バレエ鑑賞
May 26, 2008
パリオペラ座バレエ「ル・パルク」
パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
May 11, 2008
モーリス・ベジャール追悼公演「ギリシアの踊り(タラサ)」「火の鳥」「春の祭典」
東京バレエ@ベジャール追悼公演にいってきました。(5/11)
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。
勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現(世界観ともいえる)が現れるには、必要なものがある。
それが、よく出ている舞台だと思った。
ギリシアの踊りでは中島周さん。
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。
始まりは終わり、終わりは始まり。
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。
火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。
そして「春の祭典」
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか?
男/女はあきらかに異種として描かれている。
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」(フロイト)でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた(選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である)犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・
舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・
舞台の上には、それが見事に再生されていた。
素晴らしかったと思う。
ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ(優しさ)と「自ら再生する」力を自覚していたように。
そしてその価値を守ったひとがいたように。
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。
勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現(世界観ともいえる)が現れるには、必要なものがある。
それが、よく出ている舞台だと思った。
ギリシアの踊りでは中島周さん。
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。
始まりは終わり、終わりは始まり。
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。
火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。
そして「春の祭典」
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか?
男/女はあきらかに異種として描かれている。
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」(フロイト)でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた(選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である)犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・
舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・
舞台の上には、それが見事に再生されていた。
素晴らしかったと思う。
ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ(優しさ)と「自ら再生する」力を自覚していたように。
そしてその価値を守ったひとがいたように。
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。
February 12, 2008
マラーホフの贈り物2008
マラーホフの贈り物(Aプロ)に行ってきました。
マラーホフの牧神はマラーホフならではな解釈という感じよりもニジンスキー版を正確になぞるような方向を感じた。牧神は半神半獣、人間を離れナトゥーラより以前の原始神聖のような自然(physis)にいるものであり、ニンフもそういう意味では人格と自然神聖の間にあるもの、その二つの遭遇。しかしニンフたちは類を持つが牧神は始めから最後まで個。ニジンスキーはこの森の奥にいる個としての自己ととらえきれないエゴを古代ギリシア美術のプロファイルのように客観として描く。
側面しかみせないこと、記述的ともいえる感情・装飾性の排除などこの作品を魅力的に見せるのはとても難しい。
抑制され隠された感情表現だけにマラーホフはなかなかその思い切りが難しいのではないだろうか・・・?自己にも無意識が広がるエゴになりきるのはとても難しい。
動きの一つ一つが断絶ではなく繋がりとしてしかみえなくなるような、静性はやはりシャルル・ジュドの印象が大きすぎるためか、それを凌ぐものはまだない。
もっとも、ニンフの群舞(という表現があっているかは別として)もどこか動きをトレースしているだけで、それ以上の表現を感じられなかったのでそう感じてしまうもかもしれない。ニンフの井脇幸江さんは美しかった。ただ、ニンフの無知(いい意味で)の部分よりも、ニンフに無くてもいい神格のような特別な存在感がでていて、良いのに存在意味としては矛盾してしまうような部分も・・・
記号化されたバレエの美という部分、そういうものを表せるのは、やはりパリオペラ座の芸術性が特別だと思う。
ゲストの踊りではやはりマリーヤ・アレクサンドロワが特に素晴らしかった。
技巧だけではなく、音楽性がとても高いところが素晴らしい。
技巧は見えるもので音楽性は見えない部分、その両方がまさに見える舞台だと思う。12月のボリショイの公演もできたら行きたいと思っている。
マラーホフは白鳥の、天を見つめるシーンでの悲愴感がまったく大げさなところがなく唯静かな眼差しだったのが印象的。パンフレットの扉部分に、ベジャールに捧げる旨の言葉を載せており、その写真もそういう表情だったからかもしれない。
ベジャール追悼特集に、お別れの会の場にいたマラーホフの記述があり、どこか近くでみたマラーホフに感じたときの佇まいを想起させるものだった。
イリーナ・ドヴォロヴェンコとマキシムの夫妻の演目、特にコンテンポラリーは彼ららだから作り上げられるのかと思うような関係性だった。
俄なペアだったら、また動きと振付をトレースするだけの演目にしかみえないだろう、パンフレットの解説には犠牲とあったが、むしろ自ら「与える」ことの関係性が現れていた。関係の無償の贈与、それがよく表されていたと思う。見た目よりも美しいと感じられるのは、そういう表現を眼にしたときだ。
