1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

カテゴリ:教育・時事 > 学術

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ヨーロッパ中世 ルネサンス研究所 シンポジウムに参加させていただきました。(ルネサンス研究会)
甚野先生にプロフェッソーカティーニ博士を紹介して頂きました、そしてマルシリオ・フィチーノに関する主にポリティックな講演をお聞きすることができた。

私がルネサンス(とプラトニズムを研究する初期の理由は二つあり、一つはカトリック(具体的にはレオ10世/ロレンツォの息子であり、<アテネの学堂>をラファエロにバチカン署名の間に依頼した教皇、それを全否定する形でのプロテスタントという説明があまりにも雑駁すぎると考えていたため・・・・
もう一つは、ダンテからマキャベリまで多くの動きがあまり浮上しないことだ・・・・そして果たしてマキャベリは論じるにはテーマが多いが、果たしてもっと彼の背後に控える多くの思想家哲学者および諸侯の家庭教師たちがいたのではないかということ。まだあるのだが、今日はこの二つについて。

前回セレーナ博士はダンテの美徳と政治的なパッショネイトについて論じられていた。

どうももう少し最近の英語研究書を読まねばなるまいな、と思った一日。

いろいろと祖母の死、娘の学校での出来事の数々、などなど8月も9月もほとんど平穏な日はなかった。
お花と向かいあい作品をつくるときだけ、あとは舞台を観るときだけ、だったかもしれない。


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昨年のルネサンス研究会(とその前のイタリア学会もかもしれない)およびアメリカの美術史家D夫妻を東京と金沢でご案内したという共通点もあり、石黒先生の発表をぜひ聞いておきたかったというのもあった。
多くの貴重な資料、講演、ビブリオに感謝しつつ・・・・会のあとの懇親にはでられずで(学校関連で早めに帰宅する必要があったのでした)

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「・・・・忌み嫌われた悪魔もまた、もともと光り輝く天使であった。
悪魔とは堕ちた天使のことに他ならない。
(なぜそんなことになったのか(中略)
ここから明らかになるのは、人はしばしば、他者(他の信仰や神話)におかる天使(的存在)を悪魔呼ばわりしてきたという隠れて歴史でもある」

*ゴシック美術やイギリスのラフェエル前派が好んで描いたゲオルギウスは、ギリシア・ローマの学術と学芸を龍にみたててそれを駆逐するという「ドラゴン(異教)退治」のモチーフであることなどだろう。

「・・・逆に天使には祝福された聖人、福者たちを祝い寿くという重要な役目が与えられた。そのためには、歌や楽器が得意でなければならない。天使とは優れて「想像界」(ムンドゥス・イマギナリス)の住人。」
(「天使とは何か」より


「書くの如く、「悪魔」「悪霊」はしばしば不寛容ゆえに敵視される他者の神々の別名になってきたのだし、このことは出口のみえない、今日の政治的・宗教的対立のなかで、一段と深刻化している問題でもある」

(同)

岡田先生のこの新書はとてもわかりやすくまとめられているが、福音初期者たちの差異についているのも興味深かったので、記事は二つにする。

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第43三話参照。 ・・
「聖イシドルスはこう書いている。 コンスタンティノープルの皇帝が戴冠されるその日に、ある習慣が古くから行われていた。この最大の栄光の時に、ひとりの石工職人が四色の大理石の見本をもって、自分の墓石(つまり皇帝の)にはどの色が気に入ったか尋ねたという。
つまりこれは、皇帝の頭の中に死の意識を刻み込むことで、この世での皇帝の栄光を制御し、皇帝を謙虚な存在にさせることを狙ったものであった。

Memebnto, homo, quia pulvis et in pulverem revertevis.

「人間よ
忘れるな。人間は、土から生まれ、また土に還っていくのだ。」

(『地獄と煉獄のはざまで』 石坂尚武 p.456)

ルネサンス研究会(7月初頭)に出席刷するまえには、春先4月頃に献呈していただき頂戴した石坂先生の著作を読んでいた。このことは、今日的な世俗権力、公権力に近しい人には有効である教訓、例えば話だと思う次第









ルネサンス研究会から帰るときに持参していた本書を、まだ未読であるという研究者の先生が観たいということで電車を待つ時間お貸しした。
ぜひ夏期休暇なども利用して本書から当時の心性、変わらぬ心性、鑑みるべき心性と例え話をみてみてはどうだろうか。献呈していただいた石坂先生には感謝いたします。





思考の潜勢力 論文と講演
ジョルジョ・アガンベン
月曜社
2009-12




「...さて『思考の潜勢力』に収録された1990年の難解な長編論文「パルデス-潜勢力のエクリチュール」である。「難解な」と思わずいってしまったのは、タルムードのハガダーからのこの論文が書き起こされ、それが全編を解く鍵となっているからである。

