせられます。<br>
「嘘をつかない」「自慢しない」「裏切らない」<br>
セルゲイと教師両方の心情が解るだけに・・・<br>
後に演奏会のシーンで客席に姿があったときは少しほっとしましたけれど・・<br>
時代・世代の交代や継承、人から人へ継承されていくこと、そのもの・重みが感じられた。技術はそれを体験として持つものからインスピレーションと実体の技術として伝えられていくのでしょう、それゆえに技術の「生きたままの」継承がいかに重要か、重要だったかが解るというか・・・<br>
<br>
<br>
いろいろあるのですが、1900初頭のロシアのアーティストたちは本当に大変だったとニジンスキーやバレエ・リュスの映画のときと同じような目線でみていました。<br>
ニジンスキーが帰りたいと願ったロシアの大地はもうなく、帰れたとしてももうロシアはなくソ連しかなかったこと。二重の喪失が彼らから離れることはなかったと思う・・・苦しいです。<br>
<br>
ロシアの、スラブの豊かさ厳しさ、美しさが旋律になって流れている。<br>
<br>
欲をいえば、一楽章くらいずっと聴いていたいと思う。<br>
映像のコラージュと音楽のまとまりでみせる部分があってもよかったかと思う。<br>
<br>
他にもありますが、個人的な感傷が入ってしまいそうなので・・<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>パリオペラ座バレエ「ル・パルク」</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51391740.html" />
<modified>2008-05-26T15:29:30Z</modified> 
<issued>2008-05-26T23:40:58+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51391740</id> 
<summary type="text/plain">パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。

プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、...</summary> 
<dc:subject>バレエ鑑賞</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51391740.html">
<![CDATA[パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。<br>
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。<br>
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。<br>
<br>
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。<br>
<br>
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。<br>
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。<br>
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる（いやできないかもしれない不可能さ）をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・<br>
<br>
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。<br>
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。<br>
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。<br>
<br>
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。<br>
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。<br>
<br>
<br>
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。<br>
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。<br>
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。<br>
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。<br>
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。<br>
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。<br>
<br>
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。<br>
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。<br>
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性（共に意識的な人間存在）が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。<br>
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。<br>
<br>
まだまだ書きたいことはあるが、第３幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか？肉体、生きた身体を物質化する振付（と呼んでよいのだろうか）は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。<br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>本にまつわる話　　</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51380752.html" />
<modified>2008-05-16T11:43:12Z</modified> 