マラーホフの牧神はマラーホフならではな解釈という感じよりもニジンスキー版を正確になぞるような方向を感じた。牧神は半神半獣、人間を離れナトゥーラより以前の原始神聖のような自然(physis)にいるものであり、ニンフもそういう意味では人格と自然神聖の間にあるもの、その二つの遭遇。しかしニンフたちは類を持つが牧神は始めから最後まで個。ニジンスキーはこの森の奥にいる個としての自己ととらえきれないエゴを古代ギリシア美術のプロファイルのように客観として描く。
側面しかみせないこと、記述的ともいえる感情・装飾性の排除などこの作品を魅力的に見せるのはとても難しい。
抑制され隠された感情表現だけにマラーホフはなかなかその思い切りが難しいのではないだろうか・・・?自己にも無意識が広がるエゴになりきるのはとても難しい。
動きの一つ一つが断絶ではなく繋がりとしてしかみえなくなるような、静性はやはりシャルル・ジュドの印象が大きすぎるためか、それを凌ぐものはまだない。
もっとも、ニンフの群舞(という表現があっているかは別として)もどこか動きをトレースしているだけで、それ以上の表現を感じられなかったのでそう感じてしまうもかもしれない。ニンフの井脇幸江さんは美しかった。ただ、ニンフの無知(いい意味で)の部分よりも、ニンフに無くてもいい神格のような特別な存在感がでていて、良いのに存在意味としては矛盾してしまうような部分も・・・
記号化されたバレエの美という部分、そういうものを表せるのは、やはりパリオペラ座の芸術性が特別だと思う。
ゲストの踊りではやはりマリーヤ・アレクサンドロワが特に素晴らしかった。
技巧だけではなく、音楽性がとても高いところが素晴らしい。
技巧は見えるもので音楽性は見えない部分、その両方がまさに見える舞台だと思う。12月のボリショイの公演もできたら行きたいと思っている。
マラーホフは白鳥の、天を見つめるシーンでの悲愴感がまったく大げさなところがなく唯静かな眼差しだったのが印象的。パンフレットの扉部分に、ベジャールに捧げる旨の言葉を載せており、その写真もそういう表情だったからかもしれない。
ベジャール追悼特集に、お別れの会の場にいたマラーホフの記述があり、どこか近くでみたマラーホフに感じたときの佇まいを想起させるものだった。
イリーナ・ドヴォロヴェンコとマキシムの夫妻の演目、特にコンテンポラリーは彼ららだから作り上げられるのかと思うような関係性だった。
俄なペアだったら、また動きと振付をトレースするだけの演目にしかみえないだろう、パンフレットの解説には犠牲とあったが、むしろ自ら「与える」ことの関係性が現れていた。関係の無償の贈与、それがよく表されていたと思う。見た目よりも美しいと感じられるのは、そういう表現を眼にしたときだ。
May 04, 2006
ボリショイバレエ「ラ・バヤデール」
GW中のお昼公演でセルゲイ・フィーリン、舞台美術が良さそう+娘が観たいという素朴な理由で上のほうの席で行きました。これが、完成度高い。
ステパネンコさんが来日不可能になってしまい(というかチケットの売れ方のも理由があったのではと思っている)更に数日前にキャスト変更。
ニキヤ マリーヤ・アラシュ
ガムザッティ エカテリーナ・シプリナ。共にリーディングソリストに変更。リーディングというのは、いわゆるソリストの中のファーストダンサーということなんでしょうね。
セルゲイ・フィーリンはノーブルかつしなやかな跳躍がとても観ていて気持ちがよい。脚先が綺麗、ソロル役の衣装は結構服に覆われているのですが、身体能力の高さと優美さがよくわかる、それだけテクニックも安定しているのでしょう。凄い。
観ていて美しいし、柔軟で伸びがある。歩く姿も表現を感じます。意外とこういう事って台詞のないバレエではとても重要。
舞台への惹かれ方に関わるのだと思う。
ガムザッティ/シプリナも登場からソロの場面が良かった。会場も沸いてました。
踊りの見せ場は2幕ですがイタリアンフェッテのあとのフェッテはちょっと苦しそうかなと思えましたけれど、ガムザッティ役のシプリナは演技も雰囲気も踊りも伸びやかで良かった。ラジャのお嬢で無邪気な優雅さの部分と、ガムザッティの強さがどちらも凄かったです。
ところでグリゴロービッチ版のこの作品、とにかく踊りの構成が豊富で次から次へと、見せ場があってとても面白かった。マイムも少なめで、踊りで構成されているのが見事。
バヤデールは、英国ロイヤル版(DVD)とマラーホフ版しかしらないのですが、このボリショイ版が一番みていて退屈しないというかバヤデールがより面白く感じられる構成と演出でした。ガムザッティが登場するシーンもいかにもラジャの娘という感じで、お付きの者たちに囲まれながら、ポアントで踊りながら、で華やか。この演出はよかった。
2幕で踊られるソロルのソロは、3幕の影の王国で踊られる為、2幕は新しいソロルの踊りが足されているそうで、ソロルの踊る場面も増えている印象。やや音楽はいいところなのに移動するだけ,,というような振付に?と思う場面があったものの、良かったと思う。
「黄金の仏像」はこの場面で踊られるので、その意味が正しいかどうかは分かりませんがしてバレエとしてはこのほうが落ち着くような気がします。しかしいつも思うけど仏を踊らせてしまうのだから、神をもおそれぬ大胆さですね...フランス人・プティパは。この踊り、楽しいから好きだからいいのですけどね(笑)丁度よい金色具合でメイクや装飾も自然でした。
「影の王国」は照明も幻想的で良かったです。影=魂と同義語らしいこの場面ですが、他の映像だととにかく厳か〜に踊られる印象が強いですが、ボリショイは、かなり歯切れのよいヴァリエーション(1−3)でした。コールドはあくまでも青ざめた静の美という感じなのですけれど、対比的に面白かったですね。ソロルの2幕に入るソロがここで踊られるので、バランス悪いとは思いません。
3幕のニキヤはとても綺麗でした。他の版で、寺院の前でパドトロワになるよりもここで踊りの見せ場があるほうが綺麗だと思いますね。
この日一番ブラボーがでていたのは「太鼓のおどり」2幕のソロやコールドの間にはいる民族舞踊的なコールドとソロですが、原始的で躍動的、なだけじゃなくて、観ていて踊り自体が美しかったです。このあたりがボリショイの醍醐味なのでは、と思いました。 あとでNBSのサイトをみたら、ボリショイのこの太鼓の踊りは有名で単独でも踊られることがあるとか。
全体的にみても群舞でもバリエーションでも、パの形はどれも綺麗で形が残りつつ、ダンサーそれぞれの身体能力の高さ、表現が綺麗だということのバランスが印象的でしたね。なんといってもコールドも体型もほとんど完全に揃っているし...
層の厚ささを感じた。
ニキヤとガムザッティはどちらも好演・熱演だったと思います。でも発表のままプリンシパルがニキヤとガムザッティを踊っていたら、バリエーションやソリストの踊りの部分が更にグレードアップしていたのだろうな、と思うとその点はほんのすこしだけ残念、贅沢ですけれど。
今日の東京シティフィルは、音量も演奏自体の質も良かったと思います。
バヤデールの編成は大がかりなのかも?指揮者の表現が適切なのかな、良かった!
忘れるところでしたが、衣装もよかったです。
チュチュが白に青や橙にグラデーションが入っていて、原色を使わない柔らかい中間色で、ダンサーたちに合っていました。頭飾りも自然で綺麗でした。