そのハガダーとは、パルデス(楽園)に入った4人のラビに関する話で、ベン・アザイーとベン・ゾーマを待ち構えていたのがそれぞれ死と狂気であったのにたいして、他の二人、アヘルは楽園の木の「若笛を切り」、アキバは楽園kら「無事」でてきたのである。そこにはいかなる寓意が込められているか」
(P.188 イタリアン・セオリー J.デリダを読むアガンベン アガンベンを読むデリダ)

宮古島で風雨で外に出られない時や、夜波の音を聴きながらこの項目を読んでいた。

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窮極の認識への到達をこの寓意は、死、狂気、そして「若笛を切る」「無事」に出てくる、とアガンベンは書いている。
はたしてこの「楽園」とは我々がどのように考えるべきか。・・・・死に至らしめる楽園(窮極認識)とは。
私には今までの読書および脳を含む身体的な限界でのみこれを想像するにとどまっているのだが、・・・この章は実際お読みいただくほうがいいのだが、・・・
実際には発音不可能なヤハウェにせよ、パルデスにしてもおそらく他の概念では再構成可能なものとしかならない。


トーラーは、三田メディアセンターの貴重書展で観ました、またセム系一神教を解釈する際にユダヤ、キリスト、イスラームの差異と共通点も一応学んで何科目か単位も持っておりますが、カバラやヘブライ系のことはあまり理解できておりません。聖書考古学は学びました。
ルネサンス研究会で伊藤先生にお会いしたので、ピコが惹かれたカバラはどんな感じだったのでしょう、とざっくりすぎる質問をしてしまいました。
この寓話がもつ意味をもう少し考えたいと思う。

自然の豊かさ豊穣さ、美しさから得る神的なもの、
あるいは、厳しさ過酷さから得る神的なもの、
またあるいは、星の動きや天体などから不変的なものを感じ観測をした人...
・・・・

備忘録として。


写真は庭のニュード―ン。

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駐日英国大使館で行われた < Innovation - Cirular Connectionイノベーション ロンドンと東京を繋ぐ人と仕掛け >スペシャルトークショーにお招きいただきまして、出席参加してきました。
このイベントは2015年の年間を通じて行われているパートーナーシップのキャンペーンで、2月に開幕式典がありました。 そのときの様子は拙blogにも記載しています。(2015年2月)
Innovation  is GREAT 〜英国と創る未来〜 18世紀の蒸気機関から自転車、航空機とイギリスでは多くの発明がされてきました。(紹介動画は公式の英語版ですがわかりやすいです)



今回のスペシャルトークショーでは、主に工学とデザインに焦点をあてたもの。つまりよりハイブリッドな工学とデザインがイノベーションの中では必要であり、これから求められていくもの、現に求められつつあるものだということを両国の取り組みについて紹介するものです。

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日本には工学とデザインをともに学べる環境は今はなく、それぞれの分野は離れたものとして考えられています。しかし、高い技術が活かされるとき、人は高い技術や使いやすさを何で判断され、支持を得ているのでしょうか。おそらくそれが、デザインなのではないでしょうか。シンプルなものは使いやすくなければならず、かといってシンプルだが単純な性能ではそれはイノベーションではないでしょう。

工学の技術をクリエイティヴなものとしてデザインし、使用者、一般にアピールし受け入れられるもの。
私にはそう思われました。つまり高技術なだけでなく、それ自体がグッド・デザインであるかどうか。
日本の製品は高度な技術を持っていますが、それをマーケットで適正に売られているでしょうか。一時期の家電製品などが機能主義すぎて、結局使わない機能だらけになる問題。そして部屋や建築、都市、空間、パブリックな場にあうデザイン性、美学だけではなく機能性や使いやすさ、ユニバーサルなデザインであるかどうか。

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英国は常に「驚き」を与えられるものを作り出し商品化されブランド化してきました。ダイソン、WWW、カーボンファイバー。産学民の強力により、学術教育(ケンブリッジ、オクスフォード)がバックボーンを持ちます。



ロンドンは多様な人々によって成り立つ国際都市であり、多様性が新しいものに力を与えるのではないかと思っています。
違う価値を作り出すには既成概念を問う必要があります。

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ロンドンオリンピック開催時、ロンドンは都市として評価されたような効果を東京で成功させるためにはデザインは必要なものだと思われます。
英国人がデザインした場所とした例としては代官山のTUTAYAがあげられました。

技術者がデザインを学んでいれば新しいものとしてツールをつくる可能性が高くなり、デザイナーが技術を知っていれば逆もまた然りである。これからはよりハイブリッドな技術者、研究者が重視されていきます。