<issued>2008-05-16T20:43:12+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51380752</id> 
<summary type="text/plain">the most astonishing picture-book; and all new and true.

Charles Dickens.


このディケンズの短編の表現にはっとさせられた。
素晴らしい絵本たちに出会う子供時代。
子供たちにとって、それらは御伽噺・物語でも「本当のことで・あたらしいこと」に感じられ、...</summary> 
<dc:subject>美術・ART</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51380752.html">
<![CDATA[the most astonishing picture-book; and all new and true.<br>
<br>
Charles Dickens.<br>
<br>
<br>
このディケンズの短編の表現にはっとさせられた。<br>
素晴らしい絵本たちに出会う子供時代。<br>
子供たちにとって、それらは御伽噺・物語でも「本当のことで・あたらしいこと」に感じられ、そして楽しく生き生きとした体験となるのだ。<br>
まるで本当に体験するように、本を通じて、出会う物語についてシンプルに描写されている。<br>
<br>
そして以前図書に関する講演で聞いたことを思い出したのだが、丁度小学生の４・５年生ごろから、いわゆるノンフィクションや科学・自然絵本などに興味が移っていくらしい。<br>
ディケンズの描写から、やはり幸福な子供時代という時期に、本を通じて出会う楽しさの原体験が作られるのだろうと思う。<br>
ディケンズの絵本の描写は、美しい自然の中で、雨だれを見たり、風の音を聞いたり、雪が降り積もるのを眺めていたり、しかも、とても創造性の豊かな中で--そんな体験とともに語られるのが「絵本」と「物語」の話なのだ。<br>
<br>
ディケンズの時代ではこれは子供時代の当たり前のことだったのだろう。<br>
では今はどうなのだろうか。<br>
本を通じて得られる楽しみ、新しい話、物語・・私の場合は歴史好きなのもありそういった分野で新しい発見や、世界観を新たにさせてくれる本や文献を読むのはとても楽しい。そういう「楽しみ」をもてるのもやはり子供時代のある時期にある程度もてるかもてないか決まってしまうのかもしれない。<br>
<br>
<br>
私も多くの絵本や童話を手にした。多くは今はおそらく廃刊されている、ヨーロッパや世界の童話や伝承などの本だった。絵もすばらしく、その風土や文化が伝わるような色彩とデッサン、風景がその土地の画家によって描かれていた本だった。<br>
おそらく小学館から出ていたシリーズだったと思うのだが、今そのような本は書店にはない。話がすきでも、色や絵柄があまりにもアニメ調の平面的なもので、デッサンもデフォルメされすぎている。これは原風景にはならないだろう。<br>
人が考えるきっかけとなるのは、ヤスパースによれば「驚き」がもっとも最初の動機である。異文化を感じる絵柄、すくなくとも物語の世界観を写しているような絵でなければ、挿絵の意味がない。文字という像を持たない表記から、イメージを獲得する経験がないと、文字も絵も解読できなくなるのではないだろうか。<br>
<br>
<br>
ところで今、読んでいるのは、山形孝夫氏の「聖書物語」（旧約・新約）である。<br>
山形孝夫氏はフォークロアな面やオリエント史の立場を含めて書かれていて大変面白い。今まで「レバノンの白い山」なども読んだが、文学と伝承の記述としての「聖書」がまとめられている。文字記述として残っていない、古いオリエントの伝承や神話も、姿を変えてそこには痕跡を残しているのがわかる。<br>
そして嬉しいのは素晴らしい絵画がそこに添えられている。<br>
ルネサンス、バロック、マニエリスム、中世、北方ルネサンスの代表的な絵画。<br>
絵画には美術史的なシンプルで解りやすい解説も載っている。<br>
カラバッジオの「聖マタイの召命」（ローマで実物をみたときはしばらく立ち尽くしてしまった）、モローの「出現」（サロメ）、シャルル・ルブランやカラッチ、本とホルストなどなど。<br>
90年代の良書がまた多く出版されていたときならば、おそらく3500円以上のハードカバーで出版されるべき本だと思う。勿論現在の版形でも手ごろでみやすいが。<br>
<br>
というのも、昨年、巌谷國士さんの関連であるギャラリーで聞いた話で、ハード体裁で出したいが、なかなか最近の出版業界ではできなくなっているという話を聞いたのを思い出したからである。<br>
出版ではますます「売れる」「売れない」という基準が多数を占めているのは残念なことだと思っている。企画段階から、「売れる理由」「類似本」を理由として重視する傾向がある。<br>
<br>
それでは、良い本は出版されないだろう。<br>
現実に欲しいと思って買いたいと思う本がほぼ絶版や重版未定のことが多い。<br>
価値ある本が今後も多く出版されていて欲しいものだと思う。]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>モーリス・ベジャール追悼公演「ギリシアの踊り（タラサ）」「火の鳥」「春の祭典」</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51376060.html" />
<modified>2008-05-16T11:53:17Z</modified> 
<issued>2008-05-11T23:10:34+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51376060</id> 
<summary type="text/plain">東京バレエ＠ベジャール追悼公演にいってきました。（5/11）
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。

...</summary> 
<dc:subject>バレエ鑑賞</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51376060.html">
<![CDATA[東京バレエ＠ベジャール追悼公演にいってきました。（5/11）<br>
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。<br>
<br>
勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・<br>
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。<br>