ニキヤの2幕での花籠の踊りの衣装、ワインレッド系(といっても落ち着いた色味で上品)の色遣いが効いてました。
パンフレットみていて、いつもよく分からない野人っぽい人たちが苦行僧だと初めて知りました...苦行僧のイメージがちょっと違うのではないかと思うのですが;;だから、ニキヤたちは聖水を彼らに与えるのですね...。
2幕まで前の席の方がすごく身を乗り出していて、がんばっても舞台半分に被る..声かけたら次の幕からは気を付けてくれたけど、やっぱりあまりにも乗り出されちゃうとねえ。歌舞伎座だと、「前傾姿勢での鑑賞は他の方に迷惑になりますので注意」みたいなことを開演前にアナウンスするけど、東京文化でもアナウンスして貰いたいです。
東京文化自体、席が前の人に被る設置の仕方で、オケコンサートにはいいのだろうがやはり総合芸術鑑賞向きではない部分も。
バレエは総合芸術で、それが完成の域になったのはロシアなのだった、と思う公演でした。満足。帝政ロシアを全肯定するわけではないけどプティパ作品はこのレベルで公演してこそのグラン・バレエ(19世紀クラシック・古典)なのかもしれません。
終演後は、近くのロシア料理「マトリョーシカ」に行ってグルジアワインや壺焼き食べました。ロシアンティーには赤ワイン・ジャム・蜂蜜が入っていてこれがまた美味しい。
つぼ焼き。中身は3種から選べて、私が頼んだのは、「海老ときのこと豆乳入り」きのこの風味が美味しいのだ。カボチャや根菜も入った豆乳シチューです。あつあつ。
ステパネンコさんが来日不可能になってしまい(というかチケットの売れ方のも理由があったのではと思っている)更に数日前にキャスト変更。
ニキヤ マリーヤ・アラシュ
ガムザッティ エカテリーナ・シプリナ。共にリーディングソリストに変更。リーディングというのは、いわゆるソリストの中のファーストダンサーということなんでしょうね。
セルゲイ・フィーリンはノーブルかつしなやかな跳躍がとても観ていて気持ちがよい。脚先が綺麗、ソロル役の衣装は結構服に覆われているのですが、身体能力の高さと優美さがよくわかる、それだけテクニックも安定しているのでしょう。凄い。
観ていて美しいし、柔軟で伸びがある。歩く姿も表現を感じます。意外とこういう事って台詞のないバレエではとても重要。
舞台への惹かれ方に関わるのだと思う。
ガムザッティ/シプリナも登場からソロの場面が良かった。会場も沸いてました。
踊りの見せ場は2幕ですがイタリアンフェッテのあとのフェッテはちょっと苦しそうかなと思えましたけれど、ガムザッティ役のシプリナは演技も雰囲気も踊りも伸びやかで良かった。ラジャのお嬢で無邪気な優雅さの部分と、ガムザッティの強さがどちらも凄かったです。
ところでグリゴロービッチ版のこの作品、とにかく踊りの構成が豊富で次から次へと、見せ場があってとても面白かった。マイムも少なめで、踊りで構成されているのが見事。
バヤデールは、英国ロイヤル版(DVD)とマラーホフ版しかしらないのですが、このボリショイ版が一番みていて退屈しないというかバヤデールがより面白く感じられる構成と演出でした。ガムザッティが登場するシーンもいかにもラジャの娘という感じで、お付きの者たちに囲まれながら、ポアントで踊りながら、で華やか。この演出はよかった。
2幕で踊られるソロルのソロは、3幕の影の王国で踊られる為、2幕は新しいソロルの踊りが足されているそうで、ソロルの踊る場面も増えている印象。やや音楽はいいところなのに移動するだけ,,というような振付に?と思う場面があったものの、良かったと思う。
「黄金の仏像」はこの場面で踊られるので、その意味が正しいかどうかは分かりませんがしてバレエとしてはこのほうが落ち着くような気がします。しかしいつも思うけど仏を踊らせてしまうのだから、神をもおそれぬ大胆さですね...フランス人・プティパは。この踊り、楽しいから好きだからいいのですけどね(笑)丁度よい金色具合でメイクや装飾も自然でした。
「影の王国」は照明も幻想的で良かったです。影=魂と同義語らしいこの場面ですが、他の映像だととにかく厳か〜に踊られる印象が強いですが、ボリショイは、かなり歯切れのよいヴァリエーション(1−3)でした。コールドはあくまでも青ざめた静の美という感じなのですけれど、対比的に面白かったですね。ソロルの2幕に入るソロがここで踊られるので、バランス悪いとは思いません。
3幕のニキヤはとても綺麗でした。他の版で、寺院の前でパドトロワになるよりもここで踊りの見せ場があるほうが綺麗だと思いますね。
この日一番ブラボーがでていたのは「太鼓のおどり」2幕のソロやコールドの間にはいる民族舞踊的なコールドとソロですが、原始的で躍動的、なだけじゃなくて、観ていて踊り自体が美しかったです。このあたりがボリショイの醍醐味なのでは、と思いました。 あとでNBSのサイトをみたら、ボリショイのこの太鼓の踊りは有名で単独でも踊られることがあるとか。
全体的にみても群舞でもバリエーションでも、パの形はどれも綺麗で形が残りつつ、ダンサーそれぞれの身体能力の高さ、表現が綺麗だということのバランスが印象的でしたね。なんといってもコールドも体型もほとんど完全に揃っているし...
層の厚ささを感じた。
ニキヤとガムザッティはどちらも好演・熱演だったと思います。でも発表のままプリンシパルがニキヤとガムザッティを踊っていたら、バリエーションやソリストの踊りの部分が更にグレードアップしていたのだろうな、と思うとその点はほんのすこしだけ残念、贅沢ですけれど。
今日の東京シティフィルは、音量も演奏自体の質も良かったと思います。
バヤデールの編成は大がかりなのかも?指揮者の表現が適切なのかな、良かった!
忘れるところでしたが、衣装もよかったです。
チュチュが白に青や橙にグラデーションが入っていて、原色を使わない柔らかい中間色で、ダンサーたちに合っていました。頭飾りも自然で綺麗でした。
ニキヤの2幕での花籠の踊りの衣装、ワインレッド系(といっても落ち着いた色味で上品)の色遣いが効いてました。
パンフレットみていて、いつもよく分からない野人っぽい人たちが苦行僧だと初めて知りました...苦行僧のイメージがちょっと違うのではないかと思うのですが;;だから、ニキヤたちは聖水を彼らに与えるのですね...。
2幕まで前の席の方がすごく身を乗り出していて、がんばっても舞台半分に被る..声かけたら次の幕からは気を付けてくれたけど、やっぱりあまりにも乗り出されちゃうとねえ。歌舞伎座だと、「前傾姿勢での鑑賞は他の方に迷惑になりますので注意」みたいなことを開演前にアナウンスするけど、東京文化でもアナウンスして貰いたいです。
東京文化自体、席が前の人に被る設置の仕方で、オケコンサートにはいいのだろうがやはり総合芸術鑑賞向きではない部分も。
バレエは総合芸術で、それが完成の域になったのはロシアなのだった、と思う公演でした。満足。帝政ロシアを全肯定するわけではないけどプティパ作品はこのレベルで公演してこそのグラン・バレエ(19世紀クラシック・古典)なのかもしれません。
終演後は、近くのロシア料理「マトリョーシカ」に行ってグルジアワインや壺焼き食べました。ロシアンティーには赤ワイン・ジャム・蜂蜜が入っていてこれがまた美味しい。
つぼ焼き。中身は3種から選べて、私が頼んだのは、「海老ときのこと豆乳入り」きのこの風味が美味しいのだ。カボチャや根菜も入った豆乳シチューです。あつあつ。
November 04, 2005
新国立「カルミナ・ブラーナ」11/3公演感想