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多様性の例。ある九州の畳会社がヨーロッパの市場向けになにかいぐさを利用できないかとヨーロッパの人に尋ねたとき、畳のままでは売れないが、日本のいぐさ(たたみ)を使ったよりナチュラルな素材のヨガマットならば売れるということが一例として話されました。


私がその話を聞いたとき、次のように思いました。全世界的にヨガはブームですが、欧米のヨガマットはゴムやシリコン、プラスチック的、化繊などが主であって、それらは中国製でも安価につくれる。しかし、ヨガを志向する人はより自然的な身体性と運動環境、精神的なリラックスを求めているのであって、それならばいぐさで作った日本の歴史ある畳のほうがより本物志向であると思うようです。何が新しいか、何がよりよいものかは、使い慣れてしまった感覚では思い出せないことがある、そういった多様性を持つ必要があるでしょう。
内的な志向は拡大するようにみられがちですが、その閉塞感は長くは続かないでしょう。
多様なものから、新しく、伝統のみなおしから新しさが生まれたり、ミクスチュアされる中で新たな「当たり前」「技術」となって使われていくのではないでしょうか。

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教育とデザイン界の重要性は2月に続いて繰り返されていました。
先に紹介したようなハイブリッドなデザイナーは少ない。工学とデザインをどのようにつなげるのかが鍵となります。ロンドン-東京-NYを繋ぐものとしてパートナーシップを持ち、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート、東京ではその中心は慶應義塾大学が担います。

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これは私見かつこの数年工学系の方や学生と話すなかで私が言っていたことでもあるのですが、すぐれた発明や新しい理論は延長概念の外にあるのです。
デカルト的な座標軸から一度離れてみる必要があり、より大きく、より小さく、より早く、より容量のある、より・・・・more than の比較や世界観から距離をもち、とらえなおす必要があるのだと思います。そして、なんとなく自分に足りないものを考え始めるひとも多いのです。

(余計なことかもしれませんが、ポップカルチャーを含めてとらえてみるとき、たとえば日本のサンリオ(ハロー・キティ等世界にアイコン化されているキャラクター)などはおそらく、欧米的な感覚の外にある驚きや発見を含んでいるために人気があるような気がするのですよね。ロンドンで東京で生まれたものがKAWAII(かわいい)と言われるのはcute とか lovery とかではないニュアンスを持つのではないかと....。これ以上はまた違う時に書きますが、そんな気もしてきます。欧米的ではなく、アジア的すぎもしないもの。・・・これらの再発見ははやり適度に外国にいくとか多様な人と話すとかしないと生まれないようにも思えます。日常感覚では価値は再発見できないのではないかと。)

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老舗の虎屋の例。


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スペシャルトークショーに続き、質疑応答があり、その後、大使館公邸でのコーヒー、紅茶、ショートブレッドが供される懇親会がありました。とても貴重な機会かつ、日本がこれまでの技術、歴史、美的な感覚などをいかしたものづくり、サービスをデザイン化していくには何が必要なのかといったこれまでも幾度か感じていた問いに対しての実例、経験、ロンドンでの現状を聴く機会になりました。

11月にはインテリアデザインに注目したイベントも企画されるという案も発表され、続報と取り組みに期待しています。






https://www.gov.uk/government/world/japan.ja

Taste of Britain
https://www.facebook.com/oishii.igirisu

Innovation is GREAT
http://www.innovationisgreat-jp.com/

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http://www.innovationisgreat-jp.com/blog/
Innovation of Great キャンペーンblog
キャンペーン特設サイト内《英国大使館


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ブログネタ
科学ニュース に参加中!
Innovation of Great キャンペーンblog (駐日英国大使館)よりお知らせをいただきましたので拙blogでもお知らせします。

NEWS:ビッグデータロードショー開催の背景

http://www.innovationisgreat-jp.com/blog/background-of-big-data-roadshow/

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イタリアン・セオリー (中公叢書)
岡田 温司
中央公論新社
2014-02-24

読書メモとはいえ、話題が散乱しそうだったのに、別記事に。
マッシモ・マッチャーリとモダニズムの天使たち、この章で解説されるのはショーレムのベンヤミンの天使は、根本的に「メランコリー」のかたちをとる。

カッチャーリの『必要な天使』第2章では
もともとギリシア、ネオプラトニズムの伝統において天上界における私たちの身分であり、根源のイメージでありう、神と地上のわれわれとの「仲介的存在者」であttからである。(そのため悪魔とあらゆる意味で区別される。
さらに、ソクラテスが対話篇で用いるダイモンも、今日的な感覚でいうところのデーモンとは区別され、これらは、仲介し不死なるもの、神々の血、自然の法則など従来の知に加ええた、本当のところ何なのか、言論で解決できる成熟した、ロゴスを共有できる場を目指した上昇ベクトルを有した「中間者」なのであろう。