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。<br>
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。<br>
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。<br>
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現（世界観ともいえる）が現れるには、必要なものがある。<br>
それが、よく出ている舞台だと思った。<br>
<br>
ギリシアの踊りでは中島周さん。<br>
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。<br>
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。<br>
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。<br>
<br>
始まりは終わり、終わりは始まり。<br>
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。<br>
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。<br>
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。<br>
<br>
火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。<br>
<br>
そして「春の祭典」<br>
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。<br>
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。<br>
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。<br>
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか？<br>
男/女はあきらかに異種として描かれている。<br>
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」（フロイト）でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。<br>
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた（選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である）犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・<br>
<br>
舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・<br>
舞台の上には、それが見事に再生されていた。<br>
素晴らしかったと思う。<br>
<br>
ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。<br>
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。<br>
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ（優しさ）と「自ら再生する」力を自覚していたように。<br>
そしてその価値を守ったひとがいたように。<br>
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。<br>
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。<br>
<br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>機能主義・・・</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51359177.html" />
<modified>2008-04-25T09:14:43Z</modified> 
<issued>2008-04-25T18:14:43+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51359177</id> 
<summary type="text/plain">機能主義・認知科学は人間の「心」の状態を作り出せるか？という目的をもっている。機能主義や認知科学の立場の本を数冊よむに従い、教育の方法や、社会現象の捉え方・解説、映画や著作の感想まで、今まで「本当にそうなのか？そう考えるべきではないのでは」と思うものが全...</summary> 
<dc:subject>雑感</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51359177.html">
<![CDATA[機能主義・認知科学は人間の「心」の状態を作り出せるか？という目的をもっている。機能主義や認知科学の立場の本を数冊よむに従い、教育の方法や、社会現象の捉え方・解説、映画や著作の感想まで、今まで「本当にそうなのか？そう考えるべきではないのでは」と思うものが全てこの機能主義的な考え方に因っていると思えるようになってきた。<br>
<br>
人間の心の状態を作り出すことが可能かという問いに対しては、人間の心や脳の能力はどんなものなのかという問題がある。<br>
<br>
多様性、創造性、など、過去の人間が作りだしてきたものを考えたとき、それらを機能主義は説明できるのだろうか？<br>
<br>
人間の心の状態、とは個々の差異をどの程度含んでいるのだろう。<br>
個々の差異ではなく、良質だが平均的な心や脳の状態、を想定しているように見える。<br>
<br>
心の状態を人工的に創り出すことを目的とし、それがやはり不可能と解ったとき、実は、人間の心・脳の機能をロボット・人工知能AI・コンピュータレベルにすることが同時に目的となっているような気がする。<br>
これは私の単なる思われにすぎない。<br>
<br>
携帯電話や携帯ゲームを常時携帯し、情報に対して受動的になる。<br>
能動的にみえて、それは機能に対して受動的である。<br>
<br>
<br>
例えば、読解力の低下や不足。<br>