11/3 新国立劇場 カルミナいってきました。 私にとってのオルフ「カルミナ・ブラーナ」はもっとも好きなクラシックの曲の一つでもあります。バレエが、というよりもこの曲を合唱・ソリストで演奏されること自体少ない・・のでとにかく行こうと決めていました。バーミンガム・ロイヤルやビントレー作品であることなどはチケット購入後調べました。
「カルミナ・ブラーナ」はオルフの新中世主義の世界観にもとずいて作曲された曲。ゆえに、これまでのイメージは
--運命は絶頂と失墜とを繰り返すもの、栄枯盛衰は「運命の輪」(これはタロットにもあるものと同様)のごとく周りつづけるもの--という重々しいイメージです。
ジョン・ブアマン映画「エクスかリバー」ではアーサー王伝説に見事にこの曲が使われていてその影響も大きいのですが。
ビントレーの「カルミナ・ブラーナ」はオルフの解釈とは真逆の解釈です。始まりは現代風ですが開かれた「運命の女神フォルトゥナ」の掌と、目隠しの歩みは象徴的。
かなりビントレーの自由なユーモアで振り付け(踊りというか動き全体が)られていて、面白い。まったく想像してない展開がつづきます。ロースト・スワンの場面から振り付けや舞台構成も面白みが増していく。
神学生3とフォルトゥナ(赤のドレス)のダンス、苦悩と快楽にまみえていてこのテーマの核となっている。一転して、闘いのような戯れになり、ドレスの女は神学生をつき離す。
エンディングでは激しく運命の輪(なかなか迫力)が回る。
舞台装置や演出も斬新、しかも布の使い方がダンサーの動きと相まって見事な造形を舞台上に現出していた。
なんというか、ユーモア、アンバランスな軽妙さを、高度な技術と演出で完璧に出現させている感じ。フルオーケストラ、2台のピアノ、60名の合唱、3人の歌手ソリストという豪華な音楽世界と融合していて完成度は高い。決して豪華な演出や舞台観ではないのに、結果として「贅沢な舞台」だったという未知の体験でしたね。
各、詩に象徴されたシーンを繋ぐ一本の糸としてビントレーが選んだ「神学生」のイメージは面白い。
神学生というモチーフは、たとえばドストエフスキーの登場人物や、埴谷雄高「三輪与士」、バタイユの「C神父」などにも通じるイメージでこれを持っている人ともっていない人とではちょっと理解が異なるかもしれない。
死・快楽・欲望を前に人は怖れ罪の意識を持つというテーマはバタイユなのだがそれと似ている。
それが誰もがみても楽しめる作品に意図せずとも?仕上げられている「カルミナ・ブラーナ」は解りやすいと同時に奥の深さを感じる作品だった。
歌手の声もよかったので、ソリストの歌手は舞台の上か舞台の袖、または舞台上部に立ち位置を付くなど、ピットからではなくてもっと聞かせて欲しかったのが唯一の希望。
フィナーレは圧巻。
映像を収録したのはとても嬉しいですが、だったら「ニーベルングの指環」も収録して残してくれればよかった。
(未だに思ってしまう)
こういった総合芸術的なバレエをもっと増やしてほしいし、昔のオペラのようにバレエをオペラと一緒にやったりするような方法が少しずつでも増えてほしいものです。
日本はあまりにも、クラシック・コンサート、オペラ、とバレエがかけ離れてしまっていて残念。
「カルミナ」自体コンサートで演ることも少ないからか、クラシック好きな夫婦/男性のお客もたくさん来ていました。
新国立「カルミナ・ブラーナ」11/3公演感想
11/3 新国立劇場 カルミナいってきました。 私にとってのオルフ「カルミナ・ブラーナ」はもっとも好きなクラシックの曲の一つでもあります。バレエが、というよりもこの曲を合唱・ソリストで演奏されること自体少ない・・のでとにかく行こうと決めていました。バーミンガム・ロイヤルやビントレー作品であることなどはチケット購入後調べました。
「カルミナ・ブラーナ」はオルフの新中世主義の世界観にもとずいて作曲された曲。ゆえに、これまでのイメージは
--運命は絶頂と失墜とを繰り返すもの、栄枯盛衰は「運命の輪」(これはタロットにもあるものと同様)のごとく周りつづけるもの--という重々しいイメージです。
ジョン・ブアマン映画「エクスかリバー」ではアーサー王伝説に見事にこの曲が使われていてその影響も大きいのですが。
ビントレーの「カルミナ・ブラーナ」はオルフの解釈とは真逆の解釈です。始まりは現代風ですが開かれた「運命の女神フォルトゥナ」の掌と、目隠しの歩みは象徴的。
かなりビントレーの自由なユーモアで振り付け(踊りというか動き全体が)られていて、面白い。まったく想像してない展開がつづきます。ロースト・スワンの場面から振り付けや舞台構成も面白みが増していく。
神学生3とフォルトゥナ(赤のドレス)のダンス、苦悩と快楽にまみえていてこのテーマの核となっている。一転して、闘いのような戯れになり、ドレスの女は神学生をつき離す。
エンディングでは激しく運命の輪(なかなか迫力)が回る。
舞台装置や演出も斬新、しかも布の使い方がダンサーの動きと相まって見事な造形を舞台上に現出していた。
なんというか、ユーモア、アンバランスな軽妙さを、高度な技術と演出で完璧に出現させている感じ。フルオーケストラ、2台のピアノ、60名の合唱、3人の歌手ソリストという豪華な音楽世界と融合していて完成度は高い。決して豪華な演出や舞台観ではないのに、結果として「贅沢な舞台」だったという未知の体験でしたね。
各、詩に象徴されたシーンを繋ぐ一本の糸としてビントレーが選んだ「神学生」のイメージは面白い。
神学生というモチーフは、たとえばドストエフスキーの登場人物や、埴谷雄高「三輪与士」、バタイユの「C神父」などにも通じるイメージでこれを持っている人ともっていない人とではちょっと理解が異なるかもしれない。
死・快楽・欲望を前に人は怖れ罪の意識を持つというテーマはバタイユなのだがそれと似ている。
それが誰もがみても楽しめる作品に意図せずとも?仕上げられている「カルミナ・ブラーナ」は解りやすいと同時に奥の深さを感じる作品だった。
歌手の声もよかったので、ソリストの歌手は舞台の上か舞台の袖、または舞台上部に立ち位置を付くなど、ピットからではなくてもっと聞かせて欲しかったのが唯一の希望。
フィナーレは圧巻。
映像を収録したのはとても嬉しいですが、だったら「ニーベルングの指環」も収録して残してくれればよかった。
(未だに思ってしまう)
こういった総合芸術的なバレエをもっと増やしてほしいし、昔のオペラのようにバレエをオペラと一緒にやったりするような方法が少しずつでも増えてほしいものです。
日本はあまりにも、クラシック・コンサート、オペラ、とバレエがかけ離れてしまっていて残念。
「カルミナ」自体コンサートで演ることも少ないからか、クラシック好きな夫婦/男性のお客もたくさん来ていました。
August 26, 2005
8/17マチュー・ガニオ「眠れる森の美女」東京バレエ
東京バレエ団の「眠り」パリ・オペラ座のエトワール、マチューが出演。
という事で行ってきました。
マチューを観るのは、2月の東バ「ラ・シルフィード」に続き2回目です。
前回のシルフィード(斉藤さん)がどうしても踊りも演技も苦手で、マチューと井脇さんのエフィーは良かったものの、コールドも足音が気になってロマンチックバレエなのに重々しくて・・とあまり期待をしてはいなかったのですが・・・
良かったです!美術や衣装は・・・・・ですが、踊りに関して、そしてステージ上の情熱というのか集中力や気の配り方など見えない所までも伝わってきた公演でした。