我々の中にもいるはずである。
煉獄や死後来世、あるいは義務以上の保守思想に単に迎合せず、書籍・・・過去の先人、あるいは先生がたとの会話のなかで見出せることが。

岡田先生の著書を、成田の行きかえりに読んでおり、改めて気になったところを読書メモ。

ルネサンス研究者でのセレーナ博士のスピーチはどこかアガンベンとエスポジトの中間、あるいはネグリ的なものを感じつつ、大変興味があった。

「哲学とは何か」

私たちの生活とはかけ離れている?もしくは出会う機会が失われている?
最近、理系(というくくりはすきではない)が学問の府として不毛な議論があるうようだが、あいかわらず二者択一なのだ。それがもっとも問題である。
いうまでもなく、海外の大学とは、広い知識を包括的に学ぶ研究ができ、フランス、イタリア、(国際バカロレア)は高校時代に哲学(フィロソフィア)は必須なのだ。

もし公立一貫校、一貫校、私学であっても数学史を選択カリキュラムとし、理系と法学部、文学部の一部の学科は大急ぎでフマニタスについて習得できなれば、狩りに海外にでたところで話題に事欠くと思われる。

日本のクラシックは、ほぼ小3からの受検勉強え習い事もピアノもスポーツもとん挫している状況だ。

文化とは継続性であってはたして。声だかに「日本文化」「一番すぐれている」という意見が多大のようだが、根拠がわからない場合が多い。しかしながら、日本の優れた技術を批判する方たちは、愛着をもめて使っているのだろうか。

アガンベン、カッチャーリ、エスポジトに関しての記事は読む方に夢中になってしまい、今年は読書メモを残せていないほうが多いです。

(同理由でアリストテレス講座、こちらも別に記事で)

8月16日夕方より、プラトニズムおよび、対話篇「ラケス」「国家(ポリテイア」の勉教会をします。
担当者は私。
実施は都内ではありません。メトロで30分くらいの場所です。今までTwitterやブログ経由でもこの話題に関心がある方はメールフォームまたはTwitter DM等でお問い合わせください。夕方より。
ラケスをご持参下さい。一読。国家は必要に応じて資料やこちらで作図しものを、(つくらねば?)
本来の意味のシンポシオン的に考えておりますが。少数定員制。
資料代と講座中の紅茶代で数百円のみ頂戴します。


例外状態
ジョルジョ アガンベン
未来社
2007-10



花とインテリア 華道 アレンジメント作品ブログトーナメント

作成しました△


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今日、学術 芸術 パフォーマンスアートを含めアーカイブ化が進んでいる。
テレビ、ラジオ公共放送がはじまり、90年。

http://www.nhk.or.jp/bunken/forum/
JOHAからの情報でNHK文化研究フォーラムに参加してきました。
(事前申し込み制 定員制)

かつてメディア(マスメディア)は、人々が直に接していない日常や事柄を媒介し、共有するものとして機能した。
視聴率が80%を超えるような時代は、むしろマスメディアによって「国内」があたかも統合されているような感覚だったのではないか。と思うことがある。
視聴者もライフスタイルもかわり、多様となり、雇用形態もさまがわりした。
生活圏と職場ははなれ、職住分離もおこる。

さて、二つ疑問があったので書き留め、のちに追記したい。1952年の実験放送時の舞台セットやカメラがとらえるものは、2009年11年のドラマにもつうじる、むしろ1952年が雛形があるというお話。

反射的に、ではこの映像を観る側(視聴者)は、同じような心性で眺めるのだろうか。
それともあまりにも変化した日常環境やテレビを取り巻くなか、「変わらない日常のようなもの」を、ドラマをとおして、「変わらないのですよ」、と伝えたいのだろうか。
実際には変わっている事柄が多いのだが、変わらない、という統合の作用と了解があるのではないか、とも思った。しかもそれは、指摘されなければきわめて自然なのある。

アーカイブ化は70年代以降はまだこれからであるというし、制作全てにかかわる美術というセクション、メイキングと制作日誌を兼ねた、スタッフとキャストのコメントを必ずのこすようにする、こうしたことが習慣になるだけで、アーカイブも残しやすくなるという話をきけた。

アーカイブとはまさに、自覚的に記述し記録しその価値を保存する。
だから何を残して何を保存するかということもある程度決めなければならないだろうし、・・・大抵の場合、必要なときに必要な情報がないため、本来は「残余の物」と思わしきものが本質だったりもする。
つまり我々に、とっては自明なのだが、すぐにそれは特殊なものへ移行するし、自明なもの日常なものほど記述保管されないからである。