これを補うために、一部の私立中学などでは国語に対して「論理エンジン」という教材を用いるのだが、これは、方法論を持たない子供に対して、ソフトウェアとして「論理エンジン」型の解法を与え訓練するという方法がとられれている。<br>
私はこの方法を聞いた時に、強い疑問を感じた。<br>
実行プログラムを与えているだけで、それは根本的な解決法ではないと思うからだ。<br>
<br>
対して、違う私立中では国語では読解と共に作文を重視し、「答えが簡単にはでない問題に対して自ら問いを持つ」事を重視している。<br>
問題の存在に気がつくこと、また問いに対する解法だけではなく、考え方を重視すること、画一的な回答ではなく、多様性に可能性をみる事。<br>
<br>
こういった事が重要に思えるのだが、世間の風潮的には前者のプログラムを与えてその通りにこなす事が支持されている気がする。<br>
<br>
因みに中学受験専門塾出身の生徒は、上のタイプに属していることが多い。<br>
高校生になるとその与えられたプログラムだけでは解けない問題、つまりプログラムを実行するだけではできない勉強になり問題が露呈してくる。<br>
小学生の9歳頃から12歳頃に自然体験や自ら関心をもって興味を持つ体験などが希薄になると、思考の源泉のようなものができないのではないだろうか、等と考えてしまう事が多い。<br>
<br>
また、表層＝真実とだけとらえると、物事の背後にある本質などが見過ごされて、問題のありかを見失う事が多々あると感じる。<br>
機能主義を支える思考では、見えるもの・認知できるものだけを扱う。<br>
こうした物事だけではやはり解決できない問題がある。<br>
<br>
考え方というものは、多様なものでそれぞれに十分でない部分を含んでいる。<br>
自然科学や経済の発展と共に失われた価値観や思考方向なども含めて、考えるべきではないだろうか。<br>
<br>
このような考え（悩み？）が日常的に気がつくと仕事や生活の合間に浮遊している。<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>マラーホフの贈り物2008</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51282426.html" />
<modified>2008-02-12T02:23:23Z</modified> 
<issued>2008-02-12T11:23:23+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51282426</id> 
<summary type="text/plain">マラーホフの贈り物（Ａプロ）に行ってきました。

マラーホフの牧神はマラーホフならではな解釈という感じよりもニジンスキー版を正確になぞるような方向を感じた。牧神は半神半獣、人間を離れナトゥーラより以前の原始神聖のような自然（physis）にいるものであり、ニン...</summary> 
<dc:subject>バレエ鑑賞</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51282426.html">
<![CDATA[マラーホフの贈り物（Ａプロ）に行ってきました。<br>
<br>
マラーホフの牧神はマラーホフならではな解釈という感じよりもニジンスキー版を正確になぞるような方向を感じた。牧神は半神半獣、人間を離れナトゥーラより以前の原始神聖のような自然（physis）にいるものであり、ニンフもそういう意味では人格と自然神聖の間にあるもの、その二つの遭遇。しかしニンフたちは類を持つが牧神は始めから最後まで個。ニジンスキーはこの森の奥にいる個としての自己ととらえきれないエゴを古代ギリシア美術のプロファイルのように客観として描く。<br>
側面しかみせないこと、記述的ともいえる感情・装飾性の排除などこの作品を魅力的に見せるのはとても難しい。<br>
抑制され隠された感情表現だけにマラーホフはなかなかその思い切りが難しいのではないだろうか・・・？自己にも無意識が広がるエゴになりきるのはとても難しい。<br>
動きの一つ一つが断絶ではなく繋がりとしてしかみえなくなるような、静性はやはりシャルル・ジュドの印象が大きすぎるためか、それを凌ぐものはまだない。<br>
もっとも、ニンフの群舞（という表現があっているかは別として）もどこか動きをトレースしているだけで、それ以上の表現を感じられなかったのでそう感じてしまうもかもしれない。ニンフの井脇幸江さんは美しかった。ただ、ニンフの無知（いい意味で）の部分よりも、ニンフに無くてもいい神格のような特別な存在感がでていて、良いのに存在意味としては矛盾してしまうような部分も・・・<br>
<br>
記号化されたバレエの美という部分、そういうものを表せるのは、やはりパリオペラ座の芸術性が特別だと思う。<br>
<br>
ゲストの踊りではやはりマリーヤ・アレクサンドロワが特に素晴らしかった。<br>
技巧だけではなく、音楽性がとても高いところが素晴らしい。<br>
技巧は見えるもので音楽性は見えない部分、その両方がまさに見える舞台だと思う。12月のボリショイの公演もできたら行きたいと思っている。<br>
<br>
マラーホフは白鳥の、天を見つめるシーンでの悲愴感がまったく大げさなところがなく唯静かな眼差しだったのが印象的。パンフレットの扉部分に、ベジャールに捧げる旨の言葉を載せており、その写真もそういう表情だったからかもしれない。<br>
ベジャール追悼特集に、お別れの会の場にいたマラーホフの記述があり、どこか近くでみたマラーホフに感じたときの佇まいを想起させるものだった。<br>
<br>
イリーナ・ドヴォロヴェンコとマキシムの夫妻の演目、特にコンテンポラリーは彼ららだから作り上げられるのかと思うような関係性だった。<br>
俄なペアだったら、また動きと振付をトレースするだけの演目にしかみえないだろう、パンフレットの解説には犠牲とあったが、むしろ自ら「与える」ことの関係性が現れていた。関係の無償の贈与、それがよく表されていたと思う。見た目よりも美しいと感じられるのは、そういう表現を眼にしたときだ。<br>
<br>
<br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>クラウディオ・モンテヴェルディ</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51279900.html" />
<modified>2008-05-02T06:31:14Z</modified> 
<issued>2008-02-09T23:35:42+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51279900</id> 