マチューのデジレ王子は3幕まで出てきません・・からどうなるかと思っていましたが、見ごたえある踊りでした。演奏も良かったです。ソトニコフの指揮も得意な演目なんでしょうか。
特に、宝石の精ではダイヤの精を踊られた長谷川さんの踊りに引きこまれました。
歯切れ良く、踊りの形が長く美しく続いて、一つ一つの踊りが映えるのに流れを止めないものがありました。
4人の王子では木村さんと野辺さんが良かったです。
この辺りで買う予定の無かったパンフレットで配役のダンサーさんたちを確かめたくなり、一幕の終わりにパンフを買いに走りました。
またカラボスを踊られた奈良さんは演技、悪役の迫力がとても決まっていました。
また観たい!!カラボスでした。会場からもブラボーが沢山でていましたが、満足できるカラボスでした。カラボスの従者の方の踊りも良かった。舞台が引き締まりますね。
上野水香さんを生で見るのは初めてで・・・技術が高いのは解るのですが、止まる時が美しさを残していないように見えました。私感にすぎませんけれども、アティチュードの脚の角度がちょっと内側すぎるような・・・バランスの問題なのでしょうか。
2幕の衣装があまり良いデザインでないのが残念ですね。
小出さんのオーロラを観たかったのですけれど、なんと小出さんはフロリナ王女を踊られたので観ることができました!!表情が自然で、踊りも惹かれます。
今度、小出さんが主役やソロをやる時はぜひ見に行きたいです。
マチューは、相変わらず雰囲気やたたづまいが飛び抜けてますね。
衣装といい、髪に結んだリボンといい、、お貴族様っぽかったです。フェルゼン伯爵の若い時みたいな容姿でした。
血筋が・・・という存在感。演技を超えての。跳躍などは確かに怪我の影響か高さはそれほどでもなかったように思います。マチューがもっと踊る演目で来て貰いたいものです。
ルグリの回も髪にリボンをつけてたんでしょう〜か。。。
それにしても舞台芸術はちょっと写真使い回し過ぎる気がします。
写真といえばマチューは笑顔やほほえみはカルフーニの面影がありますね。
そしてシリアスな雰囲気(イワン雷帝)だと、お父さんのデニス・ガニオにそっくり!!デニス・ガニオファンなのです。
満足のいく公演でしたが、気になった所といえば。
一幕オーロラが眠っている筈のゆりかごの扱いは、まるっきり空っぽの籠を運んでますよーという雰囲気でいきなり幻滅しました。
待ちに待った御姫様のはず、そして赤ちゃんのオーロラが眠っているゆりかごなのに軽々と荷物を運ぶような演技で興ざめでした。これで演技指導が入ってるのかというような、驚きました。雑で。
あと美術、あまりにも子供だましな背景で残念です。
はりぼてどころか3流遊園地みたいな、ネコ?などの絵。ディズニーの眠りだって中世を強く意識してますよ?今時これはないのでは、と。
踊りは満足、ですが、舞台芸術としては平均点以下という感じでした。
これではダンサーの方が可愛そうです。
長靴をはいた猫の衣装もあきらかに、色づかいやデザインが浮いていました。
もっと人間に近づけてしまってよいと思うのですよ。
一緒に行った娘(6歳)は喜んでいましたけども。あれはダンサーがかわいそう。
という事で行ってきました。
マチューを観るのは、2月の東バ「ラ・シルフィード」に続き2回目です。
前回のシルフィード(斉藤さん)がどうしても踊りも演技も苦手で、マチューと井脇さんのエフィーは良かったものの、コールドも足音が気になってロマンチックバレエなのに重々しくて・・とあまり期待をしてはいなかったのですが・・・
良かったです!美術や衣装は・・・・・ですが、踊りに関して、そしてステージ上の情熱というのか集中力や気の配り方など見えない所までも伝わってきた公演でした。
マチューのデジレ王子は3幕まで出てきません・・からどうなるかと思っていましたが、見ごたえある踊りでした。演奏も良かったです。ソトニコフの指揮も得意な演目なんでしょうか。
特に、宝石の精ではダイヤの精を踊られた長谷川さんの踊りに引きこまれました。
歯切れ良く、踊りの形が長く美しく続いて、一つ一つの踊りが映えるのに流れを止めないものがありました。
4人の王子では木村さんと野辺さんが良かったです。
この辺りで買う予定の無かったパンフレットで配役のダンサーさんたちを確かめたくなり、一幕の終わりにパンフを買いに走りました。
またカラボスを踊られた奈良さんは演技、悪役の迫力がとても決まっていました。
また観たい!!カラボスでした。会場からもブラボーが沢山でていましたが、満足できるカラボスでした。カラボスの従者の方の踊りも良かった。舞台が引き締まりますね。
上野水香さんを生で見るのは初めてで・・・技術が高いのは解るのですが、止まる時が美しさを残していないように見えました。私感にすぎませんけれども、アティチュードの脚の角度がちょっと内側すぎるような・・・バランスの問題なのでしょうか。
2幕の衣装があまり良いデザインでないのが残念ですね。
小出さんのオーロラを観たかったのですけれど、なんと小出さんはフロリナ王女を踊られたので観ることができました!!表情が自然で、踊りも惹かれます。
今度、小出さんが主役やソロをやる時はぜひ見に行きたいです。
マチューは、相変わらず雰囲気やたたづまいが飛び抜けてますね。
衣装といい、髪に結んだリボンといい、、お貴族様っぽかったです。フェルゼン伯爵の若い時みたいな容姿でした。
血筋が・・・という存在感。演技を超えての。跳躍などは確かに怪我の影響か高さはそれほどでもなかったように思います。マチューがもっと踊る演目で来て貰いたいものです。
ルグリの回も髪にリボンをつけてたんでしょう〜か。。。
それにしても舞台芸術はちょっと写真使い回し過ぎる気がします。
写真といえばマチューは笑顔やほほえみはカルフーニの面影がありますね。
そしてシリアスな雰囲気(イワン雷帝)だと、お父さんのデニス・ガニオにそっくり!!デニス・ガニオファンなのです。
満足のいく公演でしたが、気になった所といえば。
一幕オーロラが眠っている筈のゆりかごの扱いは、まるっきり空っぽの籠を運んでますよーという雰囲気でいきなり幻滅しました。
待ちに待った御姫様のはず、そして赤ちゃんのオーロラが眠っているゆりかごなのに軽々と荷物を運ぶような演技で興ざめでした。これで演技指導が入ってるのかというような、驚きました。雑で。
あと美術、あまりにも子供だましな背景で残念です。
はりぼてどころか3流遊園地みたいな、ネコ?などの絵。ディズニーの眠りだって中世を強く意識してますよ?今時これはないのでは、と。
踊りは満足、ですが、舞台芸術としては平均点以下という感じでした。
これではダンサーの方が可愛そうです。
長靴をはいた猫の衣装もあきらかに、色づかいやデザインが浮いていました。
もっと人間に近づけてしまってよいと思うのですよ。
一緒に行った娘(6歳)は喜んでいましたけども。あれはダンサーがかわいそう。
8/17マチュー・ガニオ「眠れる森の美女」東京バレエ
東京バレエ団の「眠り」パリ・オペラ座のエトワール、マチューが出演。
という事で行ってきました。
マチューを観るのは、2月の東バ「ラ・シルフィード」に続き2回目です。
前回のシルフィード(斉藤さん)がどうしても踊りも演技も苦手で、マチューと井脇さんのエフィーは良かったものの、コールドも足音が気になってロマンチックバレエなのに重々しくて・・とあまり期待をしてはいなかったのですが・・・