アーカイブはいまさまざまな団体が取り組んでいる。
公開はいくつか段階をもうけつつ、公開利用しやすくすべきだ。
もし税や視聴者から調査保存されたものは原則公開である。(国際標準的にはそうである)
パブリックだからある程度意味があるのであって、こうしたことなしの10年後を想像すると、アーカイブ事業の推進は急務のように思う。
オーラルヒストリー学会会長の好井先生も話されていたが、NHKは視聴者モニターを募集してもよいのではないか。

NHKオンデマンドなどもシステムはあるが、まだまだ利用は少ないだろう。
しかしリアルタイム性質(要するに番組表の進行どおりのリアルタイム)と、再放送、リクエスト放送、もしくはオンデマンドのコンテンツなどが必要だろう。オンデマンドが利用されるには、公式のPVなり予告が必要になる。
それらは公式故にシェアされるし、おそらく国外を超えて日本の番組が発信されることになるのだから、些細なことだが、実のところ効果は高い。そういうコンテンツはたくさん・・・とても多く持っていると思う。
これをどう生かすか、単に埋もれされるか。
番組販売を行っている地方局のほうが斬新さをもっていると思うのはそういうことでもある。

オーラルヒストリーの立場でいえば、それは「証言」という固定されたものではなく、ここにもあそこにも事柄にかかわった人がいる、彼らはどんな体験をし、どんな思いが残り、そして今に至っているのだろう・・・というまさに当事者性に迫るのであって、質的調査とはそういうものである。
オーラルヒストリーから、アラウンド、周辺とその当事者がもつ生きた体験が形成されると思う(されねばならないとうことではない)質的調査というのは、数字には反映されにくい、クオリティの部分である。
例えば、震災後の鉄道復旧率が80%と仮にされたとしても、実際には、断線している部分も多く、80%回復という意味にはつながらないことなど。
プレスが行数や秒単位、分単位で縮約するものを、なるべく生で語る。

この日は東京大空襲で自宅が焼けたという体験をもつ祖母の入院見舞いに行ってきた。

今年の正月は、空襲後にどのような足跡で都内から逃れ、そして東京にもどったか。
直前の都政や批難(疎開)とはどのようにリアルタイムで変わっていったのか、
そういったことをあらためて詳細に聞く機会があった。

オーラルヒストリーで私が関心をもつのは戦争に関すること(あるいはジェノサイドにおけるメカニズム)、(黙殺されがちな)子どもたちのライフストーリーである。




行事についてはまた追記します。


2月のキーワード (3/3)

” Innovation is GREAT ” 英国と創る未来2015...

舞台 つかこうへい 〈ロマンス2015〉(於:紀伊國屋...

” マッチ箱展 ” (於:バブーシュカ 下北沢)

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モノローグ・読書メモ。

アリストテレス全集(新訳)の「カテゴリー論」「命題論(解釈について)」を読んでいました。
朝日カルチャー・古代ギリシア哲学史 アリストテレス論理学の成立を受講しています、西洋哲学史は古代から20世紀まで2つの科目+一般教養での新プラトン主義読解について+専門科目でのレヴィナス、フッサール(と関わるホッブス、カント)を履修していますが、アリストテレスについては教科書的にしか学んでいないためです。試験では論理学(カテゴリー論)、倫理学では「ニコマコス倫理学」は必ず通る道ですが、どうも何度読んでもプラトンとの違いが明確にならないか、なったと思っても自分の臆見が入り込んでしまい、釈然としなくなるの繰り返しになることが多く、一度テキストを読むためにも専門研究をしている先生の話を是非聞きたいと思いました。
納富先生によるアリストテレス講座です。

中世の思想史に接していても、思ったのですが、自分の大まかな了解がどうも、アリストテレスとプラトンは調和している説をとっているポルピュリオス以降の解釈がだいぶん下敷きになってしまっていると思いました...
何かを理解する上で、差異は明確にしておくべきなのですが、どうもこのあたりが問題のようです。
初心に帰って、註解以前のテキスト理解をしたいところです...。

「エンドクサ(endoxa)とファイノメナ(phainomena)」についての解説がとても解りやすかった。
これは自分では明確にできていなかった(といいますか上手く〜であると述べられなかったところ)部分だと。

ドクサ(臆見)を問うことで、より明確な言表を求め、それを通じて真理探究を行うというのがプラトンの基本的な学問態度だとするとやはりアシストテレスの言説とは大きく異なるのはここなのでしょう。