<summary type="text/plain">多読してると音楽聴けなくなる、と思っていたのですけれど。　
久々にタワー本店に寄って視聴して購入したのがクラウディオ・モンテヴェルディのCDです。視聴買いだったので調べてみたらルネサンスーバロック時代のクレモナ生まれのイタリア音楽家なんですね。　
録音が最...</summary> 
<dc:subject>music</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51279900.html">
<![CDATA[<img src="http://image.blog.livedoor.jp/unica/imgs/f/1/f1ae5daa.jpg" width="120" height="120" border="0" alt="f1ae5daa.jpg" hspace="5" class="pict" align="left" />多読してると音楽聴けなくなる、と思っていたのですけれど。　<br>
久々にタワー本店に寄って視聴して購入したのがクラウディオ・モンテヴェルディのCDです。視聴買いだったので調べてみたらルネサンスーバロック時代のクレモナ生まれのイタリア音楽家なんですね。　<br>
録音が最近らしくとても音がよい。こう拍子が厳密でない頃の響きの音楽がしっくりきます。近代以前のものと現代の外部がブーム。いつもマイブームしかないんですけれど・・・　<br>
カバーがフィリッッピーノ・リッピだからジャケ買いでもあるのですが期待通りのCDでした。　<br>
http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1694501&GOODS_SORT_CD=102　<br>
　<br>
普段amazonを使ってしまうことが多いのですが、タワーの６階のクラシック5階のワールドのコーナーは脚を運ばないとだめですね。<br>
なるべくCDはタワーで買わないと新規開拓できる場が減ってしまう心配が・・・]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>ナショナルトレジャー２/次は火の試練かな・・・</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51209416.html" />
<modified>2007-12-31T16:50:45Z</modified> 
<issued>2008-01-01T01:50:45+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51209416</id> 
<summary type="text/plain">23日に初回を見た後、再び見に行ってしまいました。
ナショナルトレジャー１は劇場版ではみられなくてDVDは何度もみてしまっています。
台詞がウィットに富んでいて、英語の言い回しもシンプルながら味がある、役者がうまいし、台詞が楽しいですし、実際の建造物や街並みな...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51209416.html">
<![CDATA[23日に初回を見た後、再び見に行ってしまいました。<br>
ナショナルトレジャー１は劇場版ではみられなくてDVDは何度もみてしまっています。<br>
台詞がウィットに富んでいて、英語の言い回しもシンプルながら味がある、役者がうまいし、台詞が楽しいですし、実際の建造物や街並みなど観られるのもよいですが設定に惹かれます。テーマが歴史、フリーメイソン、隠蔽、現在と過去の繋がり、脇役もよいですし、ベン・ゲイツが独立宣言書に「今は失われた表現だ」「力をただせるものはそうする必要がある」というような現在の（私利私欲が原動力）のような価値観とはずれた「本来性への回帰」のような部分にポイントが設定されているのが楽しいと思います。エンターテイメントとして楽しめるし、歴史ミステリー的、思想なおどもミックスされているバランス。<br>
<br>
魔笛にはフリーメイソンの儀式としての火の試練、水の試練がありますが、二回目みたあとに、次ぎは火のアクションかな、火山でも入るのかな。とか思いました。<br>
それにしてもマヤ・アステカ・・・ディズニーシーのインディ～を改装してそのうちナショトレになりそうな予感と思ってしまいましたよ。<br>
ちなみにウォルト・ディズニーもフリーメイソンですしね。<br>
<br>
今回大統領の誘拐場面はこんなに話がさくっと進んでよいものか、と思いましたが、合衆国大統領はかくありき、のような部分、この部分が今回の「今は失われた表現だ<br>
」の部分ですね・・・大統領選もあることですし、そういう人になって貰わないとこまりますね・・こういう部分に、アメリカのソフトパワー（みえない力）を感じてしました。<br>
<br>
３もニコラス・ケイジは意欲があるとのことなので今からぜひそうなってほしいものです。失われた文明はしかし現在もなにかしらの印・徴となって、残っている。<br>
そして起源は隠蔽される。そういう部分が感じられ、演じている人自身も、その価値観や認識をすくなからず実感として抱きながら演じているから惹かれるのだと今回も思いました。<br>
<br>
天才歴史学者というキャッチコピーは日本だけなのかな？<br>
どちらかというとマスター・キートンのような、すごそうにあまり見えないけどスペシャリスト（海軍、マサチューセッツ工科大、そして歴史学者）のような部分が出てもいいかと思う。そして歴史という過去のテーマに、ライリーのハッキングという組み合わせは絶対必要ですよね。そこがいいんだ。<br>
<br>
それに、娯楽的という人も多いけど、無駄な人死や残虐なシーンがないのもこのシリーズのよいところです。パイレーツが途中から人死にが多くなったのでそういう路線になったらヤダなと思っていたのですがそうでなくて安心しました。<br>
監督のコメントをよむととても興味深いです。<br>
このままのスタンスで次作をつくってくれたらよいです。<br>
とにかく数年来次回作を待っていた映画なので観られてよかった。。。<br>
大統領の本のレプリカっぽいブックカバー（グッズ）やライリーの本のデザインのノート、とかあったら買いたいのに。<br>
<br>
<br>
<br>
<a href="http://woman.excite.co.jp/cinema/movie/41005385/"><img src="http://image.excite.co.jp/jp/cinema/cmn/icon_exlink.gif" width="30" height="25" border="0" align="absmiddle">「ナショナル・トレジャー　リンカーン暗殺者の日記(字幕版)」の映画詳細、映画館情報はこちら >></a><br>