良かったです!美術や衣装は・・・・・ですが、踊りに関して、そしてステージ上の情熱というのか集中力や気の配り方など見えない所までも伝わってきた公演でした。
マチューのデジレ王子は3幕まで出てきません・・からどうなるかと思っていましたが、見ごたえある踊りでした。演奏も良かったです。ソトニコフの指揮も得意な演目なんでしょうか。
特に、宝石の精ではダイヤの精を踊られた長谷川さんの踊りに引きこまれました。
歯切れ良く、踊りの形が長く美しく続いて、一つ一つの踊りが映えるのに流れを止めないものがありました。
4人の王子では木村さんと野辺さんが良かったです。
この辺りで買う予定の無かったパンフレットで配役のダンサーさんたちを確かめたくなり、一幕の終わりにパンフを買いに走りました。
またカラボスを踊られた奈良さんは演技、悪役の迫力がとても決まっていました。
また観たい!!カラボスでした。会場からもブラボーが沢山でていましたが、満足できるカラボスでした。カラボスの従者の方の踊りも良かった。舞台が引き締まりますね。
上野水香さんを生で見るのは初めてで・・・技術が高いのは解るのですが、止まる時が美しさを残していないように見えました。私感にすぎませんけれども、アティチュードの脚の角度がちょっと内側すぎるような・・・バランスの問題なのでしょうか。
2幕の衣装があまり良いデザインでないのが残念ですね。
小出さんのオーロラを観たかったのですけれど、なんと小出さんはフロリナ王女を踊られたので観ることができました!!表情が自然で、踊りも惹かれます。
今度、小出さんが主役やソロをやる時はぜひ見に行きたいです。
マチューは、相変わらず雰囲気やたたづまいが飛び抜けてますね。
衣装といい、髪に結んだリボンといい、、お貴族様っぽかったです。フェルゼン伯爵の若い時みたいな容姿でした。
血筋が・・・という存在感。演技を超えての。跳躍などは確かに怪我の影響か高さはそれほどでもなかったように思います。マチューがもっと踊る演目で来て貰いたいものです。
ルグリの回も髪にリボンをつけてたんでしょう〜か。。。
それにしても舞台芸術はちょっと写真使い回し過ぎる気がします。
写真といえばマチューは笑顔やほほえみはカルフーニの面影がありますね。
そしてシリアスな雰囲気(イワン雷帝)だと、お父さんのデニス・ガニオにそっくり!!デニス・ガニオファンなのです。
満足のいく公演でしたが、気になった所といえば。
一幕オーロラが眠っている筈のゆりかごの扱いは、まるっきり空っぽの籠を運んでますよーという雰囲気でいきなり幻滅しました。
待ちに待った御姫様のはず、そして赤ちゃんのオーロラが眠っているゆりかごなのに軽々と荷物を運ぶような演技で興ざめでした。これで演技指導が入ってるのかというような、驚きました。雑で。
あと美術、あまりにも子供だましな背景で残念です。
はりぼてどころか3流遊園地みたいな、ネコ?などの絵。ディズニーの眠りだって中世を強く意識してますよ?今時これはないのでは、と。
踊りは満足、ですが、舞台芸術としては平均点以下という感じでした。
これではダンサーの方が可愛そうです。
長靴をはいた猫の衣装もあきらかに、色づかいやデザインが浮いていました。
もっと人間に近づけてしまってよいと思うのですよ。
一緒に行った娘(6歳)は喜んでいましたけども。あれはダンサーがかわいそう。
という事で行ってきました。
マチューを観るのは、2月の東バ「ラ・シルフィード」に続き2回目です。
前回のシルフィード(斉藤さん)がどうしても踊りも演技も苦手で、マチューと井脇さんのエフィーは良かったものの、コールドも足音が気になってロマンチックバレエなのに重々しくて・・とあまり期待をしてはいなかったのですが・・・
良かったです!美術や衣装は・・・・・ですが、踊りに関して、そしてステージ上の情熱というのか集中力や気の配り方など見えない所までも伝わってきた公演でした。
マチューのデジレ王子は3幕まで出てきません・・からどうなるかと思っていましたが、見ごたえある踊りでした。演奏も良かったです。ソトニコフの指揮も得意な演目なんでしょうか。
特に、宝石の精ではダイヤの精を踊られた長谷川さんの踊りに引きこまれました。
歯切れ良く、踊りの形が長く美しく続いて、一つ一つの踊りが映えるのに流れを止めないものがありました。
4人の王子では木村さんと野辺さんが良かったです。
この辺りで買う予定の無かったパンフレットで配役のダンサーさんたちを確かめたくなり、一幕の終わりにパンフを買いに走りました。
またカラボスを踊られた奈良さんは演技、悪役の迫力がとても決まっていました。
また観たい!!カラボスでした。会場からもブラボーが沢山でていましたが、満足できるカラボスでした。カラボスの従者の方の踊りも良かった。舞台が引き締まりますね。
上野水香さんを生で見るのは初めてで・・・技術が高いのは解るのですが、止まる時が美しさを残していないように見えました。私感にすぎませんけれども、アティチュードの脚の角度がちょっと内側すぎるような・・・バランスの問題なのでしょうか。
2幕の衣装があまり良いデザインでないのが残念ですね。
小出さんのオーロラを観たかったのですけれど、なんと小出さんはフロリナ王女を踊られたので観ることができました!!表情が自然で、踊りも惹かれます。
今度、小出さんが主役やソロをやる時はぜひ見に行きたいです。
マチューは、相変わらず雰囲気やたたづまいが飛び抜けてますね。
衣装といい、髪に結んだリボンといい、、お貴族様っぽかったです。フェルゼン伯爵の若い時みたいな容姿でした。
血筋が・・・という存在感。演技を超えての。跳躍などは確かに怪我の影響か高さはそれほどでもなかったように思います。マチューがもっと踊る演目で来て貰いたいものです。
ルグリの回も髪にリボンをつけてたんでしょう〜か。。。
それにしても舞台芸術はちょっと写真使い回し過ぎる気がします。
写真といえばマチューは笑顔やほほえみはカルフーニの面影がありますね。
そしてシリアスな雰囲気(イワン雷帝)だと、お父さんのデニス・ガニオにそっくり!!デニス・ガニオファンなのです。
満足のいく公演でしたが、気になった所といえば。
一幕オーロラが眠っている筈のゆりかごの扱いは、まるっきり空っぽの籠を運んでますよーという雰囲気でいきなり幻滅しました。
待ちに待った御姫様のはず、そして赤ちゃんのオーロラが眠っているゆりかごなのに軽々と荷物を運ぶような演技で興ざめでした。これで演技指導が入ってるのかというような、驚きました。雑で。
あと美術、あまりにも子供だましな背景で残念です。
はりぼてどころか3流遊園地みたいな、ネコ?などの絵。ディズニーの眠りだって中世を強く意識してますよ?今時これはないのでは、と。
踊りは満足、ですが、舞台芸術としては平均点以下という感じでした。
これではダンサーの方が可愛そうです。
長靴をはいた猫の衣装もあきらかに、色づかいやデザインが浮いていました。
もっと人間に近づけてしまってよいと思うのですよ。
一緒に行った娘(6歳)は喜んでいましたけども。あれはダンサーがかわいそう。
July 30, 2005
ABT「ドン・キホーテ」オン/オフステージ
アメリカン・バレエ・シアター、アンヘル・コレーラとパロマ・ヘレーラのドンキ行ってきました。(チケットはソールドアウト)
一幕からキトリとのポーズとのちょっとした間にも高速な回転をするコレーラ(笑)目がついていかない。どよめく会場!