「わかっているような気分」やはりこれは雑すぎる認識で、理解とは程遠い。
自分で認識して正していくほかない、と思う次第です。


読書を進める中で、新訳版の全集で日本におけるアリストテレス哲学受容について書かれている部分があった。

「時代がここまで来ると、はるか彼方の極東に位置する国も無関係ではなくなっている。コインブラからはイエズス会士たちがアジアへと派遣されたからである。(略)
コインブラで学び、そのコレジオで嘱望された教師でもあったペドロ・ゴメスは、1583年に日本を訪問し、イエズス会巡察使ヴァリニャーノの要請により豊後の国で活躍した。同年10月21日には彼の監督のもと日本で最初の正式な哲学課程が開始される。さらにゴメスは、哲学と神学に関する日本独自の『講義要綱』(Compendium)を1593年に完成。95年にはその日本語版がつくられたが、これはアリストテレスの魂論と天界論の概要をある程度まで伝えるものだった。天正少年使節の一員だった伊東マンショも、天草のコレジオでゴメスの『講義要綱』を学んでいたと伝えられる。
この経験が、日本の人々とアリストテレス哲学との最初の本格的な遭遇である。

この遭遇と明治期以降のアリストテレス受容との関係については、まだ多くの調査と議論が必要だろう。」

(「歴史の中のアリストテレス」 『アリストテレス全集1 カテゴリー論 命題論』(P.428-429)






天正遣欧の時代(1582)から単純に明治期まで(!)この経験は断絶することになる。
当然ラテン語読解と哲学の講義要綱の伝統も
ルネサンス、および12世紀、それ以前の思想史においても、学術隆盛は開明的君主とその気風のもとに文化受容と探究をした有力者層の存在が大きい。
少し話がそれてしまうが、そうでない場合は知の水脈が枯渇してしまうことも多々ある。
こうした事柄が比較的容易に起きてしまうことが多々あるがゆえに、今日的な復古的態度に対しては憂慮してしまう事柄が多い。

実際のところ、禁教令とはこうした学問的真理を遠ざけておくために(あるいはその方法を得ることや人々に浸透させないために)出されたものなのではないだろうかという推測もわいてくるが(今のところそういった言及は一般にはされていないと思う)テキストに戻り、カテゴリー論と命題論について読もうと思う。
命題論は、そもそもは「解釈について」という意味を持つが、ドイツ語訳から得ることが多かった日本ではこれに倣って「命題論」というタイトルを持っている。しかし、将来的にはこのタイトルが変わるであろうという解説も全集1の解説には付されている。





帰りにトポス論、ソフィスト的論駁を書店購入しました。

初期ストア派断片集〈1〉 (西洋古典叢書)初期ストア派断片集〈1〉 (西洋古典叢書)
著者:ゼノン
販売元:京都大学学術出版会
(2000-12)
販売元:Amazon.co.jp






『知の歴史』日本語監修者の中川純男先生が、2010年春に61歳で亡くなられていたことがわかりました。

ある機関紙にてこの本を紹介させていただきましたが、先日図書館にて『西洋思想における個』という論文集を読んでいる際、まさにその論文集に関わっているさなかに亡くなられたことを知り、大変ショックを受けました。

知や言葉は、受け継がれていくものと私は常々思っています。
今年の文学部長のお名前が変わっていたので、春から中川先生はどうされたのだろうか、退官になったのかしらと一人で気にしていたのですが、・・・・・

直接講演(「アウグウティヌスとその時代」)でお話と言葉を聞いた経験もあり、改めてこのことを書き留めておきたいと思います。

<a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E5%80%8B%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A6%82%E5%BF%B5-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E7%B4%94%E7%94%B7/dp/4766418085%3FSubscriptionId%3DAKIAIM37F4M6SCT5W23Q%26tag%3Dhgnews-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4766418085" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41JO4jyGySL._SL160_.jpg" alt="西洋思想における「個」の概念" border="0" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E5%80%8B%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A6%82%E5%BF%B5-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E7%B4%94%E7%94%B7/dp/4766418085%3FSubscriptionId%3DAKIAIM37F4M6SCT5W23Q%26tag%3Dhgnews-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4766418085" target="_blank">西洋思想における「個」の概念</a><br />著者:中川 純男<br />販売元:慶應義塾大学言語文化研究所<br />(2011-03)<br />販売元:Amazon.co.jp<br /><a href="http://blogpark.jp/review/asin/4766418085/" target="_blank" title="西洋思想における「個」の概念"></a><br style="clear:left;" />

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記事に少々書きましたが、2/7(日)の石鍋真澄先生による「特別記念講演」(東京都美術館)に参加しました。大変貴重な講演でした。

いろいろとノートにメモをとりながら2時間を越える講演を聴くことができました。

これから美術展へいかれる方も多いと思いますので(2/25にTVで紹介番組が放送されるとのこと)石鍋先生による「おすすめ10点」を掲載しておきたいと思います。

1. ソドマのレダ
2. ヴェロネーゼ 「魚に説教する聖アントニオ」珍しい主題である
3. ブレシャーニ 「ヴィナースとふたりのキューピッド(クピド)」
4. サヴォルド  「若者の肖像」・・聖人像か?
5.バッサーノ   「春」
6. ヤコボ・ズッキ 「アメリカ大陸の寓意」
7.ティバルディ   「幼児礼拝」
8. プルツォーネ  「聖ヨハネと聖アンナのいる聖家族」
9. グレルチーノ
10. アンドレア・ザッキ


参考にしながら、講演後閉館まで見て回りました。
わたしが魅かれた作品は、サヴォルドの「若者の肖像」とグエルチーノの作品です。バロックからリアリズムへの静かな転換を感じるような・・絵画でした。
またやはりカラヴァッジォは、絵画的でありながらこの実存感覚はすごいものがあります。目の描き方が・・・ここまで描かれたものに生命を与えるのだろうか?