<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>ヴェネチア絵画展　フェルメール国立新美術館</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51124662.html" />
<modified>2007-11-13T07:59:07Z</modified> 
<issued>2007-11-13T16:59:07+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51124662</id> 
<summary type="text/plain">10月は嫌になるほど時間がなく.
ヴェネツィア展には行けました。でも最終日だったのでティッツアーノとカナレット関連の品物は全て売り切れてた・・酷い！しかしパルマ展もそうだがヴェネチア展もあまり流行らなかったみたいですね。ヴェネツィア展はそれほど完成度の高い作...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51124662.html">
<![CDATA[10月は嫌になるほど時間がなく.<br>
ヴェネツィア展には行けました。でも最終日だったのでティッツアーノとカナレット関連の品物は全て売り切れてた・・酷い！しかしパルマ展もそうだがヴェネチア展もあまり流行らなかったみたいですね。ヴェネツィア展はそれほど完成度の高い作品はなかったので仕方ないけど。パルマ展は本当にこれを見ないでどうするというものばかり・・・日本の展覧会趣味って本当に宗教画とは縁遠いものしか好きじゃないよね・・・でもそれならイタリア旅行で無理矢理ウフィッツィ美術館とかいかなくてもいいではないか。宗教画というよりも聖書モチーフはあれはヨーロッパ語圏の古典と思ったほうがよい部分があると思います。<br>
テキスト・テーマから描いたイメージ、ストーリーや象徴はすでに記号・共通認識になっているから伝わりやすい・意外と個性が発揮できるという具合だから凄いものとそうでもないものが一目瞭然でもあるし。古くてもモダンなもの、時を超えているものがはっきり浮かび上がる。<br>
日本人と米国人（世界のど田舎と云われている）が興味もないのにカトリック文化を見にいかなければイタリアももっと行きやすいのでは・・・というか時間とお金があってわざわざイタリアやフランスに行くのに少しは調べて行ったらと思ってしまう事が多いんですが・・・<br>
<br>
前から何か即物的な目的や私利私欲だけの為できる事って大したことではないけど何か才能や能力の限界以上を事をしてしまうことって・・・やっぱりバッショネイト・・パトス的なものなんだろうと思う。<br>
<br>
それとやはり初期ルネッサンスは抑圧されていた古代思想・文化に触れて驚喜したんでしょう・・その感動の仕方に感動する・・・。ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロがこぞって仕事をしてたそれは相互に影響をあたえた結果だと思う。<br>
イタリアの凄さ、唯一のものはルネサンスで完成と調和を見て、その後解体されていくことの凄さだそうです。自分の為だけにはそれほど一生懸命にはなれない、というか目に見えない力の作用は確かにある。<br>
<br>
フェルメールは行けました。しかし解説パネルに相変わらず??となってしまう。<br>
どうしてこう、技法と物質論なんだろう、いつも。<br>
美学専攻ってこういう事で分析するのが最先端なのでしょうか。<br>
同じ技術を用いても再現できない・他とは明かに違う、その部分こそが重要なんですが・・そういう、曖昧さを排斥する事が知識だとは到底思えないのです。<br>
<br>
そして他の風俗画とは時間の捉え方がまったく違う、つまり見えてくる世界が違う。日常の中の普遍・永遠性をそこに持っている。<br>
驚いたのはもの凄く明るい絵なのだが陰影もとても明るいのです。<br>
暗さを表現しつつコントラストの為に明るい光を描き出すのは理屈はわかるのですが明るい室内で暗さとの対比なしでこの光を描く技術って・・・<br>
近くでみてわかったことは、適度かつ非常に精巧なバランスでディフォルメされていることです。だから離れてみた時にものすごく印象が繊細だし遠くでみても印象がまったく同じ。。。<br>
<br>
天野可淡展にはいけなかった。マリアは会場としては狭すぎて行くのが気が退けてしまった、というのと銀線でやった回顧展があまりにも衝撃だったのでその感覚のままでいいという気持ちが強かったせいもあります。<br>
山本六三展の案内も来ました。でも行けないかもしれない。<br>
11月半ばだったら行けたのに。<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>東京大学公開講座</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51103111.html" />
<modified>2007-10-23T17:04:15Z</modified> 
<issued>2007-10-24T02:04:15+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51103111</id> 
<summary type="text/plain">2007東京大学公開講座

＜力＞　10/20（土）

・近代日本と軍事力　歴史に学ぶ　加藤陽子
・マーケティングできない日本　　
・戦後日本におけるアメリカニズムと権力　吉見俊哉
・見えにくい権力　　　　　　　　　　　　原田志郎
・国際政治における権威・権力・暴...</summary> 
<dc:subject>教育・時事</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51103111.html">
<![CDATA[2007東京大学公開講座<br>
<br>
＜力＞　10/20（土）<br>
<br>
・近代日本と軍事力　歴史に学ぶ　加藤陽子<br>
・マーケティングできない日本　　<br>
・戦後日本におけるアメリカニズムと権力　吉見俊哉<br>
・見えにくい権力　　　　　　　　　　　　原田志郎<br>
・国際政治における権威・権力・暴力　　　藤原帰一<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
・近代日本と軍事力　歴史に学ぶ　加藤陽子<br>
<br>
日清・日露・太平洋戦争・・・この間10年しかなく、<br>
人々が前の記憶を残したまま戦争がおきている<br>
<br>
吉野作造　開戦の論理を押した　福沢諭吉も。<br>