とにかくコレーラとヘレーラさんのパはテンポが早くても綺麗に決まるので凄いです。群舞やソロだとそのテンポには綺麗にあわないようででテンポがゆっくりめになるんですが、コレーラは踊りながら「もっとテンポ上げて!」とサインを出してましたね。どんどんテンポが上がってゆく!
1幕はどのテンポで演奏するか、オケがちょっと迷っていたようで少しあれ?と思う所もありましたが、だんだんよくなってきました。
エスパーダ(闘牛士)にディヴイッド・ホールバーグ。
似合ってます。エレガントなマタドールっぷりでした。
あとはラテン系な気迫みたなものが動作に効くと素晴らしくなると思った。今後もっと期待したい人。
個人的には、2幕が良かった。アムール、柔らかくしなやかでターンの間も弾むようで、キューピッドらしかった!!
もっと拍手があってもいいのに〜〜と。ここは絶対拍手だろう!という所が意外と会場はしんとしていて、残念。
ジプシーの踊り、素晴らしい。
男性群舞のジプシーがバク宙していたし身体のバネが素晴らしかった。あんまりやりすぎるとバレエにならないんだろうが、もっとやってほしい(笑)
サワタニー・タラタニット、上手いと思ってABTページみたらコールドの方でした。柔軟できれがよくて映えてました。
サッシャ・ラデツキーとアンヘルの踊りでの対決でお互いを認め合うところは面白かったしみごたえありました。
3幕はもう・・期待通り、というか凄かったです。
会場も「待ってました」という期待にあふれててコレーラもヘレーラもそれに応えてました。パロマ・ヘレーラのキトリのバリエーションの振りや表情はやっぱり素敵。ちょっとした演技がすごく踊りを豊かにするんですよね。”now”に収録した時みたいにフェッテでも3回に1回はトリプル入ってました。それも音楽にあっていて。
コレーラは、・・こんなバジル、見たことない!(笑)
すごい進化してます、、どうして空中を舞いながら、空中で回転しているのか(笑)あの動きをあの早さで、音にのせながら踊るなんて・・・なんだか凄すぎて早くも幻になってきましたが凄かったです。全幕バジルであの踊りをするのは本当に凄い。もっとバレエの知識があればあの動きを言葉にできるんでしょうが・・・凄すぎる。お客さんはとにかく拍手の嵐でした。凄く欲を言えば、最初のバジルのバリエーションの時にアンヘルならではなスペイン風なポーズをもっと丁寧な形で入れた所が観たかったんですが。
そうそう、演技のほうも良かったですよ。
キトリのヘレーラも可愛くて目を伏せわ笑顔がとても綺麗だったし、キトリに合ってて好きです。コレーラは、・・なんだか凄いお茶目さんでした。怒ったときにふくれっ面を・・v
あれは忘れません(笑)狂言自殺の時も面白かったです。
キトリはバジルに飲ませる酒(水じゃないよね)を豪快にのみほしちゃってました。いいなぁ。
ガマーシュ、とても良かった!かなり情けないキャラになってましたがつっつき回されてました。(笑)キトリの親父との掛け合いが抜群。
==================
オフ・ステージ、ライモンダの時みたいにマーフィとコレーラできっとサイン会をしてくれる!と思っていたので今回はお二人にプレゼントを。あとコレーラのお姉さんのカルメンにもと思い(白い貴婦人も良かった)用意していきました。
コレーラは、姫のことを覚えててくれて、わーありがとうと喜んでくれてました。「これをあなたのお姉さんにも!」とプレゼントを渡したら、とっても喜んでました。(笑)
パロマ・ヘレーラは途中から一緒にサイン会にきてくれて・・感激でした。プレゼントを渡したら、すっごく驚いていて「私に??」勿論〜と渡すととっても喜んでくれました。良かった〜 いつも観ている”now”のDVDジャケットに二人のサインが貰えて嬉しかったです。
一幕からキトリとのポーズとのちょっとした間にも高速な回転をするコレーラ(笑)目がついていかない。どよめく会場!
とにかくコレーラとヘレーラさんのパはテンポが早くても綺麗に決まるので凄いです。群舞やソロだとそのテンポには綺麗にあわないようででテンポがゆっくりめになるんですが、コレーラは踊りながら「もっとテンポ上げて!」とサインを出してましたね。どんどんテンポが上がってゆく!
1幕はどのテンポで演奏するか、オケがちょっと迷っていたようで少しあれ?と思う所もありましたが、だんだんよくなってきました。
エスパーダ(闘牛士)にディヴイッド・ホールバーグ。
似合ってます。エレガントなマタドールっぷりでした。
あとはラテン系な気迫みたなものが動作に効くと素晴らしくなると思った。今後もっと期待したい人。
個人的には、2幕が良かった。アムール、柔らかくしなやかでターンの間も弾むようで、キューピッドらしかった!!