イタリア・バロックについては、若桑みどり先生の著作もお勧めです。私は、イタリア・バロックについては遠山公一先生の授業でベルニーニとカラヴァッジョ、カラヴァッジオ派について学んだことがありますが、イタリアバロックの作品が見られる貴重な機会だと思います。
講演では、支倉常長の肖像が、一般公開されていない場所にかけられていることも触れられ、ぜひ会場にいかれた方は、じっくりと見てみてほしいと思います。

会期中できればもう一度脚を運びたい展示です。

6月7日、日本をテストします---というキャッチコピーはいかがなものか。四谷大塚の現在の経営母体はたしかスイミングスクールなども経営している筈です。中学受験の過熱は、少子化で大学受験が「産業・ビジネス」にならなくなってきたため、市場がシフトしているためと思われますが、それにしても、教育の目的自体は、再生産、再労働者化ではないはずです。
「日本」をテストします、というキャッチコピーの中には、産業的ナショナリズムが見え隠れしている。というか露骨に感じる。親の不安感を利用しているように思える。たしかに、生活を成り立たせることは重要だし、そのように子どもを訓育することも大切ですが、それがいわゆる「教育」の意味でも目的でもありません。

自立自律、自主自尊は、競争だけから生まれるものではない、競争には、共生概念が付随しなければならない。
それよりも自己認識が必要で、そのためにテストは必要だとは思う。
しかし、あからさまなキャッチコピーだと云わざるを得ない。

将来的に必要な、数学や英語は中学入試では問われない。多くのオープンキャンパスなどにいくと、私学中の先生たちは、英語は中1から教えるから今は受験勉強しなさいと(きまった)事をいうが、実際は、私立中進学時には中2/中3レベルの理解がないと、進度に対応できないこともあるのではないか。
公立中の場合でも少なくとも例えば英検5ー4級レベルは必要である。


子どもを「善く」したいと思うのが教育(教え育てる)の骨格であって、子どもに「楽」をさせたい、「得」をさせたい、と思うのは功利主義のよくない部分の集約でもあるのに、余り「親」も気がついていないのではないか、と思うことが多い。

自他の利益が反転して、反対するような「正義」は「正義」ではない、それは最低限の法的正義であるという東大・法哲学者の井上達夫先生のお話を思い出しながら。

実は、教育学自体は、日本ではあまり問題にされない。

村井実先生の「教育学入門」「善さの構造」は親、教師など必読の本だと思っている。


東京大学公開講座の内容と感想はまた後日、今書かなければならないことがあるので、それが一段落したらできるだけ早く書きたいと思っています。
「法という企て」(法哲学/井上達夫先生)はぜひ読みたい。松島斉先生の「金融と特異」では「非日常としての経済」が大変参考になった。













法という企て
井上 達夫
東京大学出版会
2003-09

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さて、4/18は「人間の不思議と魅力」−特異を追い求めるーということで、
岡田教授(情報学環・認知心理学・認知科学)、橋本教授(科学史)によるルネサンスの科学・天文学とティコ・ブラーエについてとコペルニクス、ケプラーを交えた考察、そして岡本准教授による自然科学の歴史、アインシュタイン来日時に反相対性理論をとなえた土井不曇(どいうづみ)と「特異」というテーマで3つの講演があった。

まず、岡本准教授による講演では、当時日本で起きたアインシュタインブームは、その「難解さ」によって”世界で解るのは12人(10人)と言われ、来日直前にノーベル賞受賞がきまったというが挙げられた。もちろん12人、10人というのは「比喩」であって、キリストの12使徒や釈迦の弟子10人になぞられたものである。アインシュタインはといえば、ヘブライ大学建設のための資金を集めており、南アフリカや中国、アメリカなど日本以外にも訪れている。

さて1922年11月25日から12月1日まで東大で講演したアインシュタインに、東大大学院生で旧制一高講師であった土井不曇が反相対性理論を主張していた。これを指導教授であった長岡半太郎は阻止しようとした。若い世代が「世界的科学者に反論して失敗したら「日本」の失敗になってしまうと考えたようだ。
しかし、土井は以前からアインシュタインに手紙を書いており、反相対性理論についても書き送っており、アインシュタインのほうから、土井に会いたいという申し出があったため、講演時に質問、議論となった。