<br>
イギリスでは貴族・上院の師弟が多く志願兵として参戦し16%戦死<br>
一般は9%位。血の犠牲に関わりながら戦争していたが<br>
日本は、満州事変時の死者はほとんど貧者。（大工・八百屋・石屋など）<br>
大学生・大学も特権意識をもっており、自らは守られていると思っていた認識がある。<br>
<br>
当時の軍部は現在の兵力ならば勝機はあるからという理由で、開戦を急ぐ。<br>
日露戦争がかろうじて勝ったということを認識していたが、その認識がずれていた。<br>
アメリカにも勝てないだろうと思っていたが、今なら勝てると思い開戦を急いだ経緯がある。<br>
<br>
そして、ロシアの補給を立つべきだと考え、満州事変を起こす。<br>
<br>
「聞けわだつみのこえ」<br>
<br>
京大生の経済学部の学生　本の余白に遺書を書く。<br>
「こうして自分は気晴らしのために死んでいく。日本がおかした非道を思い起こせばそのあたりまえなのだ」・・・・。<br>
<br>
＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br>
<br>
・戦後日本におけるアメリカニズムと権力　吉見俊哉（情報学環）<br>
<br>
<br>
日本人を親米にさせている力とは何か？<br>
<br>
日本はイラク戦争前後も、また60年安保の時も（47%）現在も77%程度の人がアメリカをすきと云っている。<br>
<br>
なぜこれほど親米なのか？よく云われている３つの事。<br>
<br>
1.「ハリウッドや大衆文化があるから」・・・日本だけではない<br>
2.「戦後復興できたのはアメリカのおかげ」・・・今でもおかげと思ってる人はいるか<br>
3.「骨抜きにされたのだ」・・・軍事力が影響してるのは日本だけではない<br>
<br>
他者としての日本人のアメリカがアイデンティティ(心地よいと思う）を可能にしたのでは？<br>
<br>
まなざし・影響力・暴力の複合力<br>
<br>
1.暴力としてのアメリカ：ＡがＢを力づくで従わせる　軍事<br>
2.影響力としてのアメリカ：ＡがＢに利益を与えつつ従わせる　経済・政治<br>
3.まなざしとしてのアメリカ：Ｂが自覚なしに自ら望んでＡの視点に沿って行動<br>
<br>
→３は無意識に行っている。<br>
<br>
<br>
<他者としてのアメリカへのまなざし><br>
<br>
近代日本における日本<br>
<br>
①幕末　「自由の国」福沢・内村・有島・・・内面的なアメリカ<br>
<br>
②大正・昭和のモダニズム　・・・消費文化としてのアメリカ<br>
<br>
安藤更生　「銀座」フランス風からアメリカ風へ<br>
大宅壮一　東京＝西欧　大阪＝アメリカ<br>
<br>
天皇制ナショナリズムの盛衰と反比例する傾向<br>
<br>
①権威としての国レベルのアメリカ<br>
②都市レベル<br>
③家庭レベル<br>
<br>
<br>
マッカーサーの写真（サングラス・コーパイプ）を今我々はすぐに思い起こすが、実は当時の翌日の新聞には載っていない・・・ではいつそうなったのか？<br>
<br>
占領時は検閲があるので、「占領者アメリカ」のイメージは後景となっており全面には出ていない。・・・占領意識に影響<br>
<br>
これと同時に「人間天皇」が全面にメディアに出てくる。<br>
天皇の地方巡幸。（１９４６－５０）　トピック：偽天皇の問題<br>
<br>
「米軍」の消去　だが「占領」のメタファーとして女性のイメージとしてあらわれる<br>
<br>
ミッチー　成婚　「新しい家庭」のイメージ<br>
<br>
「アメリカと天皇制の表象上の結婚」・・<br>
<br>
都市レベルでは、日比谷線沿線上に多い、海へ向かうライン<br>
<br>
六本木・日比谷・麻布・白金台・田園調布などなど　<br>
元々米軍の拠点であった<br>
ではその前は？<br>
<br>
六本木　日本軍・陸軍の街。占領→米軍の街　それ向けの店ができる<br>
撤退後は忘却されファッションの街になる。<br>
<br>
原宿表参道　練兵場がありそれがワシントンハイツに。占領後オリンピックのときに返還。若者とファッションの街に。<br>
<br>
湘南も基地で演習をしていた。<br>
<br>
これは1950年以降はアメリカが日本本土はアジアの経済センターとして脱軍備するから。その代わり沖縄はアジアと共産圏の防波堤とされる。（軍備）<br>
<br>
天皇のナショナリズムから技術・経済のナショナリズムという意識<br>
ex)　三種の神器　家電でも同じ言い方・・・<br>
<br>
家電のイメージ広告がモダンガールから家庭の主婦になった。<br>
<br>
アメリカから褒められる技術をもつ日本というアイデンティティ。<br>
<br>
男・技術者としてのアイデンティティ<br>
女・その製品を使うおくさま<br>
<br>
<br>
<br>
・国際政治における権威・権力・暴力　　　藤原帰一<br>
＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br>
<br>
<br>
デモクラシーにおいては他国からみれば「こわいもの」でも内側の国民からは抑制可能と認識されているので内外にズレが起きている<br>
<br>
アメリカを他の国は驚異と感じるが、自国ではその意識は薄い。<br>
<br>
<br>
・国際社会は無政府状態である。<br>
・国際社会での力<br>
<br>
①他国をはばむ力<br>
②他国を滅ぼす力<br>
③他国を動かす力<br>
④他国をひきよせる力<br>
<br>
<br>
①国際政治における戦争<br>
<br>
抑止>>　「いざとなったら反撃する」という安定<br>
<br>
阻む力と我々が思っていても、相手はそうは思わない。<br>
相手は専守防衛といっていても攻撃的とみなすのが現実。<br>
<br>
<安全保障のジレンマ＞<br>
<br>
日中／　セキュリティジレンマが起きている<br>
<br>
中国は軍事を増やしていると日本は思っているが<br>
中国の主観的にはむしろ極めて防衛的であると思っている<br>
→ソ連崩壊後は特にそうである。<br>
<br>
互いに防衛的と思うと、そこに悪循環が生まれる<br>
<br>
そして<本当にはばむ力＞<抑止>はあるのか？<br>
<br>
①抑止としての力は、相手がそう受け止めなければ成り立たない。<br>
②勝てないかもしれないと時の権力が思うと戦争に突入する<br>
　ドイツーイギリス間の戦争時　「他に手が尽きた・・・」<br>
　1914年　勝ち目のない戦争へ・・・<br>
<br>
相手がどう受け取るかで成立するものは、それ自体が悪循環である。<br>
この＜抑止＞を各国周辺で持つと、更に不安定になる。<br>