もっと拍手があってもいいのに〜〜と。ここは絶対拍手だろう!という所が意外と会場はしんとしていて、残念。
ジプシーの踊り、素晴らしい。
男性群舞のジプシーがバク宙していたし身体のバネが素晴らしかった。あんまりやりすぎるとバレエにならないんだろうが、もっとやってほしい(笑)
サワタニー・タラタニット、上手いと思ってABTページみたらコールドの方でした。柔軟できれがよくて映えてました。
サッシャ・ラデツキーとアンヘルの踊りでの対決でお互いを認め合うところは面白かったしみごたえありました。
3幕はもう・・期待通り、というか凄かったです。
会場も「待ってました」という期待にあふれててコレーラもヘレーラもそれに応えてました。パロマ・ヘレーラのキトリのバリエーションの振りや表情はやっぱり素敵。ちょっとした演技がすごく踊りを豊かにするんですよね。”now”に収録した時みたいにフェッテでも3回に1回はトリプル入ってました。それも音楽にあっていて。
コレーラは、・・こんなバジル、見たことない!(笑)
すごい進化してます、、どうして空中を舞いながら、空中で回転しているのか(笑)あの動きをあの早さで、音にのせながら踊るなんて・・・なんだか凄すぎて早くも幻になってきましたが凄かったです。全幕バジルであの踊りをするのは本当に凄い。もっとバレエの知識があればあの動きを言葉にできるんでしょうが・・・凄すぎる。お客さんはとにかく拍手の嵐でした。凄く欲を言えば、最初のバジルのバリエーションの時にアンヘルならではなスペイン風なポーズをもっと丁寧な形で入れた所が観たかったんですが。
そうそう、演技のほうも良かったですよ。
キトリのヘレーラも可愛くて目を伏せわ笑顔がとても綺麗だったし、キトリに合ってて好きです。コレーラは、・・なんだか凄いお茶目さんでした。怒ったときにふくれっ面を・・v
あれは忘れません(笑)狂言自殺の時も面白かったです。
キトリはバジルに飲ませる酒(水じゃないよね)を豪快にのみほしちゃってました。いいなぁ。
ガマーシュ、とても良かった!かなり情けないキャラになってましたがつっつき回されてました。(笑)キトリの親父との掛け合いが抜群。
==================
オフ・ステージ、ライモンダの時みたいにマーフィとコレーラできっとサイン会をしてくれる!と思っていたので今回はお二人にプレゼントを。あとコレーラのお姉さんのカルメンにもと思い(白い貴婦人も良かった)用意していきました。
コレーラは、姫のことを覚えててくれて、わーありがとうと喜んでくれてました。「これをあなたのお姉さんにも!」とプレゼントを渡したら、とっても喜んでました。(笑)
パロマ・ヘレーラは途中から一緒にサイン会にきてくれて・・感激でした。プレゼントを渡したら、すっごく驚いていて「私に??」勿論〜と渡すととっても喜んでくれました。良かった〜 いつも観ている”now”のDVDジャケットに二人のサインが貰えて嬉しかったです。
July 25, 2005
ABTマーフィ&コレーラ 7/23「ライモンダ」

アメリカン・バレエ・シアター「ライモンダ」素晴らしかった、堪能しました。
全幕バレエの素晴らしい踊りを3公演分くらい堪能してしまう2幕のすごさ。
想像以上で目がまったく離せません。
元々、素晴らしい踊りがちりばめられたライモンダは、宝石でできた首飾りのようだとたとられるほど。3幕を2幕にしたことで、3幕構成を踊りのすばらしさと豊富さはそのままに凝縮されていました。構成や演出についても書きたいこともありますが、まずは公演のすばらしさから。
1・2幕をコンパクトに、2幕後半からのライモンダを代表する踊りとサラセンとスペインの踊りはそのままに、大幅に凝縮された内容。さらにダンサーも豪華です。
ソリストのデビット・ホールバーグは群舞のペアで入っていました・・凄い見ごたえです。
マリア・リチェットとエリカ・コルネホのソロも素晴らしかった。
柔らかく、しなやかで軽やか。踊りの楽しさも伝わって。1幕・2幕ともに素晴らしかった。もっと拍手があってもいいのに!と思いましたね。。
カルメン・コレーラの「白い貴婦人」初めてみたけど綺麗でした。バランスがよく動きが美しい。長身でしなやかで映えますね!(ドン・キではメルセデスなので楽しみです)
そして、ジリアン・マーフィ凄い。2幕になってからは特に彼女の持ち味とマーフィだからできる踊りの数々に目を奪われた。というのも、元々素晴らしい振付なのだけれども、そこにマーフィの今の技術で可能な限りの上級な表現があった。テクニックではシェネの軽やかさ、舞い上がり手を首の後ろにかざすハンガリー風のポーズが空中できまる瞬間は本当に美しかった。形を早くつくれるから、その美しさを残像で残せるのでしょう。目に焼き付いてます。振付に正確でありながら、最大限の表現をする為のテクニック。
いわゆる「技術の人」という範疇では収まらないものがあった。
紫の衣装も本当に合っていました。ライモンダの振り付けはどれも美しく、クラシックバレエの技術と美しさとハンガリーをはじめとする民族舞踊の魅力に満ちあふれるもの。
ライモンダのヴァリエーション、短調の曲に合わせて舞う表情は哀しみがみえ、この踊りをみて初めてこの曲と踊りの場面は、死に至ったアブデラフマンへが背景にあるのではと思う。それでなくとも気持ちの揺さぶられる曲と踊りではあるが、昨日はとても引きこまれた場面。
マズルカ、そしてチャールダッシュに続くグラン・パ・クラシックはもう圧巻でした。
ライモンダは白に花や植物の刺繍が映える衣装、そのほかのソロはライモンダらしく水色で、アラベスク文様が金で縫い取ってあって綺麗。
アントレから引き込まれてしまうのは、ABTの良さが凄くでていたからだと思います。
女性ヴァアシオンでは、マリアリチェットとエリカが魅せます。
手先が美しくて、振り付けが浮き上がるよう。
パ・ド・カカトル、見ごたえ凄いです。4人の男性ソリストが勢揃いですから。
コーダは男女が踊り、リフトでステージが埋め尽くされるほど、、踊り手が揃わないと上演しないという理由はこの当たりにもあります。優れた男性ダンサーが揃っているカンパニーならではの魅力でした。
そしてライモンダのヴァリアシオン、ジャン・ド・プリエンヌのヴァリアシオン。
コレーラは期待を裏切りません。技術も勿論すごいけれども、1幕のダンスール・ノーブルな立ち振る舞いにも感動しました。
あんなに高く跳び、回転しながらも音楽の豊かさを決して逃さないで、身体の中に取りこんで一体化する。コレーラが凄いのは、技術や技巧だけではない、高い音楽性ゆえ、バレエに特別な相乗効果が生まれるんです!!スペインで音楽に合わせていかに踊るかという指導をカレミア・モレノ先生に教わったと言っていますが、コレーラの踊りが特別なカタルシスをもたらすのはそういう事なんだと思います。
(たとえば、ニーナの踊りが、バレエという音声を発しない踊りなのに、彼女の踊りがまるで唄うような、メロディを奏でるような華やぎを発してるのもそれに関連する)
コレーラといえばテクニック、のような紋切り型の賛辞ですが、それだけではない、いくつかの理由があります。多分一つはその音楽性の豊かさ、センスの高さ。
ところで十字軍にいかず、帰還する設定でもないのでややジャンとアブデラフマンの存在というのが輪郭が消えているのですが、踊りは素晴らしい。
というかアメリカって十字軍とか演出してもしらけるだけなのかな・・なんて思ってしまいました。パ・ダクシオン(求愛の踊り)パスター、良かったです。アブデラフマンという異色・異教の存在感がもっと強く出るとジャンとの対比がもっと面白いものになると思うのです。(やはりタランダの存在感は凄かったから・・・でも比べるのは面白くないですね。誠実そうなアブデラフマンで、ライモンダは途中からありえないほどアブデラフマンに気持ちが傾いていました)
フィナーレ、そしてカーテンコールでは、客席もスタンディングで拍手を送りました。
本当に、素晴らしい公演でした。