さて反相対性理論自体は、珍しいものではなかった。当時アメリカでも反論がおきていた。土井の反相対性理論については、石原純が専門的な批判をしており、愛知敬一による反論の準備もあった(が土井はこの学会を欠席)石原純は私生活でスキャンダルをおこしており、土井は専門的批判をききいれなかったらしい。そしてアインシュタインが来日したときに常に同行したのは石原であって(石原は科学者でありドイツ留学経験もあった)、どうやら新聞メディアはそういう意味でも「追って」いたためにさらなるブームになっていた部分があるようだ。このあたりの解説は社会学的な部分もあり現在の「ブーム」と似た部分がある)

長岡半太郎は、第一世代の科学者であり、相対性理論を理解したうえで反論する土井に圧力をかけたというわけではなく、どちらかといえば「日本を背負った学者である」というアイデンティティを持っていた。
土井は、科学的なことで業績をあげたいと思う「世界の中の自分」というアイデンテティをもっていたために、指導教授の反対をおしきっても「持論」を主張していた部分がある。

アインシュタインが1922年に行った講演時、湯川秀樹、朝永振一郎はまだ中学生であった。この講演とアインシュタインブームでは土井を介して、日本の学会の状況の「特異」さ、世代間の違いなどがみえてくる。

土井はアインシュタインに2日間にわたって、講演会の壇上で説明をうけ、黒板に図をかきながら説明されたという。
最終的に、土井は反相対性理論をとりさげた。

このエピソードでもわかるが、質問や異論反論というのは内容を理解していなければできないことであるし、反論自体は悪いことではない、アインシュタインもまた反論してくる土井という大学院生に熱心に説明した。

湯川秀樹や朝永振一郎らの世代は、科学が身近になってきており、第一世代の19世紀にはじめて自然科学に触れた世代とはことなってきた。
この世代になって、実績があがってくる。
森本先生の話は情報量も多く、当時の状況や今後への問いも含まれていたように思う。

いつも思うのだが、日本は外からきた学問や制度を取り入れるのはとても早い。西洋は伝統があるために、容易には受け入れられないことも多い。
ただ、進歩した技術を「どのように用いるべきか」「何のため行うか」「害悪はないか」という吟味がされないままだと結果的によい社会・世界(環境も)にはならないこともある。そういったことがこの先でとわれていることだと個人的には思う。


橋本教授の話では、16世紀の天文学者ティコ・ブラーエ(デンマーク生まれ)の新星発見を中心に、それ以前の考え方、プトレマイオス、アリストテレス、そしてコペルニクスにも触れて、ルネサンス時代の科学を紹介した。

ところで、この新星は中国でも観測されていた。古代から天文観測はされていたが、観測者は官僚であったので、世界や宇宙の成り立ちという関心には至らなかったようだ。ティコ・ブラーエから、本格的な観測が始まった。

ところでコペルニクスはアラビアの天文学者たちの考え方を参考にしたという。
私たちが使っている数字もアラビア数字だが、科学分野にはアラビア語起源のものが実はとても多い。東方、西アジアからアジアのほうが文化面が発達していたというのは実はあまり知られていない。たとえば、現在では「西洋」の文明の起源としてとらえられるギリシア文明も、小アジアや東方古代文明にもっとも接していた部分であったことが強く、アルファベットもフェニキア文字から発祥している。

自然科学の発達がともなって19世紀には学問は細分化された。それまではたとえば、幾何学、数学、哲学は一緒に学ぶものであったし、法学は文法(修辞学)数学と一緒に学ぶものだった。画家は幾何学や解剖学、歴史などが求められた。
現在でもたとえばデンマークなどでは、大学生は2つの分野を専門的に学ぶことが求められている。たとえば「科学」だけではなく「哲学」も知っているべきだとされている。知識を得て、どのように活用するのか、判断するのかが重視されている時代になっている、というよりもそれが求められる時代になっていると考えられる。
人が単独では存在しないように、学問や研究、分野も「関係」の中で成り立っているのだから、「知っている」分野が広がると「了解」することも増えてくるように思う。

長くなってしまったので、認知心理学、創造性の講演については後ほど追記します。
人間と動物の違いとは何か、という問いから、人間と機械やロボットとの違いは何か、機械やコンピュータの普及とともに、こうした問いも増えてきたように思います。それは教育にも関わる部分が多いのです。

公開講座の休憩時間が20分になり、1日の講座が3つになってしまったがやはり折角だから4つくらい聴講したいと思ってしまいます。
描かれた技術 科学のかたち―サイエンス・イコノロジーの世界描かれた技術 科学のかたち―サイエンス・イコノロジーの世界
著者:橋本 毅彦
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