<br>
<br>
②滅ぼす力<br>
<br>
リアルな問題として相手を殺す戦争はコストが高い<br>
西欧の近代では相手を殺さずに　講和条件や賠償など<br>
<br>
だが民族間・ほこりを元にした戦争は血と土を売り渡せないという心理<br>
一度争いが起こると記憶されるために、相手が滅びないかぎり安定はないという心理になる　（ウガンダ・ルワンダ・コンゴ）<br>
<br>
阻む力を持ちながら滅ぼす力にならないためには？<br>
<br>
③他国を動かす力<br>
<br>
共通しているものを探す<br>
おどす一方では外交はなりたたない<br>
<br>
ex）18世紀ヨーロッパは教皇などの反対を押し切ってまで戦争しようとする王はいなかった。（国連もそういうものではという例え？）<br>
<br>
<br>
<br>
④他国をひきよせる力<br>
<br>
森・小泉・安倍の時に日本がまったく外交的に空白の中で<br>
中国は多数派工作にめざめ、東南アジアなどアジアと協力<br>
これは80年代に日本がやったこととまったく同じ。<br>
ぜんぶもっていかれた。とりかえすのは困難である・・・<br>
<br>
暴力で相手を引き寄せる力はない。<br>
<br>
<br>
（2007.11.20）安田講堂　東京大学・本郷）<br>
<br>
今回の公開講座も数ヶ月後にはWEB上にUPされるようです。]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>オディロン・ルドン</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/51056038.html" />
<modified>2007-09-14T02:08:43Z</modified> 
<issued>2007-08-29T10:41:09+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.51056038</id> 
<summary type="text/plain">会期間際にルドン展に行くことができました。　
行った人の話を聞いたり読んだりしてると「・・・空いてる」というので行ってあげないとならない！と思ったのです。変なプレッシャー。　
　
しかしエッシャー展が盛況だったからといってルドンも同じ方法で無理矢理アプロ...</summary> 
<dc:subject>感想諸々</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/51056038.html">
<![CDATA[会期間際にルドン展に行くことができました。　<br>
行った人の話を聞いたり読んだりしてると「・・・空いてる」というので行ってあげないとならない！と思ったのです。変なプレッシャー。　<br>
　<br>
しかしエッシャー展が盛況だったからといってルドンも同じ方法で無理矢理アプローチすることもあるまい、と思った。良さが薄れる。そこらへんのブロガーでもかかないような主催者の挨拶コメントに？？という気持ちになったのですが、展示内容はとっても充実でした。嬉しい誤算。　<br>
ちょっとクリエイター・デザイナー系とそんなムードを志向する客に媚びすぎなのではないだろうか。勿論にぎわうのはいいのだけど。　<br>
ルドンは異型の形というよりも、フォルムよりも形にとらえきれないものを描こうとしてると思うので・・・かろうじて姿にするならばというようなものじゃないかな。心象の移ろいの影のようなもの。　<br>
　<br>
ルドンの黒の作品は・・・これはもう印刷と実物とでは線・・というか繊細さがまったく違う。別物。すごい。　<br>
描いてあるというよりも、出現してるようなぼやっとした輪郭が凄い・・・兆候というべきなのか・・・　<br>
黒一色なのに色彩を感じる、というか黒一色なのにむしろ光を感じる。　<br>
　<br>
「聖アントワーヌの誘惑」の黒の作品が一群が特に・・・　<br>
テキストと絵画（ヴィジュアル）の相互的な欲求をやはり求めることがあるんだと思う。テキスト（現前しないもの）絵・立体（現前するもの）あと音楽・・・相互の世界が可能なものへの欲求が創る動機になることが多いと思うときがあるのですが、今回もそれを感じた。　<br>
　<br>
残るものは理由がそうさせてるからでは勿論なくて、何かそれ以上のものがあるから惹かれる理由を探そうとするのだろう。<br>
<br>
例によって欲しいカードの類がまったくありませんでした。]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>ファンタズム/天野可淡　再刊</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ousia.livedoor.biz/archives/50970670.html" />
<modified>2007-07-19T09:24:41Z</modified> 
<issued>2007-07-19T18:24:41+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2008:unica.50970670</id> 
<summary type="text/plain">90年代後半は多くの出版社がなくなった時期ですが、トレヴィル・リブロポートもそのひとつ。

中高生の時にこの出版社から出ていた本をいくつか読んだりみたりした事が当時大きかった気がする。

天野可淡もその一人。

写真作品集が長く絶版だったのがこのたび復刊ド...</summary> 
<dc:subject></dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ousia.livedoor.biz/archives/50970670.html">
<![CDATA[90年代後半は多くの出版社がなくなった時期ですが、トレヴィル・リブロポートもそのひとつ。<br>
<br>
中高生の時にこの出版社から出ていた本をいくつか読んだりみたりした事が当時大きかった気がする。<br>
<br>
天野可淡もその一人。<br>
<br>
写真作品集が長く絶版だったのがこのたび復刊ドットコムから再刊されることになった。http://blog.book-ing.co.jp/message/images/katan/katan.html<br>
<br>
特装版もでるとの事で予約しました。<br>
レトロスペクティヴはもっているのですがこの特装版の販売数如何で復刊がきまるそう。]]> 
</content>
<author>
<name>unica</name> 
</author>
</entry>
</feed>